サイト更新情報

10/29/07

「レブレヒトの迷走-2」

.........私がナイーヴすぎるのかもしれませんけれども、カルロス・クライバーとテンシュテットなどの例外を除いて、ほとんど全てのアーティスト達を単なるプロモーターの操り人形、あるいは金や権力の亡者とおとしめる、「レブレヒト史観」には同意できないものがあります。レブレヒトの文章には、無関係の話、あるいは根拠の薄弱なうわさ話をサブリミナルのように紛れ込ませて、読み手にアーティストやレコード会社の悪いイメージを植え付けていくようなところがあります。そういった手法が、今回の騒動を招いた訳です。

「巨匠神話」にも、カラヤンが、フェイス・リフトをしているような事をにおわせる文章が関係の無いところに突然登場します。その根拠とやらも全然根拠になっていませんし、第一、彼がフェイス・リフトをしていたとして、そのことと、本のテーマである音楽ビジネスの腐敗は別次元の問題の筈です。

書き手として力量なのでしょうか、彼の本の影響力というのは、かなり大きいようです。ちょうど一年前になりますが、とある掲示板で、2年後の引退を発表したアンネ・ゾフィー・ムターを厳しい言葉で批判されていた方がいました。その方は、「自分はアメリカの音楽事情に詳しい」とし、参考としてレブレヒトのサイトを引用し、DGが「お色気路線」でムターを売り出していることを強く批判していました。引退についても、好意的でない、うがった見方をされていました。DGがそういう路線に立っていることについては同意できましたが、ムターという1人の優れたヴァイオリニストのキャリアや全価値を否定するような論旨だったため、以下のように発言いたしました。他サイトの掲示板からの引用になりますが....自分の発言だから、まあいいでしょう。

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音楽業界にレブレヒトが指摘するような事はあるとは思います。ムターやティーレマンやゲオルギューがそういった流れに乗っているのは事実でしょうね。ですが、物事をそれだけでものを見てしまうと間違うと思います。それは、ジダンやベッカムをナイキとアディダスだけで捉える見方が一面的なのと同じです。楽器弾きにとっては、利害関係、金銭問題、パブリシティが関わっていても、やはり根っこのところでは音楽、演奏することが一番大切なのです。子供の頃から何十年もそればかりやってきているわけですから。レブレヒトにやり玉にあげられていたカラヤンですが、個人的に親しい友人に、「なあ、皆は自分のことを権力者だとか、金銭亡者だとかいろいろ言う。しかし、結局は自分はこの右腕一本だけなんだ。これで音楽を作っているだけなんだ」と寂しく笑っていたそうです。この発言も、レブレヒト的視点にたてば計算の一つ、とする見方もできるかもしれませんけれど、根っこは音楽、ということに嘘はないでしょう。
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私は、レブレヒトが、アーティストにとって一番大切な、この「根っこ」の部分を認識しているとは思えませんし、それ故、アーティストという存在を本質的に理解できないのでは、と思います。彼の記述に、アーティスト達への尊敬の念があまり感じられないのはそのせいでしょうか。この点では、彼はパパラッチやゴシップライターとあまり変わらないと思っています。

今回の事がいいクスリになれば良いと思います。





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10/28/07

「ノーマン・レブレヒトの迷走-1」

今年の7月、Intermezzoのセクションに、「「レブレヒトの嘆き」ークラシック音楽は死んだのか?」という一文を掲載しました。これは、ノーマン・レブレヒトのLife and death of classical musicという新刊をとりあげたものです。偶然ながら、Kevin Bazzanaも同じ本を批判する記事を書いています(globe and mail)。彼の場合、主にグールドに関する記述に誤りに焦点を絞っていたと記憶しています。私の場合は、本そのものの事実関係の誤りではなく、レブレヒトの昨今の保守性、視野の狭さを批判しようとしたものでした。

先週の報道によれば、この本の英国版(Maestros, Masterpieces & Madness: The Secret Life and Shameful Death of the Classical Record Industry)
に、Naxos社に対する記述に多くの誤りが含まれていることがあきらかになり、店頭から回収、廃棄処分されるようです(http://www.nytimes.com/2007/10/20/arts/music/20lebr.html?ref=music)。米国版である、Life and death of classical musicは、先週、問題部分を編集しなおされて発売されたようなことが書いてあります。記事によれば、Naxosの社長のHeymann氏は、「5ページの間にこれだけ(20-30の誤り)事実関係で間違うということは、いかなるジャーナリストでも信じがたいことだ。ショックを受けた。それに、彼はレコードビジネスをあまり理解していない」と言っていたそうです。

レブレヒトの記述に誇張が多いのは今に始まったことではありません。ですが、今まではっきりと法的措置を取ろうとした人はいなかったのかもしれませんね。ここまでの措置がとられたのは初めてではないでしょうか。彼の今後の執筆活動にも影響することと思いますし、もし邦訳の計画が進行していたのであれば、これまた影響は必至ではないでしょうか。

また、「彼はレコードビジネスを理解していない」というのは、よく考えたら非常にキツイ言葉です。曲がりなりにも、音楽ビジネスに関する本を出し続けた評論家に向かって言っているわけですから。でも、昨今のレブレヒトの本や記事は、そう批判されても仕方の無い、ピントのずれたものだったと思います。

この話はもう少し続けます。

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10/25/07

「デラ・カーザの「四つの最後の歌」」

Wall Street Journalの紹介のおかげで、今まで一度もアクセスが無かったインドのような所からアクセスがありました。といっても、何がどう変わるわけでもないので、今までのペースでやっていきます。

先日、「この悲運の名歌手の歌声に耳を傾けていただければ」と言いつつ、リーザ・デラ・カーザの推薦盤を特にあげていませんでした。とりあえず、普通に購入しやすいものを一つ。

シュトラウスの「四つの最後の歌」です。
この演奏は、先頃亡くなったAlan Blythがことのほか愛していました。シュトラウスの死後まもない1953年、生前の作曲家が最大の信頼を置いていたベームによって録音されたこともあって、海外ではスタンダードの地位を獲得しています。その割に、二つの点で通常と異なる点があります。まず、テンポが大変速く、例えば、「夕映え」は6分を切りそうなテンポで演奏されています(ノーマン・マズア盤は10分近く)。実は、この速いテンポの方が、「アンダンテ=歩くテンポで」という楽譜の指示に近いのです。他の曲もアンダンテかアレグレットです。

「カプリッチョ」以降のシュトラウスは、感傷主義ではなく、モーツアルト的な単純明快さを目指していましたから、この曲は、彼の他の歌曲と同様、このようにすっきりと演奏された方がシュトラウスの意向に沿うと思います(とは言っても、私は遅い演奏も好きです)。もう一つの違いは、曲順です。通常は、「春」「九月」「眠りにつく時」「夕映え」ですが、ここでは、「眠りにつく時」「九月」「春」「夕映え」という、初演の曲順で演奏されています。録音における曲順の歴史的な変遷については、こちらのblogに記述があります(http://numabe.exblog.jp/m2007-05-01/)。

「四つの最後の歌」はもっとも頻繁に歌いました。オーストラリアと日本に行った時はいつも。どういうわけか、一度も退屈したことがありません。というのも、あの曲集には私にとっては魅惑の魔法があるのです。私たちが失いつつある、たぶん既に失ってしまった憂愁の世界をまだ持っているのです。」

以上はデラ・カーザの引退後の言葉ですが、まだ若い頃のこのスタジオ盤での歌いぶりには、「憂愁の世界」というよりは、むしろモーツアルト的な明るさ、古典的な清澄さを感じさせます。彼女が「春」でメリスマ風に音を変えて行く箇所も、まるでリコーダー奏者がタンギングするかのように優雅で軽やかです。「夕映え」でも、ノーマンが歌うと全世界が滅亡するかのような気分になりますが、デラ・カーザが歌うと、マルシャリンがオクタヴィアンとの昔を思い出しているかのような雅びな佇まいがあります。この後、いろいろな歌手がこの曲集を歌いましたが、こういうシンプルな歌い方をする歌手はいませんでした。ベームの指揮も、室内学的なもので、モノラルであるにも関わらず細部まではっきりと良く聴こえます。後年の他の指揮者達の録音に聴かれる耽美主義的な要素、世紀末的な要素はありません。そういった意味で、スタンダードの地位を獲得しつつ、大変ユニークな演奏となっています。他にない素直さ、爽やかさが、この演奏を忘れがたいものにしているのでしょう。

カップリングのシュトラウス名場面集も傑出しています。「アラベラ」などは、後年のカイルベルトとの録音の方が表現に深みがあるものの、彼女が得意とした「カプリッチョ」の伯爵夫人マドレーヌはこの他に録音がないだけに、貴重です。マドレーヌのモノローグには、気品、美声、真正さ、といった彼女の美点がすべて出ています。「月光の音楽」をはじめ、ホルライザー指揮のVPOの演奏も見事なものです。

追加)

来週の日曜、New York Timesの書評が載ります。あまり熱心な感じじゃないです。

http://www.nytimes.com/2007/10/28/books/review/Kimmelman-t.html?_r=1&8bu&emc=bu&oref=slogin

Kevinの話では、再来週発表のNew York TimesのBook Sectionの「Editor's Choice」に選ばれたとのことで、それについてはハッピーみたいです。
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10/24/07

「fugue.usがWall Street Journalに言及されました」

アメリカの代表的なクオリティ紙の一つ、Wall Street JournalにLost Geniusの書評がのりました。最後の方に、((For brief sound clips and additional information on the pianist, visit www.fugue.us/Ervin.html))、とこのサイトの事が言及してありました。

http://www.opinionjournal.com/la/?id=110010774

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10/23/2007

ニレジハージの伝記、「Lost Genius」に対するNew Yorkerの書評です。
http://www.newyorker.com/arts/reviews/brieflynoted/2007/10/29/071029crbn_brieflynoted4

ところで、かつて、リーザ・デラ・カーザという美貌のソプラノ歌手がいました。リヒャルト・シュトラウス、モーツアルトのスペシャリストでした。私も、デラ・カーザにはひときわ強い思い入れを持っています。彼女は1960年、カラヤン指揮の映画「バラの騎士」(古典的作品ですね)への出演が約束されていたのにも関わらず、不条理な政治力学の中で突然降板され、エリーザベト・シュヴァルツコップと入れ替えられました。この事件は、ライヴァルだったシュヴァルツコップとデラ・カーザのその後の運命を分けたと思います。

この経緯はあまり語られてこなかったのですが、今回、詳細に調べてみました。音楽ビジネスの醜さ、業界の弱肉強食ぶりが見えてきます。これを機会に、この悲運の名歌手の歌声に耳を傾けていただければ、と思います。

Intermezzoに、「踏みにじられた「ウィーンの名花」」をアップロードしました。。


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10/21/2007

「雑感など--------シアトル・オペラのグルック」

先週は水曜日に、グルックの「タウリスのイフェゲニア」を観てきました(http://www.seattleopera.org/)。シアトルオペラとメトロポリタン・オペラの共同プロダクションで、来月末にメトで同じものが違うキャストで上演されます。演出は同じですが、歌手は二つの歌劇場で違います。例えば、シアトルでタオス役をやるのは、デッカのグッダールの「トリスタン」の録音に参加していたPhilip Joll、メトではプラシド・ドミンゴがバリトンで歌います。シアトルのイフェゲニア役はNuccia Focileで、モーツアルトやドニゼッティなど、いくつかの録音があります。イフィゲニア役には少しリリカルすぎるところがありましたが、しっかりした技術のある歌手でした。オレストを歌った Brett Polegatoも滑らかな美声です。ドン・ジョヴァンニ歌いとして名を残すかもしれません。女神役で少し歌ったMichele Losier という歌手も素晴しいメゾをきかせてくれました。Philip Jollだけはがっかりする出来で、ただ怒鳴っているだけで、音程も何もありませんでした。端役だったのが幸いでした。

シアトルオペラは、アメリカの若手有望歌手の登竜門的な歌劇場です。一昔前はルネ・フレミングが良く出ていましたし、ジェーン・イーグレンはシアトル在住ということで、今でもよく歌っています。数年前に、「指輪」のフンディング役で、物凄い声量と美声でびっくりさせられたステッフェン・ミリングは、今やベルリンやウィーンでも主役級の活躍をしています。

今回、何よりもすばらしかったのが演出のStephen Wadsworthで、伝統的な演出スタイルをとりつつ、スクリプトから一歩踏み込んで、登場人物の心理描写を見事に描いていました。ラスト・シーン、イフェゲニアが母親を殺したオレストを前にして葛藤し、最後、和解に至るシーンの見事さには感心しました。マイナーな古典劇というのは、制約が多いと同時に、自己主張できる場も多くあると思います。演出家にとってはやりがいがあるのかもしれません。今回はその最善の例でした。

公演後、総支配人のJenkins氏が客からの質問に答えてくれました。話し振りからみても、Jenkins氏としても思い入れの強いプロダクションのようです。ただ、有名オペラでない、ということで、チケットの売り上げがあまり良くないので宣伝してくれ、と言っていました。たしかに、客の入りは80%程度だったと思います。もし、ニューヨーク、シアトル近傍の方が読者におられましたら、是非ご覧になることを薦めます。素晴しいプロダクションです。

土曜日は、私のフラメンコ・ギターの師匠がカフェで定期的にやっているフラメンコのコンサートで、これも満喫しました。音楽の秋です。

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10/17/07

Washington Postの下の記事を書いたMichael Dirda氏の書評の全訳を載せました。こちらをどうぞ。
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10/16/07

Washington Postの下の記事を書いたMichael Dirda氏(1993年のピューリッツアー賞受賞者)に、記事の日本語全訳をサイトに掲載していいか、と書いたら、「載せてもらえるのは光栄」という返事。2-3日したら載せます。

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10/15/07
「WPの批評」

アメリカでも三本指に入るクオリティ・ペーパーである、Washington Postのレビューが載りました。大変な絶賛です。「Lost Geniusは、ウィーン・フィルハーモニー以上の洗練と、ボストン・ポップス以上の愉悦をもたらしてくれる......」とあります。Kevinも喜んでいました。日本のことについても少しだけ言及があります。

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/10/11/AR2007101101936.html

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10/12/07
「ニレジハージと映画出演」

ニレジハージは、1945年の「Song to remember」という映画で手の役をやっています。ただ、サウンドトラックは不可思議なことに、Jose Iturbiの録音が使われました。このサウンドトラックがきっかけで、Iturbiのレコードは大変なセールスを記録したとのこと。もし、ニレジハージの録音が使われていたら、彼の全盛期に多くの録音がなされていたでしょうね。

http://www.youtube.com/watch?v=AsHIErahbWs&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=JNzwcFihh5I


ニレジハージは、1947年、Song of loveという作品にも出演しています。この時は、彼に瓜二つだったHenry Daniell演ずるリストの演奏シーンに出演しているのですが、この時もサウンドトラックは別人、アルトゥール・ルービンシュタインでした。以下はとある映画のシークエンスですが、これを見ると、いかにニレジハージとDaniellが似ていたかわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=LxCZthMsxEQ


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10/5/07

「ニレジハージ全盛時の映像のアップロード」

来週、数日間だけ、「Soul of a Monster」の演奏シーンの映像を"スラム期のニレジハージの演奏
(1929-1944)"のセクションにアップロードしようと思っています。お見逃し無く。

New York SunがLost Geniusのレビューを載せています。
http://www.nysun.com/article/63851

NY times、Washington Post、Wall Street Journal がレビューを載せていく予定です。今月はKevinにとってエキサイティングな月になりそうです。

英グラモフォン賞が発表になりました。
http://www.gramophone.co.uk/newsMainTemplate.asp?storyID=2893&newssectionID=1
相変わらず、この雑誌は「大英帝国万歳」ですね。見ていて面白いです。

「更新情報」
資料室に、1987-presentのセクションをもうけました。Kevinの本の表紙、M&AのCDのトラックリストなどを置いています。

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10/4/07

「グールドの命日」

今日は、25年前にグールドが亡くなった日です。子供心に彼が死んだ日の事は良く覚えています。ちょうど、発売されて間もない「ゴールドベルグ変奏曲」の最新録音のLPを小遣いで購入したばかりでした。新聞の見出しは、ピアノを弾いている写真入りで「孤高の天才、グールド氏死去」というようなものでした。それからしばらく、異常に遅く演奏された「アリア」をレクイエムのように聴いていました。その後、立て続けに、「ブラームス、ラプソディ・バラード集」「葬送ソナタ」などの遺作が発売されたのですが、どれも殺伐とした単色の世界で、なにか不健康なものを感じたものです。音や表情がどこか投げやりで、彼にしては緻密さが低下しているように感じられました。彼は後年、精神的、あるいは肉体的な危機にあったのではないか、という印象を抱くようになりました。そんなこともあって、「ゴールドベルグ変奏曲」新録音を除くと、1950-60年代前半の演奏を聴くことの方がずっと多いです。ベートーヴェンの第一協奏曲のカデンツアなど、ぞくぞくします。あの演奏はゴルシュマンの指揮も手伝って、大変な名演だと思うのですが、あまり取り上げられないですね。

私の以前の同僚が、1950年代、トロント大学でのグールドの講座に出席したことがある、と話していました。講義中に「ゴールドベルグ変奏曲」も弾いてくれたそうで、「レコードより良かった」と言っていました。また、車で自宅に送り迎えしてくれたこともあったそうで、彼曰く、「クレージードライバー」。ラジオから音楽が流れてくると、運転中に両手を離して指揮を始めたという話です。「どういう人間だった?」と訊ねると、「素晴らしい男だった。あの頃は、まだ後年ほどおかしくなっていなかったよ」、と話していました。

今年の冬、トロントのグールドの墓に行きました。だいたいの場所はわかっていたのですけれど、黄昏だった上に、雪ですっぽり覆われていて、どれがグールドの墓石かよくわかりませんでした。ただ、Gould家の墓石と思われるものは見ました。どうも、彼の墓石は地面に寝ているタイプのもので、その近くにあったらしい。彼の墓石の上をさんざん歩き回っていたようです。霊魂などは信じない私でも、よりにもよって尊敬するピアニストに対して罰当たりなことをした、と思いました。Kevin Bazzanaは、「グールドはそんなことを気にするタイプじゃないよ」と言ってくれましたが.......。

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10/2/07
ニレジハージの映像----「五本指の野獣」

ニレジハージの左手が登場する映画、The Beast with Five Fingersの映像がYoutubeにアップされています。全盛期の彼(の体の一部)を捉えた貴重な映像です。

http://www.youtube.com/watch?v=dckSnbIWB6w&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=AopTqKF4J6k

詳しい説明はこちら(クリック)。

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10/1/2007

「ニレジハージのMusic and ArtsのCD」

ちょっと残念なニュースです。M&AのCDがおくれておりまして、今の予定だと11-12月の発売になるとのこと。おくれている理由はわかりませんけれど、もしかしたらピッチ問題があるのかもしれません。私のサイトにアップロードされている音源は、M&Aにいっている音源とソースが同じなのですけれど、ピッチが高めです。これを修正しているのに時間がかかっている可能性があります。

9月のmp3 fileダウンロードトップ10です。個々のファイルは、トップページ、「ニレジハージの演奏ファイル」から入ってください。あるいは、www.fugue.us/Liebestod.mp3とタイプすれば直接アクセスできます。

/Liebestod.mp3
/WAVE.mp3
/Eglogue.mp3
/Brahmsmove1.mp3
/Soul_of_monster.mp3
/La_Lugubre_Gondla.mp3
/DANTE_SONATA.mp3
/Faust-Gretchen.mp3
/RhapsodyOp119_4.mp3
/flower_waltz.mp3

更新情報)

1920年代のニレジハージの写真(クリック)を「資料室」に加えました。