fugue.us
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ロンドン・コンサート日記


3.18.2017

Benjamin Zander conductor

Mei Yi Foo piano

Rebecca Evans soprano

Patricia Bardon mezzo soprano

Robert Murray tenor

Derek Welton bass baritone

Philharmonia Chorus choir

BEETHOVEN Overture, Coriolan

BEETHOVEN Piano Concerto No. 3

--interval--

BEETHOVEN Symphony No. 9, Choral


マンチェスターで行われたロンドン・マスター・クラスの指揮コースを担当したベンジャミン・ザンダーが、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでフィルハーモニア管で第九を振った。

その数日前に、知人の彼のアシスタントと日本食レストランで食事をし、概要をきいた。何でも、今回はドキュメンタリー&録音プロジェクトなのだそうだ。ザンダー は自筆譜や各資料を精査し、「ベートーヴェンが意図した音」を初めて再現した、という。例えば、ベートーヴェンのメトロノームの指示にも細かく従っている のだそうだ。「すごく速いんだろうな」と言うと、「速いよ」との返事。なんと60分を切る。

ベートーヴェンの交響曲をメトロノーム記号通りに演奏すると演奏不可能なほどに速くなってしまうことから、実は彼のメトロノームが壊れていたという説があ る。そのことをアシスタントに言うと、「ベートーヴェンは三回も修理している」から正しいはず、とのこと。だが、もともと壊れていなければ修理もしなかっ たろうとも思う。「ピリオド楽器、ピッチは?」と問うと、そこはモダンでいくのだそうだ。その理由を問うと、「作曲家は常に最新の楽器を使う。ベートー ヴェンがもし生きていたらモダン奏法、楽器で行った筈」。それは同意できる。ただ、ザンダーが主張する「ベートーヴェンが意図した音」とは矛盾してこない だろうか。細かいことは言うまい。大切なのは音楽の中身だ。

第九の前に「コリオラン」で開始。カーペットのような響きの中に仄暗さもあっていい感じ。テンポは速めだが極端ではない。「第三協奏曲」は若手のMei Yi Fooによるもの。ピアニスティックではあったものの、力強さ、縦の線のリズムが十分でない。ベートーヴェンの音ではなかった。上手な音大生の演奏を聴い た、という感じ。伴奏のザンダーのリズム感が秀でていただけに、ピアニストの力不足は否めなかった。

第九が始まった。恐ろしく速い。速すぎて弦の快速パッセージが弾けず、崩壊寸前になるほど。第一楽章は疾走のごとく過ぎ去り、何が起こっているかわからないままに終了。第二楽章 は通常のテンポで始まった。骨格がきっちりしており、響きもコクがある。いい感じだ。ところが、トリオは通常の二倍のテンポに上がったため、ほとんどコミ カルな印象になる。第三楽章も速い。アダージョというよりはアンダンテだ。ノーマ・フィッシャーは気に入っていなかったようだが、私は第三楽章だけはこの テンポはあり、と思った。神秘性は後退するものの、遅いテンポで間延びすることがあるパッセージがすっきりと聴こえる。だが、後半はちょっとせわしな く聴こえる箇所もあった。

第四楽章も速いが第一楽章ほどの違和感はなかった。興味深かったのは、バリトンが独唱寸前に舞台に歩いて入ってきて歌い始めたこと。オペラティックな入り だ が、これはアリだと思った。「アラ・マルチャ」の直前、オーケストラ・合唱がフォルテッシモからディミヌエンドにしていた。ここは出版楽譜ではティンパニ のみディミヌエンドで、不思議に思った岩城宏之が自筆譜を精査したところでは、ディミヌエンドはベートーヴェンの悪筆による誤解で、本当はアクセントであ るべき、と書いていた(自筆譜中毒の私ではあるが、ベートーヴェンの悪筆を解読するエネルギーはないので確認していない)。ベンに公演後、この箇所をディ ミヌエンドにした根拠を訊ねようと思ったのだが、人が多く並んでいたため、握手してお祝いを言う時間し かなかった。

アラ・マルチャは快速。速度はありだと思うが、ザンダーはこの箇所をテナーにピアニッシモで歌わせ、違和感を感じさせた。そのほか、「神々の閃光」でリダ ルダンドを入れず、速い速度で通過させながら、続くコーダを遅めのテンポをとるなど、いろいろと面食らうことが多かった。本当にベートーヴェンがこのテン ポを意図していたかどうか確信がない。彼は当時の前衛だったから、あえて奏者の限界を超えることを目指したことはありうる。だが、私個人はメトロノーム故 障説を捨てきれていない。

ザンダーの強固なリズム感、音作り自体は見事なもので、力強い合唱とともに素晴らしい迫力があった。それだけに、普通のテンポで聴きたいなあ、と正直に思って しまった。終了後はスタンディング・オベーション。あまりの極端なテンポに心臓発作を起こしかけているノーマと一緒にザンダーと彼のアシスタントに簡単に 挨拶した後、コンサート・マスター(ミストレス)のステファニーと話した(ノーマの親戚にあたる)。ノーマが正直な感想を訊ねたところ、彼女はザンダーの解釈 について「素晴らしかった。気に入っている」とのこと。エキセントリックではあったが、オーケストラからの評判は良かったようだ。



3/1/2017

Saturday 25 February 2017
St James's Sussex Gardens, Paddington, W2 3UD

Violin Concerto in D major, Op. 35 - Korngold
Abend - Josephine Stephenson (2013)
The Firebird Suite (1919) - Stravinsky

Soloist - Kristine Balanas
Conductor - Harry Ogg
Janus Ensemble

昨年のロンドン・マスタークラスのチェロクラスは特に優秀で、パリの音大の教授や、カーネギーホールで弾いた経験のあるチェリスト、そしてベンジャミン・ グロヴナーやフレディ・ケンプを輩出したBBCヤング・ミュージシャンズ・オブ・イヤーの2012年受賞者ローラ・ファン・デル・ヘイデンも生徒の中にい た。ラトヴィアの学生、マルガリータ・バラナスはその中で最優秀生徒として、最終日のコンサートに選ばれ、ラフマニノフのソナタを弾いている。歌手部門で 最優秀だったエステヴァリーズ・マーティンと並んで、コースの白眉と言える見事な演奏だった。その模様は私が制作したドキュメンタリーに登場する。歌心の豊かさが比類ない。

そのマルガリータの姉が、マルガリータ曰く「素晴らしいヴァイオリニスト」のクリスティーネである。コルンゴルトと言う事もあり聴きに行くことにした。

艶やかで磨き抜かれた音色と、確固たる技術に支えられ、情熱的な演奏。会場が教会ということで残響が長かったせいかもしれないが、間近のオーケストラの豊 麗な音も素晴らしく、甘美な音楽に身をゆだねることが出来た。コンサートホールではこの感覚は味わえない。ただ、第三楽章はオーケストラと齟齬が見られ た。残響の長さが裏目にでたようだ。

バラナス姉妹。国際的にはまだ無名ではあるが、二人にはスター性がある。テンペラメントと歌心もぬきんでている。注目。




1.21.2017

Schumann Kinderszenen
Toccata
Kreisleriana
Shostakovich Selections from 24 Preludes and Fugues:
No 7 in A major
No 2 in A minor
No 5 in D major
No 24 in D minor
Stravinsky Three Movements from Petrushka

ロンドンでのダニル・トリフォノフの人気はかなりのものがある。ノーマン・レブレヒトなどは「今世紀でもっとも偉大なピアニスト」などと呼んで持ち上げて いるが、果たして正当な評価なのかどうか。私はレブレヒトは音楽のことは何一つわかっていないと思っているし、録音で聴く限りでは過大評価もいいところだ と思う。いずれにせよ、アンジェロ・ヴィラーニを高く評価するジェシカ・ドゥシェンもトリフォノフに熱狂していることだし、生を一度聴いてみることにし た。

生で聴いた結論は録音の印象を変えるものではなかった。問題は音楽の骨格と表出力の弱さ。音楽を感覚的に捉えており、音に磨き抜かれたような美しさはある ものの、フレーズの中の個々の音と音の連関が弱い。フレージングに緊張と弛緩を適切なバランスでもたらすことができていないため、あるべきアーチが作られ ておらず、全てのフレーズがどこかで腰砕けになる。ルバート、ディミヌエンド、ピアニッシモも呼吸やフレージングと連動していないために、唐突で自己陶酔 的に聴こえる。こちらの肺腑を抉るような瞬間が一度もなく、ブラボーを叫ぶ会場の反応とは反対に、私の鼓動はこの夜は静かなまなだった。


技術的にはかなり高いものをもっているが、超絶技巧というほどではなく、破綻を避けて安全運転に回るところもある。そのせいかどうかわからないが、「トッ カータ」ではイン・テンポが刻めず(刻まず)、リズムにキレを欠く瞬間が何度かあった。後半に登場する右手のオクターブが登場する難所でも、直前で唐突に テンポを落としたが、これは技術的妥協にしか聴こえない。クライスレリアーナでも、テンポや奇抜なアーティキュレーションに必然性を感じることができな かった。一例を挙げると、最後の曲で右手で刻まれるリズムによって生じるパルスが曲全体で一定でない。このリズムは三つのセクション全てに反映されている べきだと思うのだが、パルスが保持されていないため、全体がバラバラに聴こえる。

美点は音の美しさ、恰幅の良さと、全体的な安定感。強い個性、意欲も感じられた。構成力よりも感覚美を前面に出せる曲は良かった。例えば、ショスタコー ヴィッチのAmajとDmajの前奏曲・フーガ。まるで天使が舞っているかのような美しい瞬間が何度かあった。リサイタルを通じて特別な瞬間が他に無かっ たのが残念。プログラムの最後の曲は聴いていない。



12.17.2016


Ludwig van Beethoven    (1770-1827)
Sechs Lieder von Gellert Op. 48
Antonín Dvořák    (1841-1904)
Biblické písne (Biblical Songs) Op. 99
INTERVAL
Roger Quilter    (1877-1953)
Three Shakespeare Songs Op. 6
Modest Musorgsky    (1839-1881)
Songs and Dances of Death

René Pape bass*
*Wigmore Hall Debut
Camillo Radicke piano

ルネ・パーペのウィグモア・ホールのデビューコンサートが行われた。数年前のロイヤル・オペラの「ファウスト」でその声量と存在感の凄まじさに圧倒されて 以来、パーペをぜひもう一度聴きたいと思っていた。今回はホールに響く彼の声を楽しむため、あえてバルコニー席をゲット。

まず、パーペが出てきて話し始めた。「この演奏会を長い間楽しみにしてきました。あなた方もそうだと思います。残念ですが、風邪をこじらせてしまい、今朝 も熱がありました。しかし、キャンセルはしたくありませんでした。あなた方が待っていましたので。時に、私の声に「素晴らしい瞬間」でないことがあるかも しれませんが、どうか許してください」。たしかに歩き方もどことなく調子が悪そうに見える。

ベートーヴェンはデリケートで美しいフレージング。リートということで声を張ることはなかったが、これはコンディションも関係していたのかもしれない。ド ヴォルザークでも同じで、7割くらいの声でギリギリのところで破綻を回避するかのように用心深く歌っていた。もちろん、場が震えるような素晴らしく響き渡 る美しい声ではあったが、オペラハウスの時に感じた風圧のようなものは感じなかった。後半に入ると声が出てきて安定し始め、ムソルグスキーではなんどかハ リケーンのような声をホールに響き渡らせてくれた。確か最後から2曲目だと思うが、パーペがその夜一番のフォルテッシモを響かせた瞬間、客席に驚きのざわ めきが広がったほどだ。アンコールは無し。やはり調子が悪いのだろう。だが、帰り支度をする客にむけて顔を出し、「今日はどう もありがとう」と語りかけていた。

過去の大歌手との単純比較はできないけれど、パーペは紛れもなく過去50年のバス・バリトンの最高の歌手の1人だろう。ホッターはピッチコントロールに難 があり、フィッシャー・ディースカウは(特に後年)作為的にすぎ、プライはテクニックに問題があり、ロンドンやアダムは声の美しさにかけ、ギャウロフはレ パートリーが狭く、シエピやモルは高貴な声とは言い難い。しかしパーペはすべてを兼ね備えている。円柱のように上から下まで均整がとれた美声でありなが ら、素晴らしい共鳴によって天井桟敷が震えだすようなパワーもある。フレージングも美しく、知情意のバランスもとれている。残念ながら、彼の声の素晴らし さの多くはマイクに入りき らないため、彼の凄みが伝わりきっていない。私も生を聴くまで、ただの美声のバスだと思っていた。ぜひ、機会があれば生で彼の凄まじい声を聴いてほしい。




9.20.2016

ロイヤル・フィルの70周年記念公演がロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた。音楽監督のデュトワ、常任指揮者のヴァイオリニストのズーカー マン、そしてアルゲリッチという豪華な顔ぶれ。このガラコンサートは完全にノーマークだったのだが、一週間前にジェシカ・ドゥシェンに教えてもらった。簡 単にチケットが買えたところを見ると、事前にアナウンスしていなかったのかもしれない(たぶん、アルゲリッチが本当に弾くかどうか決まらなかったのだろ う)。

プログラムはウィリアムテル序曲で開始した。いまひとつ締まりがないものの、弦楽セクションの豊かな響きが美しかった。二曲目はシューマンのピアノ協奏 曲。うーん、ピアノの音が聴こえてこない。9000人収容可能のアルバートホールはピアノには厳しいホールではあるけれど、それにしても音に輝きとパワー がない。音が干渉のせいか急激に減衰する上、奇妙な電子的なリバーブのような残響さえ伴って聴こえた。当初ファツイオリかと思ったが、後で耳にしたところ ではスタインウェイとのこと。Grand Tierの13番というのは悪い位置ではないのだが、運悪くデッドスポットだったのだろう。

音がそのような貧弱な状況だったため、ピアノに関しては残念ながらアラのみが聴こえてきた。特にオクターブの速いパッセージのリズムの若干の硬直。75歳 という年齢を考えれば驚異的なテクニックではあるのだけれど、そのような衰えは5年前ならありえなかったことだ。第三楽章に入ると、彼女特有の天翔るよう なフレージングが前面に出てきて楽しめるようになった。いずれにしても、座った位置が悪かった。同時録音されたBBC録音を聴くとリズムの硬直はあるにし ても印象ははるかに良かったし、批評も絶賛だった。

これはこれとして、20代の時と同じゴリゴリのレパートリーではなく、できればもう少し「ユルイ」プログラムでの彼女を聴きたいと思った。アンコールでのリラックスしきった、まるで自宅で弾いているかのような演奏をもっと聴いてみたい。状況が許さないとは思うけれど。

続いてズーカーマン指揮・ヴァイオリンによるブルッフの協奏曲。ハイフェッツのような鮮烈さ、冷厳さとは対極の、人懐っこくて暖かいヴァイオリンの響き。 そろそろ70歳になるはずだが、フレーズは年相応に丸みを帯びていたものの、技量や音色は年齢を感じさせないものだった。指揮はデュトワに任せたほうが良 かったと思うが、快適な響きに浸ることは出来た。快適すぎて眠くなってしまったほどだ。

最後は火の鳥。デュトワという指揮者はスコアが複雑になればなるほどその真価を発揮する人で、逆にシンプルな古典ものでは方向性が見えなくなる。この夜の「火の鳥」も音の輝きといい、透明感といい、色彩感といい、見事と言うほかないものだった。



7.3.2016

Music: Jules Massenet
Libretto: Edouard Blau, Paul Milliet, Georges Hartmann
Director: Benoît Jacquet
Set and lighting designer: Charles Edwards
Costume designer: Christian Gasc
Performers
Conductor: Antonio Pappano
Werther: Vittorio Grigòlo
Charlotte: Joyce DiDonato
Albert: David Bizic
Sophie: Heather Engebretson

グリゴーロ、ディドナートというキャストに惹かれ、久しぶりにロイヤル・オペラに出向いてマスネの「ウェルテル」を聴いた。指揮はパッパーノ。

ロイヤル・オペラ・ハウスにおいては、天井桟敷でもオーケストラや歌手の声が良く聴こえる。かなり細かいステージノイズまではっきり捉えることができる一 方で、残響がほとんど伴わずに音が届いてくるため、往々にしてオーケストラの音は洗練を欠いて響く印象がある。このせいもあってロイヤル・オペラハウス でのパッパーノはザックバランで無骨な音色を出す印象が私の中にある。

この日もその印象は変わらず、健康的で骨太、一筆書きの音がピットから聴こえてきた。心を鷲掴みにするような瞬間は特に無かったし、どこを取っても仕上げ の終わっていないカーペットのような響きだったが、力強さ、全体の一体感には不足しておらず、聴いていて安心できるものがあった。

歌手ではグリゴーロが光っていた。彼の「泣き」が入った歌いっぷりは、ウェルテルのような直情的で激情的なキャラクターにぴったりと合致する。ビブラート は若干大きかったものの、よく響く力強い声で高音も伸びていた。ヒロインを歌ったディドナートはグリゴーロほどの声の存在感は無かったものの、安定した歌 いっぷりと情感のこもった表現が良かった。よく考えるとシャルロッテというのは自己保身的のために人を死に追いやるような酷い女なのだけれど、彼女の歌の 気高い佇まいは役柄にシンパシーを感じさせるに十分なものがあった。ただ、低いレジスターでピッチが不安定になるのが少しだけ気になった。もしかしたら若 干調子が悪かったのかもしれない。

このオペラを通して聴いたのは初めてだったが、第一幕、第二幕は物語の展開が遅く、音楽にも閃きがあまり感じられずに退屈した。ただ、第三幕に入ってから、マスネの音楽がヴァーグナー風になり、ストーリーの劇性の強さもあって俄然面白くなった。第四幕は間延び。

第三幕を除いて、プッチーニの作品や同時期のヴェリズモ・オペラのような劇場的な感覚の鋭さに欠けていたのは否めない。例え ば、第四幕だが、プッチーニやヴェリズモの作家であればウェルテルの死に30分もかけず、あっさりと劇的に終わらせたような気がする。マスネのせいではなく、台本が間延びしているのだと思う。ふと台本作家を見る と、Edouard Blauの名。フランクの「贖罪」の詩を書いた人物だが、あれも傑作とは言えない詩だった。

舞台はオーソドックスで保守的なものだったが、影をうまく使っていて非常に美しいもの で、特にシャルロッテの居間を舞台とした三幕はシンプルなコンポジションながらまるでフェルメールの絵画のようだった。第四幕は雪を現す紙吹雪の中、ウェ ルテルの寝室がズームアップのようにせり出してくるという趣向で、これも効果的だった。



5.1. 2016

Brahms, Johannes (1833-1897)Study no.5 after Bach's ChaconneBrahms, Johannes (1833-1897)Variations and Fugue for Piano on a Theme by Handel, Op.24Couperin, François (1668-1733)Second book of works for harpsichord (7e ordre)Schumann, Robert (1810-1856)Carnaval, Op.9

ノーマ・フィッシャーに誘われ、コンスタンティン・リフシッツのリサイタルへ行ってきた。ノーマはリフシッツが10代の頃から知っているという。

最初はブラームスのシャコンヌ。骨太の生々しい音が会場に響く。ペダルが浅いため、音の見通しは良い一方で、一つ一つの音が強靭なせいか薄っぺらい印象が ない。旋律の緊張も一部を除いて保たれており、よく考えられて設計された音楽、という印象だった。続くブラームスのヘンデルのテーマによる変奏曲。ちょっと強す ぎるくらいのフォルテで弾かれたテーマに続き、変奏曲が多様なタッチとパレットで提示されていった。例えば第二変奏。音が玄妙に溶けあい、混ざり合って提示されてい る。まるでめまいを感じるような、今まで聴いたことがない響きだった。そしてなんと言っても巨大なダイナミックレンジ。今までウィグモアホールで聴いたピ アニストの中でも圧倒的に巨大な音だった。私は後ろの方に座っていたのだが、それでも左の内耳が音量でビリついた。

休憩時にノーマに「彼はあなたの好みのスタイルじゃないでしょう?」と訊ねると「全然!好きとは言えない。でも、すごい演奏だった」と感心しきり。「昔か ら変わっていない。彼は自分のやりたいことがはっきりわかっていた。彼の演奏を好きになるか嫌いになるかのどちらかよ。でも、誰も彼のやっていることを非 難することなどできない」。彼女は「彼は200年前か100年前に属しているの」とも言った。これはノーマのアンジェロ・ヴィラーニに対する評価と似てい る。その後も隣で感嘆の声を挙げ続けていた。

後半はクープランのハープシコード作品。右手と左手の装飾音を異常に強調した演奏で、時に旋律が全くわからなくなるほど。最初は方向性がわからずついてい けなかったが、徐々に情念の音楽、特にイディッシュの音楽のように聴こえ始めてからは、彼の向かっている方向性が見えたような気がした。そうなると音楽は どんどん入ってくる。続いてシューマンの謝肉祭。これはブラームスほどの個性の煌めきはなかったものの、普通に良い演奏だったと思う。技術的にも巧いし、 細部まできっちりとまとめてくる構築力もある。演奏会の後はノーマと一緒に楽屋に行ってご挨拶。皆で写真撮影。

全体的な印象としては、隈取りのはっきりとした輪郭の中で予め音楽を設計しつくすところはソコロフ、音のパレットの多彩さはホロヴィッツを思わせる。ロシ アン・スクールらしい巨大なダイナミックレンジと骨太の音楽ではあるが、表現主義的なところはほとんどなくて知的なアプローチ。観客とコミュニケートする タイプというより、ソコロフやミケランジェリがそうであるように自己で完結してしまっているところがある。客席が半分も埋まっていなかったのは、この孤高 のスタイルも関係している。ただし、かなり変わった演奏ではあるが、気をてらってやっているとか、個性的であることを目的にしている印象がなかった。やっ ていることが理にかなっていること、そして、元々の音楽づくりの骨格がしっかりしているから。今でこそホールはガラガラだが、いずれリフシッツのチケット が簡単には買えなくなる日が来るような気がする。



4.25.2016

ブロムシュテットとフィルハーモニア管弦楽団の演奏会がロイヤルフェスティバルホールで行われた。プログラムはモーツアルトの第39番とブルックナーの第 四番。

ブロムシュテットは私のレコードの棚の中でCDが一番多い指揮者の三人に入る。彼がシュターツカペレ・ドレスデンと吹き込んだブルックナーの第四 番はカセットテープ時代に出会い、その瑞々しい響きと流麗だけれどもカッチリとした佇まいに子供ながら魅了されてしまった。その後、彼のサンフランシスコ 交響楽 団時代の演奏を特に好んで聴いていた。シュトラウスの録音群は若干シンフォニックすぎる嫌いはあったが、メンデルスゾーンの「スコットランド」とシベリウ スの第六に関しては、ブロムシュテットの演奏を上回るものは無いと思っている。無視されているが、マーラーの「復活」も素晴らしい。これほど好きな指揮者 なのに、今までタイミングが合わず、生演奏に接する機会がなかった。その彼が久しぶりにロンドンに来るという。しかも、彼の演奏に初めて出会ったブルック ナーの第四だ。

第39番。しなやかで流動性のある演奏。古典的な拡張の高さはある一方で、柔軟性もある。サンフランシスコ交響楽団の音色と同じ、白銀の音色で、耳障りな 要素がない。オーケストラと一体となって演奏している。自在だけれども、リズムが確固としており、一瞬たりとももたれない。89歳だというのに良い意味で 巨匠風になっておらず、音楽がドレスデン時代以来の瑞々しさとしなやかさを少しも失っていない。

ブルックナーの第四。いきなり冒頭でホルンがコケるが、これは仕方が無い。明快で透明感のある響き、流麗でスッキリとしたテンポ。ドレスデン盤と同じだが マイクが遠かったあの録音よりも質感、表現の襞みたいなものをより感じられる。フレーズの移行に無駄がなく、もたれることがない。やはりブルックナーはこ うでなければ。暖かい弦の響き、清透な木管、充実した金管、それらが絶妙なバランスを持って提供されている。クライマックスも力強かった。

演奏後はかなりのブラボーも出ていたし、楽員からの支持も高いように見受けられた。この人はそんなにギャラも高くないはず。もっと呼んでほしいものだ。


1.11.2016

Claude Debussy    (1862-1918)
Préludes Book I
L'isle joyeuse
Pavel Kolesnikov

ノーマの4年間の弟子であったPavel Kolesnikovのリサイタルがウィグモア・ホールであった。彼はモスクワ音楽院でドレンスキーに学び、ノーマとマリア・ジョアン・ピレシュに学んで いる。ノーマからチケットをもらい、彼女の横で聴いた。

Effortless、の一言。コントロール能力の高さ、音のパレットの豊富さ、音量の豊かさ、ペダルのうまさ、どれをとっても洗練の極み。細部が徹底的 に彫琢された、というより、普通に弾いて細部が完璧、という見事さがある。難所でもピアノと格闘した痕跡が一切なく、楽々とピアノを奏でている。現段階で 世界屈指の能力を持つピアニストと言ってもいいのではないかと思った。ただし、あまりに巧妙すぎて、どこかの金持ちが優雅にクルージングしているかのよう な風情もあった。ラフマニノフやリストで肺腑をえぐるような表現が出来るとも思えない。音の方向性は全然違うが、醒めた風情で凄い技術を展開するという点 では、少しだけルガンスキーを思わせるところがある。

ノーマも弟子の演奏に大喜び。二人で楽屋におめでとうを言いに行った。間近でみたらまだ少年の面影があった。

とにかく驚くべき才能だ。 彼の名が世界に轟くことを少しも疑っていない。


1.10.2016

Fryderyk Chopin    (1810-1849)
3 Nouvelles Études
Ballade No. 4 in F minor Op. 52
Franz Schubert    (1797-1828)
Moments musicaux D780
No. 3 in F minor
Impromptu in A flat major D935 No. 2
Piano Sonata in A major D959

南アフリカ出身のピアニスト、ダニエル・ベン=ピエナールのリサイタルがウィグモアホールで行われた。キングズ・プレイスでのバッハ平均律クラヴィーア全 曲演奏会以来、彼にとって2年ぶりのリサイタルの筈。もともと神経質になりすぎるところのあるピアニストだが、久しぶりということで、前日彼と話したヴィ ラーニから非常にナーヴァスになっているという情報が入っていた。

ショパンは注意深く始まった。メランコリックな味わいはあるけれど、タッチが手探りで若干用心深すぎるところがある感じがした。抑制的に弾いているせい か、ショパンというよりはシューマンのように聴こえる。3曲目ではペダル過多でクリスピーである箇所のタッチのキレが良くない。2年前のバッハの時と同じ だ。第4バラードは比較的良かった。粘らないテンポ設定ながら、ロマンティックな味わいの濃い演奏で、その自由闊達さは30年代のヴィルトオーゾの演奏を 思わせる。ただ、中間部の嵐のような箇所での細部が若干粗く、弾き飛ばされている感があった(この夜を通して、速い箇所は全て細部が粗く、タメが不足して いた)。

続くシューベルトの「楽興の時」。癖のあるリズム。それは構わないのだが、16分音符の速い音符が全て潰れてしまっている。もっとペダルを抑えて細部を丁 寧に弾けばよくなるのに。続くイ長調の即興曲はこの日のベスト。もたれない速めのテンポで自在かつ自然なフレージングと柔軟にバウンスするリズムで、どこ かカルロス・クライバー的な趣がある。続くD959のソナタ。第一楽章はコントロールが甘く、頻繁にテンポが前のめりになる。ペダルが深すぎて細部が聴こ えない。2年前のバッハと同じだ。ただひたすらせわしなく弾かれているため、聴いていて息苦しい。良かったのが続く二楽章。孤絶、という言葉が相応しい演 奏だった。第三楽章はチョッピーな箇所でのタッチが粗く、弾き飛ばされている。第四楽章はかなり持ち直し、歌心も感じさせた。ただ、やはり細部が粗く、と ころどころせわしくなっていた。

ところどころ非凡さを感じさせたものの、全体的に不満の残るものだったと言わねばならない。演奏における構成力の弱さ、細部の彫琢の粗さは2年前と同じ。 ヴィラーニは彼のことを「天才」と形容するが、二度聴いた私にはその評価に確信が持てていない。


12.07.2015


Darius Milhaud (1892-1974)Scaramouche Op. 165b arr. for saxophone and piano
Florent Schmitt (1870-1958)Légende Op. 66
Takashi Yoshimatsu (b.1953)Fuzzy Bird Sonata
Sergey Rachmaninov (1873-1943)Piano Sonata No. 1 in D minor Op. 28
Alexander Siloti (1863-1945)Prelude in B minor arr. of Bach Prelude in E minor BWV855a
Sergey RachmaninovMoments musicaux Op. 16No. 4 in E minor

Philip Attard saxophone; Christine Zerafa piano; Luka Okros piano

ノーマ・フィッシャーの愛弟子のLuka Okrosの二度目のリサイタルがWigmore hallで行われた。サクソフォンとピアノのデュオとのジョイントリサイタルで、ピアノを弾いたChristine Zerafaもノーマの弟子だったらしい。

このサックスがすごかった。白いコルトレーン、白いアルバート・アイラー、といった趣きで、クラシック音楽なのにソウルフルで力強いトーン。特に吉松隆が 圧倒的で、鋭いリズムとスケールの大きな歌い回しに魅了された。残念なのは恋人だというピアニスト。美しく正確に弾いていたものの、音と表現のダイナミッ クレンジが小さく、強烈さにも欠けていた。演奏を聴きながら、サックス奏者はピアノに不満を感じないのかと思っていたのだけれど、相手が恋人なら仕方がな い。本当ならもっと力量のある相手と組むべきだと思うのだけれど。

Lukaは後半から登場してラフマニノフを弾いた。以前、彼のショパンとシューマンを聴いた際には不満が残った。だが、今回のラフマニノフは自家薬籠中の 感がある。スケールの大きさといい、密度の濃く、太い音といい、目眩くような情念といい、どれもラフマニノフの世界に合致している。若干一本調子だし、叙 情表現はぶっきらぼうだけれど、その豪快な弾きっぷりには独自の魅力がある。アンコールに弾かれた「月の光」もまるでラフマニノフのように男性的で濃い演 奏だった。

楽屋でルカに「メトネルを弾かないの?君に合っていると思うよ」と言ったら、「弾いてないけれど、弾きたい。自分もあっていると思う」との答え。サックス のフィリップにも賛辞を寄せた。彼曰く、尊敬するサキソフォン奏者はジョシュア・レッドマンと、須川展也だという。

この二人は要注目だ。


11.4.2015

Johannes Brahms: Capriccio in B minor, Op.76 No.2
Johannes Brahms: 16 Variations on a theme by Schumann, Op.9
Johannes Brahms: Sonata No.2 in F sharp minor, Op.2
Interval
Sergey Prokofiev: Visions fugitives, Op.22
Sergey Prokofiev: Sonata No.2 in D minor, Op.14

Nicolai Demidenko, St. Johns Smith Square

ニコライ・デミジェンコのリサイタルに行った。前半はブラームス、後半はプロコフィエフというプログラムで、客受けのしない地味な曲が並ぶ。前半が退屈 だったことは否めない。曲の退屈さだけではなく、デミジェンコのピアノもキレを欠いていた。スケールの大きさはあったものの、垂直方向のリズムに鋭さがな く、全体がのっぺりとしていた。

インターバルでピアノのチューニングをしている人の顔を見たら、我々のアルバムのセッションでもチューニングを担当したブルーノ・トレンスだった。それを 見て、演奏がのっぺりしていたのはピアノのせいではないか、とアンジェロと意見交換。ファツオリは素晴らしいピアノだけれども、大会場での音の浸透力には 疑問がある。

後半も精彩の無さは相変わらずだったものの、プロコフィエフの「束の間の幻影」はよかった。曲がデミジェンコの体質に合っているのだと思う。ただ、続く第 二ソナタではリズムが弾まず、推進力に欠けたまま曲が進行。リズムが重くて硬直しており、ひどく老化を感じさせた演奏だった。アンコールではメトネル。こ れは素晴らしかった。有機的なフレーズ達が相互作用しながらクライマックスを作っていく様子は圧巻だった。昨年のリサイタルもそうだったが、彼はメトネル を弾くと往年の輝きを取り戻すように感じる。



10.27.2015

昨夜はバービカンセンターでハフの第三ソナタの世界初演公演。このソナタについては、ハフの弟子であるシーヤンから7月頃に詳細をきいていて、「12音音 楽が入っている」「無調」「第二ソナタよりモダン」とのことだった。ハフの第二ソナタを高く評価していることについては人後に落ちない自分としては、第三 の世界初演を聴き逃すわけにはいかない。

プログラムが地味なせいか、ハフのコンサートが珍しくないせいか、客の入りは良くない。せいぜい5割ほど。私は二階の一番後ろの席を取ったのだけれど、あ まりに入りが悪いせいか、一回のサークル席に回るようにいわれた。プログラムはシューベルトのイ短調ソナタ。確固としたリズムの中、浮遊感のある繊細なフ レーズ処理が光る演奏で、少し前に聴いたアムステルダムでのソコロフの演奏よりも良い印象を持った。全体がクリアに見通しがたっており、すっきりとしたリ リシズムと推進力が共存している。全てを押さえているのに、決してやりすぎていない。こういうのを聴くと、ハフはベンジャミンよりも一段上のクラスのピア ニストだと感じる。アンコールと並んでこの夜のハイライトだった。

フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」は彼の18番とされるもの。ただ、慣れからくる弾き崩しが顕著で、ところどころ、細部の粗さが耳についた。神秘性 よりもピアニスティックな感興を全面に出した演奏で、迫力と推進力はあったものの、好き勝手にやりすぎている印象。良かったのは各部のコントラストがはっ きりついていたことと、音楽がもたれなかったことだった。シューベルトで感じられた、作品に対する緊張感は感じられなかった。

休憩明けに第三ソナタ。メシアンとチック・コリアとドビュッシーを足したような第二ソナタよりも前衛的でラプソディック。第二ソナタの響きや奏法と似た箇 所は多くあった一方で、展開の取り止めのなさ、ややチープなアイデアが気になった。悪い意味でアーティスティック、つまり自己陶酔に入っている。退屈はし なかったが、傑作である第二ソナタの域には達していない、というのが正直な感想。

最後はリスト・プログラム。覚醒した意識の中で弾かれたリストで、個人的には面白さを感じられなかった。ただ、最後の超絶技巧練習曲では彼が学生時代に圧 倒されたというニレジハージ的なものを目指そうとしているフシは感じられた。

アンコールは、ロマン的な味にかけるリストのコンソレーションと、素晴らしい自作の軽音楽の編曲。ハフはノスタルジックな音楽、特に古きよきアメリカの要 素がある音楽を弾かせると、生来の自在さとロマンチシズムが全面に出てきて本当にいい演奏をする。メインのプログラムの演奏にこの味わいがもっと反映され ればいいのだけれど。

会場で面白いことに気がついた。バービカンセンターのシートの列番号はアルファベットなのだが、”I”がないのである。つまり、A, B, C, D, E, F, G, H, Jとなる。数字の13のように”I”に不吉な意味があるのかどうか、休憩時にロビーに行ってスタッフに訊いてみると、「IをJや数字の1と混同する人がい るため」とのことだった。「似た理由で、NもOも使われていない。NはMと聞き間違えやすく、OはQや数字の0と見間違える」とのこと。合点がいった。今 度、別の会場でも確認してみよう。


10.24.2015

Georges Bizet: Symphony in C
Maurice Ravel: Piano Concerto in G
Interval
Camille Saint-Saëns: Symphony No.3 in C minor (Organ)

Performers
London Philharmonic Orchestra
Thierry Fischer conductor
Benjamin Grosvenor piano
James Sherlock organ

ロイヤル・フェスティバル・ホール。

ベンジャミン・グロヴナーは先週、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルを行って、英国でも話題になるほどの絶賛を受けた。そのせいか、2500席 のチケットは完売。神童としてメディアの寵児となったが、潰されることなく成長し、いまや、スティーヴン・ハフと並んで英国を代表するピアニスト、という 地位を確立した。ラヴェルのト長調協奏曲はデッカにジェームズ・ジャッドと録音を残していて、レビューも良かったと思う。

彼の最大の美点は流麗なテクニックと、青磁のような潤いのある音色だ。特に後者については、ベンジャミン以外のどのピアニストからも聴けない、と断言でき るほど、特徴的で蠱惑的な音がある。一つ一つの音に潤いと適度の重量感があって、一切の金属的な要素や耳障りな音がない。ラモーやバッハで水滴のように玲 瓏で純度の高い音がシームレスに繋がっていく有様には嘆声を放つしかない。一方で、ロマン派以降の作品では、彼の音楽の骨格の弱さ、厚みの無さ、呼吸の短 さが前面に出てしまう。この夜のラヴェルもそうで、ところどころ、音楽がタメを作らずに疾走してしまったり、あるべき重量感が感じられなかったり、といっ た欠点が散見された。

個人的には、彼にはもっとバッハやモーツアルトの協奏曲を録音してほしい。そちらのレパートリーの方が合っているし、後世にも残るアルバムができるだろ う。

オーケストラに関して。ロンドン・フィルを聴くのは初めてだったが、あまり上手なオーケストラではなかった。弦セクションは細部に艶やかさが足り無いし、 木管はオーボエが今ひとつ。同じ会場でデュトワと聴いたロイヤル・フィルの方が良い響きをしていたと思う。ティエリー・フィッシャーは名古屋フィルの監督 も務めていた人で、アバドに学んだという。系統もアバドに似ており、音楽に無理を加えず、デフォルメもせずに伸びやかに歌わせていくタイプ。細部の彫琢は 今ひとつで、特にラヴェルではピアノとのミスマッチが多く見られた。サン・サーンスの「オルガン」交響曲はロンドン・フィルによって初演されたそうだが、 初演オーケストラのメンツからか、気合十分の良い演奏だった。


10.15.2015

水曜日、ボンズストリートにあるロンドンのスタインウェイ直営店でシーヤン・ウォンのリサイタルが行われた。招待制のコンサートで、20人程度の客のため に小さい会場で行われた。曲目はスティーヴン・ハフのピアノ・ソナタ第2番、バッハの平均律クラヴィーアから一曲、そしてフランクのプレリュード・コラー ル・フーガ。

シーヤンは来月、パルマで行われるフランツ・リスト国際コンクールに出場が決まっているので、本当はリスト・プログラムで行きたかったらしい。ところが、 リサイタルの責任者の一人であるレスリー・ハワードが、「彼にリストは弾かせるな」と強硬に反対したのだという。ハワードはハイペリオンにリスト全集を録 音したピアニストで、アンジェロ・ヴィラーニも世話になっている。ゴチゴチの原理主義者で、一切の楽譜の改変を許さない。一方でシーヤンは楽譜を自由に改 変して弾くため、レスリーの逆鱗に触れている、というわけだ。そのため、トラブルを恐れたシーヤンには主催者から「リストは弾かないで」と特別の要請が あったという。

その話をシーヤンから聞いてびっくりしてしまった。まるでソ連みたいではないか。レスリー・ハワードはリストではないし、リスト自身、楽譜の改変に寛大 だった。レスリーがキリストの代理人たるローマ法皇のように振る舞うことはできないし、彼にはその資格もない。「アンコールでリストを弾けよ。レスリーが コンサートの途中で怒って退席したら評判になるぞ」とシーヤンに唆した。

シーヤンは私の唆しにのってアンコールでリストを弾いたのだけれど、残念ながらハワードは会場には来ておらず、何も面白いことは起こらなかった。とはい え、普通に良いリサイタルだったと思う。フランクは重すぎ、バッハは研磨不足だったけれど、ハフのソナタは素晴らしかった。正直、ハフ本人の演奏よりも優 れた点が多くある。これは録音したい。

会場にはクリストファー・ エルトン、ノーマ・フィッシャー、マイケル・グロヴァーら、ロンドンのピアノ界の重鎮が来ていて、彼らと意見交換を行った。


9.26. 2015

St. Paul's Church Covent Garden
Bedford Street, London WC2E 9ED

Bartók 70th Anniversary Concert

The Joyful Company of Singers, conducted by Peter Broadbent
The New London Children's Choir, conducted by Ronald Corp OBE
Julia Pusker (violin)
Renáta Konyicska (piano)
Pre-concert talk by Rob Cowan, BBC Radio 3presenter

9月26日、ベラ・バルトークの没後70周年記念コンサートがコヴェントガーデンの聖ポール教会で行われた。ロブ・コワンによるセミナー、少年合唱、混声 合唱、ヴァイオリン、ピアノなどを交えた、一種のガラ・コンサートで、友人のユリア・プシュカーがヴァイオリニストとして参加。

ノーマ・フィッシャーが、ヴァイオリニストのジョルジ・パウクと一緒に来るというので、リサイタル前にプロジェクトの話し合いをする予定だったのだが、親 友が死去したということで彼女が直前にキャンセル。代わりにチケットを私にくれた。

ユリアはまずピアノと狂詩曲第一番を弾き、ソロでヴァイオリン・ソナタの第一楽章を弾いた。ピアノが韓国製のベイビーグランドで最悪だったため、狂詩曲で は乗り切れていなかったが、ソロでは力強いフレージングで素晴らしい出来。リサイタル後、パウクと話す機会があったので感想を訊ねたところ、バルトーク演 奏の大家であるパイクが口を極めて絶賛していた。ただ、ユリア自身は自らの演奏は全否定。憔悴しきった顔で、「あまりのひどさに途中で逃げ出したくなっ た」とまで言っていた。パウクが絶賛していたことを伝えても関心が薄いようだった。ここまで自己否定が過ぎるのも考えものだ。



6.28.2015

Paco Peña Flamenco Dance Company ― Flamencura

Ángel Múñoz
Charo Espino
Carmen Rivas
Paco Pena

ロンドン在住のフラメンコ・ギタリスト、パコ・ペーニャによる「Flamencura」公演のUKプレミアがSadllers Wellsで行われた。

スペイン出身のパコ・ペーニャは60年代にロンドンに移り、本場マドリッドから離れた場所で独自の音楽活動を続けてきた。フラメンコに多くの革命をもたら したパコ・デ・ルシアの一派とは一線をひいて、より伝統的なフラメンコ音楽を志向してきた。ジョン・ウィリアムズら、クラシックの一流ギタリストらからも 尊敬を受ける巨匠だ。

パコ・ペーニャを聴くのは初めて。一聴して、彼が伝統主義のギタリストであることが伺えた。例えば、パコ・デ・ルシア登場以降、多くのフラメンコ・ギタリ スト達はギターを床と水平に抱えるようになったが、パコ・ペーニャは伝統的な、ギターをのヘッドを斜め上に向ける持ち方だった。また、パコ・ デ・ルシアらは、ピカードという人差し指と中指を交互に使いつつ、弦を弾いた指を隣の弦で受け止めるアポヤンド奏法を用いて、速いフレーズで強靭な音を出 す。パコ・ペーニャはどちらかというと、弦を弾いた後に指を離すアルアイレを多く使っているようで、特に低弦の奏法にそれが顕著だった。

違いは音楽にも出ていた。パコ・デ・ルシアのような抜き身の刃のような劇的緊張感はなく、より包容力があって暖かい音楽であった。スタイルも伝統的で、あ く まで音楽は踊り(バイレ)と歌(カンテ)の従として提供されていた。パコ・デ・ルシアが導入したカホンはあったし、時折モダンなフレーズが顔を出すことは あったものの、全体として、ジャズ・フュージョンの影響を受ける前の70年代のフラメンコ音楽、という感じがした。

ただ、舞台の方は別。最初の二曲こそ伝統的な踊りだったが、徐々にモダンな要素が入ってきた。色彩感豊かな照明を効果的に使いつつ、西洋のバレエやモダン ダンスの要素をふんだんに取り入れた振り付けで魅了した。光と影のコントラストを強調した照明の中、三名のダンサーが非対称的に、しかしシステマティッ クに動きながら、まるでスティーヴ・ライヒのように複雑なタップを入れたり、女性ダンサーがケープを効果的に使いながら、まるで白鷺のように舞ったり。そ うかと思うと、その次でいきなり村の集まりでやりそうな、野趣たっぷりのフラメンコパフォーマンスに戻ったりと、全く予想がつかない展開で飽きさせなかっ た。今まで多くの フラメンコ公演を観てきたけれど、視覚面でこれほど楽しませてくれる公演は無かったと思う。

公演全体の統一感ではなく、あたかも万華鏡のようにフラメンコの可能性を見せてもらったわけだけれど、これはペーニャのアイデアでそうなったと言うより は、 複数の舞台監督がいたためにそうなったのではないか、という気がする。そう思ったのは、ペーニャの伝統的な音楽と、斬新な舞台の印象の乖離が大きかったか ら。しかし、その乖離こそがこの公演を面白く、ユニークにしていた。 日本に招聘したら評判になるだろう。




5.10.2015

Johann Sebastian Bach (1685-1750)  
Partita nr. 1 in Bes, BWV825

Ludwig van Beethoven (1770-1827)    
Sonata nr. 7 in D, opus 10 nr. 3

Franz Schubert (1797-1828)
Sonata in a, opus 143  D 784              
Six Moments Musicaux, opus 94  D 780

Grigory Sokolov

Concertgebouw, Amsterdam

欧米の批評家やピアニストたちの間で、現役世界最高のピアニストは誰か、という話になると、グレコリー・ソコロフを上げる人が多い。ソコロフは90年代に 入り、メジャーレーベルのコマーシャリズムとは無縁のところで、その独自の境地にあるピアニズムだけで巨大な名声を獲得しはじめた。過去の伝説的巨匠たち に比肩する力を持つ、唯一の現役ピアニストと言ってもいいかもしれない。

一方で、このソコロフ、日本ではあまり名前が認知されていない。これは、彼が日本で販売力を持つレコード会社と仕事をしてこなかったとか、徹底した旅行嫌 いと か、なにより、日本の批評家達が保守的な上に、大変不勉強だったことがある。最近交わされたDGとの契約によって、この状況は改善していくと思われるが、 若干、時期を逸した感も否め ない。私の周囲では、最近のソコロフは完璧主義が行きすぎて、音楽が息苦しくなってしまっている、という評価になっている。

今回はアムステルダムまで、そのソコロフを聴くために遠征した。私が数年前まとめたように、彼はイギリス移民局とビザ問題を抱えていて、2008年 から訪英 の招聘を全て拒絶している。旅行嫌いのソコロフは、今後、ヨーロッパ大陸外に出ることがないだろう。ということは、こちらから聴きに出かけるしか ないの である。

以下は演奏会のノート。

1) バッハ:Partita nr. 1
伸びの良い明るい音色がコンセルトヘボウに響き渡る。重量感と浮遊感の共存。溌剌とはしてはおらず、リズムは地に足がついている。若々しさ、軽やかさ、諧 謔味に欠ける。入念に練られたデリケートなタッチが支配。多彩な装飾音には粋のようなものを感じる。

フレージング処理については、細部までおろそかにされておらず、緊密なコントロールと呼吸が感じられる。よって決してスクエアではなく、柔軟性がある。

サラバンドは自然で穏やかで長大な呼吸の中、まるでレースを撫でるかのような繊細さをもってフレーズが処理されていく。素晴らしい、の一言。

音楽的にも技術的にも極めて高いレベルにある。ただ、同一プログラムを長く繰り返している弊害だと思うが、ミケランジェリがそうだったように、音を冷静に 置きに行っている印象が無きにしもあらず。 ジーグだけは素晴らしいスピード感と勢いがあった。それでいて、全体の設計はきっちりされており、恣意的なところはなかった。

2) ベートーヴェン: Sonata No 7
第一楽章。若干アイデア倒れで傑作とは言えない楽章ということもあるが、さっと軽く弾かれた印象があった。スピード感がある。この夜の曲全てに言えたこと だが、ソコロフの演奏では聴 こえるべき音が聴こえないとか、あるべきアクセントが無い、という事が全くない。全てが明快に弾かれており、どのような分厚い和音でも響きには一点のくも りもな い。ペダルのコントロール、和音のバランスへの配慮が卓越しているのだろう。

第二楽章
一音一音の表現の密度の異常な濃さ。悲劇的。個々のフレーズで、どのような感情、何を表現しようとしているかが明確で、空虚に弾かれた音が無い。ある意 味、非常に劇的な表現だが、安いメ ロドラマには決してならない。スケールの大きさ、フォルテとピアノの対比、ペダルのうまさが印象的。音が常に明確で一切濁らない。当初、なぜソコロフがこ のソナタを選んだのかわからなかったが、この楽章の圧倒的な解釈を聴いて合点がいった。これを弾きたかったのだ。ソコロフの作り出す音世界は初期ベートー ヴェンを超越している。この夜のハ イライトだった。

第三楽章、第四楽章
リズムを強調せず、穏やかに開始する。快速部はシャープなタッチで対比をつける。よく練られているが、生き生きとした感興は感じられず、自発性は感じられ ない。

3) シューベルト: A-minor Sonata ,D784
第一楽章
懐の大きさを感じさせるフレージングと巨大なダイナミックレンジ。ホールの隅々にまでしみ込んでいくような、巨大だが暴力的ではないフォルテ。決して流麗 ではなく、むしろ、立ち止まりつつ歩みを進めるような弾き方。あとに述べるように、二音から なるモチーフの二番目の打音を常に毛ほど遅らせることでフレーズの大きさを出そうとしており、実際に巨大なスケールを獲得している。一方で一定のパルスは 犠牲にされているので、若干胃にもたれるとこ ろも無いではない。強音、弱音の響きの明快さ、音の透明感はここでも素晴らしかった。

第二楽章
正確で柔軟性のあるリズムの中での弱音フォルテッシモの対比が素晴らしい。

第三楽章
やはり厳しいコントロールの中で、ラプソディックな開始部での蠱惑的な音色と、続く和音では轟音のようなフォルティッシモを対比させる。推進力に欠ける反 面、どっしりとした安定感がある。アクセントの処理とペダルが適切であるせいか、音が濁らず、明快さを失わない。

4) シューベルト:6つの楽興の時
ソコロフが表現を行う場合、純粋な表現主義とは一線を画すような、手癖に近い独特のルバートを行う時がある。フレーズ全体の打音を毛ほど遅らせていくので ある。これにより、正確なリズムから来るパルスの保持が若干犠牲にされる一方で、呼吸が深くなり、フレーズの大きさが増す。こういった手法が恣意的に、あ るいは重苦しく聴こえないのは、覚醒した意識の中でルバートがな されていて、それが曲の中のデザインの一環として注意深く使用されているからだろう。おそらく、彼は100回弾けば100回同じように弾くに違いないの だ。そ の意味では、今のソコロフのコンサートとは、音楽がその場で生成されているのを目撃するというより、あらかじめ完璧に仕上げられたものを眺める、という印 象が他のピアニ スト以上に強い。この点で、現時点のソコロフからはフィッシャー=ディスカウ、イアン・ボストリッジ、ミケランジェリらの音楽家たちと似た体臭を感じる (ただ、晩年のミケランジェリほど、音 楽が自発性や推進力をうしなっているわけではない)。こういったことを特に強く感じさせられたのが「楽興の時」。熱い息吹と迫力を感じさせた5曲目を除 いて、細部まで磨き上げられ、雄弁で、かつコントロールされつくしたピアニズムを体験させられた。

以下はアンコール。聴衆は総立ち。最後は手拍子も出た。ソコロフはステージマナーはぶっきらぼうな方だったが、アンコールに関しては気前が良く、終わって みたら6曲も弾いていた。終演は11時半近かった。

5) Chopin:Mazurka No.49 in A minor Op.68 No.2
先ほど述べた、引き延ばすようなルバートの中で、密度の濃い美しいトリルが響き渡る。遅く、ゆったりとした呼吸の中では、舞曲としての性格は失われ、むし ろノクターンのように響いた。

6) Chopin - Mazurka No. 4 in C-sharp minor, Op. 30
やはり、ここでもホロヴィッツが示した舞曲風の軽さはなく、湿潤度の高い耽美的とも言える空気が支配。ペダルは多く使っているものの、音が全く濁らない。

7) Chopin, Mazurka No. 41 op. 63/3
同様の手法。クリアな音でゆったりとまるで深海で弾かれるかのような表現。細やかなニュアンスをつけた表現。かなり大胆なルバートを使っていた。

8) Chopin: mazurka No. 32 opS0/3,
開始部。密やかな曲調とソコロフのデリケートなアプローチがマッチ。中間部はたっぷりと弾き、やはりリズムの鋭さは全面に出て来ない。各声部が主張、音楽 に彫りの深さを感じさせる。長調になる箇所でも音楽は浮き立つことはなく、あくまで耽美的な美しさを志向。

9) Chopin Prelude No. 15
「雨だれの前奏曲」。ソコロフは細かなニュアンスをつけながら、美しく、しかし、もたれることなく弾いた。中間部でもそれは変わらず、逡巡せずに力強い強 音 を叩きつけていた。興が乗ったのか、「ヤアー!」というような大きな掛け声をあげていたのが印象的。冒頭の主題が帰ってくる際にはピアノを超弱音に落と し、美し い白磁器のような音色をホールに響かせていた。

10) Deubssy: Vol 2-10
ドビュッシーのカノープス。手拍子に対して、最後は静謐の曲を持ってきた。アンコールはこれでおしまい、という意だったと思う。

全体的に、流石、と言わざるを得ない演奏会だった。録音で聴いた印象と同じものもあったし、他のピアニスト以上に録音には入りきらないものがあることもわ かっ た。前者については、時折顔を出した自発性と推進力の不足で、後者については、浸透力の高いピアノの音、巨大なダイナミックレンジや、一つ一つの音に明確 な表現の意志が感じられたこ とである。隈取りのはっきりした厚塗りの絵画を見ているかのようであったが、油彩の力強さ以上に、水彩の透明感と明晰さがあった。特に変 わった演奏、自己顕示の演奏、というわけではなかったのに、終わってみると、ショパンやシューベルトを聴いた、というより、ソコロフの演奏を聴いた、とい う印象だけが強烈に残ったのが不思議だった。彼が大きな名声を得た理由の一つだろう。



4.28.2015

Claude Debussy: La plus que lente for piano
Claude Debussy: Estampes
Fryderyk Chopin: Ballade No.2 in F, Op.38
Fryderyk Chopin: Ballade No.1 in G minor, Op.23
Interval
Fryderyk Chopin: Ballade No.3 in A flat, Op.47
Fryderyk Chopin: Ballade No.4 in F minor, Op.52
Claude Debussy: Children's Corner
Claude Debussy: L'isle joyeuse

ロイヤル・フェスティバル・ホールにてスティーヴン・ハフのリサイタル。客の入りは7割くらい。

ハフの録音は持っているし、本人とも若干の交流はあるけれど、生で聴くのは初めて。知的で洗練されたアプローチをとるピアニストで、モダンな感覚で曲をデ ザインする。彼はニレジハージを尊敬している。だが。ピアニストとしては完全に対極に位置すると思う。

コンサートは「レントよりも遅く」から始まった。ノスタルジックでオールド・アメリカンな味わいがたまらない。アンコールで演奏された自作からも感じたけ れど、ハフはこの頃のアメリカ音楽に惹かれているのではないだろうか。「版画」に続いてショパンのバラード全曲。美しいし、コントロールが良く効いている けれど、ロマンティックではないし、感興の盛り上がりにも欠ける。第四バラードにはもっと多様な感情が込められていると思うのだけれど、ハフは曲の感覚 美、音色の方に力を入れているかのようで、正直共感できる演奏ではなかった。「子供の領分」「喜びの島」は色彩感のあるタッチと巧妙なペダリングが光る好 演。アンコールは、おそらくハフの自作だと思われる二曲と、グリーグの「叙情組曲」から「夜想曲」。結局、この三曲とオープニングの「レント」が一番良 かったと思う。アンジェロやシーヤンらは旧知のハフに挨拶に行ったけれども、私はあまり気分がすぐれなかったこともあって、彼に会わずにそのまま帰宅し た。

ハフの演奏を振り返って思ったのは、彼もやはり英国の系譜に連なるピアニスト、ということ。こういう言い方は短絡的で思考停止で好きではないのだけれど も、ハフにはカーゾンやソロモン、ベンジャミンと共通する、知性的でアカデミック、リズムの正確さ、キメの細かさ、構造を情念よりも優先させるスタイル、 と言ったものが感じられる。小ぢんまりと纏まった中で、ある一定の範囲内での多彩さは感じられるのだが、茫洋としたスケールの大きさ、感情表現の深さはあ まり出てこず、デモーニッシュな迫力も少ない。やはり、物事を全く直裁的に言わないけれども、細部にこだわって分析的に物事を言いたがる、という英国の国 民 性もあるのだろう。彼がニレジハージに惹かれるのも、自分とは対極の存在だからこそ、なのかもしれない。彼が「レント」などで見せた、ノスタル ジックな味わいを持つロマンティシズムを聴くと、ハフにはニレジハージ・ホロヴィッツ的な側面もゼロではなさそうだし、それをもっと前面に出してほしいと 思うのだけれど。


3.29.15


Langhamでロビー・ラカトシュのパフォーマンスが あった。ラカトシュはジプシー・ヴァイオリンの大家で、アルゲリッチやヴェンゲーロフらのクラシック系アーティストとも共演している。

バンドの編成は、ヴァイオリン、ピアノ、ツインバレン(&パーカッション)、ベース。ステファン・グラッペリをもっとテクニカルにして、ジプシーフィーリ ングを全面に出した、という印象。クラシック、ポップ、ジャズ、ピアソラなどを次々と演奏した。

この日、ラカトシュが弾いた楽器は、ストラディヴァリウス晩年の傑作(Willemote Strad from 1734)とのことだった。輝かしく、エッジが効いた音色と、しなやかで力強いフレージング。後者は特に見事で、フレージングの起点から終点まで、鋭いリ ズム感覚の中で全てが見事なまでにコントロールされつつ、自由さが失われない。バンド全体がラカトシュと一体となって、まるで一個の生き物のように呼吸を し、歌う様は圧倒的。全盛期のピアソラ五重奏団もかくや、と思わせる完成度だった。

もしかしたら、この人は、その19世紀の詐欺師のような容貌、早弾きテクニック、「楽しい」音楽でだいぶ損をしているのかもしれない。だが、彼のフレージ ング処理は全てのジャンルの音楽家にとっての教科書だ。一つのフレーズの中で、どの音にどれだけの力価を置き、どのタイミングで鳴らし、どのようなアレン ジ・色彩感で彩るか。ラカトシュと彼のバンドは全てのフレーズで素晴らしく、完璧だった。

ラカトシュの演奏会に知人のハンガリー人のヴァイオリニストを誘ったのだけれど、あまり興味が無さそうだった。曰く、「ジプシー・ヴァイオリンは好きじゃ ない」とのこと。「でも、あなたがなんて言うか興味があるから後で感想を教えて」。

そのヴァイオリニストの演奏にはジプシー・ヴァイオリンの要素があるし、彼女とラカトシュのフレージング処理のやり方には共通項が多い。それだけに彼女の ラカトシュへの突き放したような反応は意外だった。アンジェロ・ヴィラーニにこの話をすると、「たぶん、近すぎる故にダメなんじゃないかな。俺を含む西 洋人たちはアキラ・クロサワは好きだけれど、君は「クロサワはやりすぎで鼻に付く」と言っていただろう。君はマフィア映画が好きだけれど、イタリア系の自 分からすると無理なところもある」。この分析には感心した。私は黒澤明には一時期はまって全部の映画を見たけれど、もう彼の映画は自分には手の内が見えす ぎて見ていられない。他の西洋人には勧めるし、感想をきいてみたいと思うけれど。彼女のラカトシュへの感情も似ているのだと思う。



Metamorphosis
Janáček Piano Sonata 1.X.1905 From the Street
Janáček In the Mists
Janáček Extracts from On an Overgrown Path: Unutterable Anguish; In Tears; The Barn Owl Has Not Flown Away!

Pictures at an Exhibition
Mussorgsky Pictures at an Exhibition
Mikhail Rudy piano
Kings Place

ソ連出身のピアニスト、ミハイル・ルディ。若いころはスターで、カラヤンとザルツブルグ音楽祭で共演したこともある。良いピアニストだったと思う。90年 代にEMIと契約し、ヤナー チェクの作品集を出していたが、最近は名前をきかなくなった。ルディとはニレジハージ版リスト・ロ短調ソナタの楽譜の件でメールをやりとりしたことがあ る。その時はフレンドリーな文面で好印象を持った。

この日は、ルディが関わっているマルチメディアプロジェクト。彼が監督したカフカの「審判」の映像に併せて、ルディ自身がヤナーチェックを弾き、続いて抽 象的な映像に併せて「展覧会の絵」を弾いた。マルチメディアのコンサートは我々としてもやってみたいと思っていたので興味津々だったが、結果はアイデア倒 れだった。

人形を使った「審判」の映像自体は面白かった。悪夢のような雰囲気も出ていたし、よく作り込まれていた。だが、いかんせん、ノスタルジックで甘さもあるヤ ナーチェクの音楽と全然合っていない。 カフカにはもっとコンテンポラリーな作品、例えば、リゲティとか、リストの後期作品のような厳しい音楽が合う。彼が映像にあわせてピアノを弾いていたのも 疑 問で、本来は彼の演奏に映像が合うような仕組みを作るべきだと思う。「展覧会の絵」の映像はさらに平凡。芸術的なインパクトに欠けていた。単にカンディン スキーやミロの画を見せていく方がよほどいいと思った。マルチメディアというアイデアは面白いのだから、しっかりしたプロの映像アーティストにやらせるべ きだと思う。

最大の問題は演奏だった。ルディは全くの他人ではないので同情的に見たいところなのだけれど、どう考えても「ひどい」の言葉以外思いつかない。年齢以上に 老け込んだ ピアニストが、指先のマンネリズムでただ弾いているだけだった。フレーズに内的緊張感がなく、リズムも崩壊、指も縺れていて、何度か止まりそうになってい た。あの弾きぶりと、仮面様の容貌、猫背、足を引きずるような動きを見ると、単なる年齢による衰え以外の健康問題があるのかもしれない。映像の助けもあっ て客 は喜んでいたが、正直、私にとっては辛い時間。その感覚はコンサートがはけ、ワインとグラッパで胸苦しさを洗い流すまで延々と続いた。

一つ思い出した。チケット売り場でアンジェロ・ヴィラーニと彼の婚約者を待っていると、くたびれたような、だが異様な風采の人物が我々のすぐ近くに焦点の 定まらぬ視点で呆然と 立っていた。頭の片隅で「なんかシプリアン・カツァリスみたいなオッさんだな」と思い、そのまま気にせずに知人と駄弁り、アンジェロたちが到着。婚約者か ら、 「そういえば、今日はここでピアノリサイタルが二つあるのよね」と言われてハっと気がついた。その夜、同じ会場でシャンパンの試飲を兼ねて、カツァリスが 登場する小イベントが あったのだ。見回すともうカツァリスの姿は見えなかった。かねがね、カツァリスの「ロ短調ソナタ」の録音を賛嘆していたので、「くたびれた」などと思って 申し訳な い気になった。


2.5.15


5 February 2015, 7.30pm • Main Stage
Conducted by Andris Nelsons
Terfel,, König, Rose, Lyon, Wyn-Rogers,
Royal Opera ChorusManningOrchestra of the Royal Opera House

Der fliegende Holländer

ロイヤル・オペラによる、Tim Alberyによる「さまよえるオランダ人」の再演。アンドリス・ネルソンスの指揮で、特にキレも美しさも無いまま序曲が始まる。ホルンがやたらとこける のは仕方がないとして、安全運転でフレーズの緊張感の保持が弱い。本編でも、時折テンポがもたれたり、女声合唱が遅れ気味になったりと、いまいち乗れない 指揮 ぶり。だが、水夫の合唱が交差するあたりから尻上がりによくなり、最後はそれなりに劇的で良い演奏になっていた。ネルソンスは最近評価が高くなっているよ うだが、これを聴く限り、手堅い指揮をするタイプであまり期待できなさそう。インパクトとインスピレーションの点でビシュコフとは比べ物にならない。

Tim Alberyによる演出だが、影と光のコントラストを使った舞台は目を引くものではあった。第一場などは、ゲッツ・フリーッドリヒがやりそうな近未来調 で、エイリアンに出てくる惑星のような趣もあった。ただ、一箇所わからなかったのが幕切れ。ここは伝統的な演出では、ゼンタが海に身を投げてオランダ人の 船が沈む、というものなのだけれど、昨晩はゼンタが帆船の模型を抱えて舞台中央に寝転ぶ、という、いささか不可解な終わり方になっていた。全てがゼンタの 妄想、ということなのかもしれないが、それにしても不徹底な演出だ。どうも、最近、個性を出そうとして意図が不明になる演出家の舞台にばかり出会っている 気がする。


ブリン・ターフェルはずっと楽しみにしていて、昨日、初めてその声を聴くことができた。声量を期待していたせいか、最初の独唱は「あれ?」という印象。上 手いけれど、ルネ・パーペのような凄まじい風圧のような声ではなく、ビブラートが大きく、鋭角的な声という感じを持った。ただ、声量が無いということでは なく、中域から上の声はよく鳴り響いていた。全体的に調子があまりよくなかったのかもしれない。最後の方はフォルテで声が何度も割れていた。ところどこ ろ、慣れから来る歌い崩しがあるのが気になった。性格付けとしては、全世界の苦悩を背負った亡霊ではなく、そこらにいる悩める中年男性、という雰囲気。こ れは これでいいのかもしれないが、感銘はあまり無かった。

ゼンタを歌ったピエチョンカは、リリカルで中低域のディクションのはっきりした、知性的で美しい歌いぶり。近いのはカラン・アームストロングだが、ピエ チョンカはさらに共鳴音が美しい。ただ、高域のパワーが弱いのと、あと、フレーズの短さに難があった。この声だと、ワーグナーで歌える役柄は限られてくる だろう。

エリックのケーニヒは平凡だったが、ダーラントのピーター・ローズは安定した歌いぶり。水夫のリヨンも粗けずりなところはあったものの、かなりよかった。 バイプレーヤーがこれだけしっかり歌ってくれると、全体が引き締まる。

昨晩の最大のスターは男声合唱団。これほど凄まじい迫力の男声合唱を生で聴いたことがないし、過去のバイロイトの録音と比べても質が高い。水夫と亡霊の掛 け合いの場面は、全曲のハイライト、クライマックスだったと思う。


1.23.15


ラモー
Gavotte and Variations in A minor

バッハ=ブゾーニ
Chaconne from Violin Partita No.2 in D minor BWV 1004

フランク
Prélude, chorale et fugue

ショパン
Barcarolle in F sharp Op.60
Mazurka in F minor Op.63
Mazurka in C sharp minor Op.30
Ballade No.3 in A flat Op.47

グラナドス
Quejas, o La Maja y el ruiseñor (Goyescas)
El Amor y la muerte (Balada) (Goyescas)
El pelele_ Escena Goyesca

バービカン・ホールでベンジャミン・グロヴナーのピアノリサイタル。神童としてスタートし、10代前半でメディアの寵児となり、いまや押しも押されぬデッ カ・アーティストになった。

冒頭のラモーは絶品の一言。彼の最大の美点である、緊密な装飾音と歌うようなピアノ(シンギング・トーン)の音色の融合。氷の上を滑るように動く指の完璧 なタッチのコントロールとレガート。やはり天才なのだろうと思う。こんなピアノの音と見事なコントロールは他で聴いたことがないし、装飾音のうまさに関し ては、全盛期のミケランジェリ、リパッティに匹敵する。この手の古典作品を弾かせたら、今、ベンジャミンは世界一巧いと思う。

続くバッハーブゾーニのシャコンヌ。リリカルな曲では本当に素晴らしいのだけれど、曲にスケールの大きさや情念が要求されるようになってくると、若干食い 足りなくなる。ベンジャミンの特徴、と言うか、弱点である呼吸の短さ、軽さ、非力さが不満になる。スケールが小さいことは否めない。だが、彼の音色のパ レットの豊かさ、レガートの美しさ、バランス感覚、優れたコントロールはやはり非凡だ。 そこかしこに和声への鋭敏な感覚が感じられる。完成したピアニストである事は間違いない。

フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」。予想通り、確かな技術に支えられたすっきりとした素直な演奏。規律正しいリズムの中、細部までクリアで全ての音 が聴こえる。いつも通りの煌めくような右手と羽毛のような軽いタッチ。まるでラヴェルかメンデルスゾーンのよう。緊張からか、フーガで数回、記憶違いのミ スがあったが、技術的には非常に高いレベルの演奏だった。個人的な好みからすると、フレーズの扱いが若干軽すぎるのと、絶対的なパワーに欠けているところ があった。そのせいか、宗教的な神秘性をほとんど感じさせなかった。もう少し、重厚感と粘りが出てくるといいのだが、これが彼の味なのだとも思う。

後半はショパンとグラナドス。ショパンはマズルカがよかった。やはり、彼の装飾音の美しさは無類。グラナドスは珍しいプログラム。Quejas, o La Maja y el ruiseñorは、ニレジハージが優れたロール録音を残した曲でもある。ニレジハージの耽美性は無い代わりに、リリカルな美しさが際立っていた。

公 演後、ロビーでアンジェロ・ヴィラーニと駄弁っていると、ベンジャミンがサイン会のために出てきた。人が途切れた頃を見計らい、二人で挨拶。ベンジャミン はアンジェロと家族ぐるみの付き合いで、お互いを認め合っている。アンジェロがベンジャミンに演奏の印象を伝えていた。私は簡単に、「ラモーが本当に素晴 らしかった。マズルカも」と言った。控えめで、はにかんだような笑顔でお礼を言われた。そういえば以前、彼に「Lost Genius」とNyiregyhazi Plays Lisztをあげたのだけれど、楽しんだのだろうか。感想を訊ねる時間がなかった。




11.27.14

Brahms variations on an original theme op21-1
Beethoven 32 variations in C minor on an original theme WoO 80
mozart variation on a menuet by duport k573
Schubert sonata in G D894

ラドゥ・ルプー(pf) Reading town hall

私のロンドンの音楽仲間の集まりは「デッド・ピアニスト・ソサエティー」との自虐的なニックネームをつけるほど、会うたびに死んだピアニストの話 ばかりし ている。だが、ごく稀に在世でも熱意を持って語られるピアニストがいて、その一人がラドゥ・ルプーだ。彼のリストのロ短調ソナタのプ ライベート・ライブ録音があるのだが、この演奏が悪魔的で雄大な迫力に満ちていて、この録音一つで我々の間でルプーは伝説的な存在になった。その ルプーも 70歳。心臓疾患を患うなど、健康問題を抱えており、かつてのピアニズムは望めないのだが、ルプーはルプー。彼のコンサートを逃すわけにはいかない。

若干の問題は、ルプーはもうロンドンには来てくれない、ということだ。彼はここ数年、ロンドンを避けてその隣町、レディングの小さなホールに来る。レディ ングはルプーほどのピアニストが来るような街ではないのだが、ロンドンほど文化的でないが故に気楽なのかもしれない。渋滞の中、3時間かけて車でレディン グに向かい、300-400席程度の小さく、古い会場に到着。客の9割はかなり歳のいった老人で、老人ホームの集まりのようだった。ウィグモアホールも高 齢者ばかりだが、ここのホールの聴衆はさらに10歳は老けている。若い 客は数えるほどしかおらず、その多くはアジア人だった。 英国のクラシック音楽の将来が心配になる。

ゆっくりとした歩みでルプーが登場。すっかり白くなった髪と髭。無表情の顔。特に足元がおぼつかないわけではないが、しっかりしているとも言えない。椅子 に深 々と腰掛けて、ブラームスをこの上なくロマンティックに開始。右手と左手を微妙にずらし、時に拍節をまたいでフレーズや音を混ぜ合わせながら、耽美的なソ ノリティをつくっていた。しかしダイナミッ クレンジは狭く、mezzo forteより音が大きくなることがない。リサイタルというよりは、私的な演奏に立ち会っているような錯覚に陥る。彼の音楽の柔軟で慈愛に満ちた佇まい は、まるで家で祖父が孫を前におとぎ話をしているかのようだった。ただ、中間部、ダイナミックに なる箇所でリズムが硬直し、テンポが遅れがちになる。左手はまだ音が出ているのだが、フォルテであるべき箇所で右手があがらず、打鍵がマシュマロのように 弱々しく、キ レが悪かった。ミスタッチは多くなかったが、絶対的な音量がなかった。気迫の衰え、筋力の衰えをはっきりと感じさせた。

一方、ペダリングの技術はまだ素晴らしく、スタインウェイからクリアでかつ暖かい響きを引き出していた。ベートーヴェンはブラームスよりもカッチリした演 奏。だ が、やはり右手のパワーの無さが気になる。むしろ、細かい運指を要求される次のモーツアルトの方が素晴らしかった。無心、天上の音楽で、レガートが自然で 美しく、フレージングに無理がない。チョッピーでクリーンな演奏ではなく、ロマンティックで曲の細かい襞のようなものが前面に出た演奏だったが、流麗さは 失われていなかった。それにして も、右手の筋力は明らかに衰えていたのにもかかわらず、速いパッセージがスムーズに弾けていたのが不思議だった。

休憩を挟んでシューベルトのソナタ。やはり、同系統の弱音主体の弾き方で、中庸のテンポを保ちつつ、細かなニュアンスを大切に弾き進めていた。やはりフォ ルテに力強さが無かったし、リズムの弛緩、硬直は隠せなかったが、死を意識したシューベルトの諦念のようなものは表現されていた。彼岸を浮遊するかのよう な音楽であった。 アンコールはシューベルトの即興曲。ゆったりとしたテンポで美しい演奏だった。

全盛期と程遠い演奏ではあったのは否定できない。予想していた通り、かつての悪魔的な迫力も技巧も見ることはできなかった。69歳だとのことだが、まるで 90歳の老人のような弾きぶりであり、気迫の減退があり、枯れきった音楽であった。その一方で美しく、暖かく、作為のかけらもない、 静謐の世界を堪能できた箇所も多かった。この様子からすると、もしかしたらこれが見納めになるのかもしれない。来て良かったと思う。



9.30.14

iTune Festival

Placido Domingo, Vittorio Grigolo, Angel Blue, Khatia Buniatishvili, Jonathan Antoine, Domingo Jr., and the Royal Philharmonic.

2007年から行われているiTune Festival。レディ・ガガ、トニー・ベネット、ラン・ラン、アデルなど、ジャンルを問わずにアーティストを招聘、同時にiTuneを通じて全世界に 生中継を行うというイベント。

非クラシック系の色合いの強いイベントということもあり、iTune Festivalのことは知らなかった。英グラモフォン誌がドミンゴの出る最終夜のチケットを抽選で配布しており、出したらそれが当たってしまった。2枚 貰ったので、1枚誰かにタダであげようと思ったのだが、突然の事で知り合いの中では誰も引き取り手がでなかった。知人の知人にも当たり、mixb、 mixi、facebook、職場の広告にも掲示。反応ゼロ。結局、会場の列にキャンセル待ちのチケットの列に並んでいた見知らぬ女性にあげた。 日本人の友人と待ち合わせているので、彼女にあげるという。

その日系女性は、ここ数年、iTune festivalの追っかけをしているらしく、会場のスタッフと顔見知りになっているほどらしい。彼女の話では、iTuneイベントのチケットの争奪戦 はかなりのものな のだそうで、聴衆は抽選でまず並ぶ権利を勝ち取るのだそうだが、通常の夜でもこれがなかなか当たらず、最終夜の今回は彼女も当たらなかったとのこと。私が 貰ったチ ケットの席は招待客用の特別席だったので、その人は大変喜んでいた。私の周囲で引き取り手が出なかったのは残念だったが、本当に欲しい人の手に渡って良 かったとは思う。

最初は カーチャ・ブニャティシブリのピアノから。革命のエチュード、月の光、メフィスト・ワルツ、ショパンのワルツ、愛の夢などの通俗名曲が続く。会場のラウ ンドハウスはそれほど大きくないのだが、照明からの雑音が多く、そのせいかアンプ、スピーカーを通してピアノの音を聴くはめになった。そのため、あまり はっきりした事は言えないのだが、とりあえず細部の粗さが気になった。テクニックは素晴らしい。旋律の歌い回しにおいて内的な緊張感に欠けており、速い箇 所でところ どころ弾き飛ばす傾向があるのは、録音の印象と変わらない。叙情的な箇所でぐっとテンポを緩める事が多いのだが、そこに緊張感とパルスが伴わないため、音 楽をダレさせてしまうところがあ る。ラ・ヴァルスでも、聴こえてくる筈の旋律、歌が聴こえてこない。単なるテクニックの博覧会のようになっており、音楽的には酷い出来。エンターテイメン ト性の高いイベントという事はあるにせよ、こんな粗いピアノを弾いているとラン・ランのように駄目になってしまう。

休憩を挟んでロイヤル・フィルが入場。しばらくしてドミンゴが入ってきた。ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」から「国を裏切るもの」。マイクの力を 借りてはいるが、全盛期とそう変わらない、力強く、安定した歌声だ。もう73歳なので、ビブラートが大きくなったり、声が硬くなる箇所はあるが、バリトン の音域であれば、まだまだ一流 の声だ。最後の最後、オーケストラと呼吸が合わない。歌い終わって「もの凄く緊張した!」とドミンゴ。彼ほどの大歌手でも、やはり全世界生中継は別物らし い。

MC、スペインものを挟んで、ドミンゴがゲストの歌手を紹介。一人はエンジェル・ブルーという黒人歌手で、これは新聞で読んで知っていた。トスカのア リア。ハスキーな中低域と、硬質な高音域の持ち主で、レオンティン・プライスにそっくりで、素晴らしい歌声だった。だが、毛ほどだが、高音が若干が フラットになる傾向があるのが気になる。まだ若いのに。後で「トロヴァトーレ」のデュエットをルーナ伯爵役のドミンゴと歌ったが、これは素晴らしかった。 ドミンゴのルーナ伯爵も見事。

次に紹介されたのが、なんとヴィットリオ・グリゴーロ。事前アナウンス無しだったので、嬉しい驚きだった。最初はアイドリングしていたが、すぐに本領を発 揮。素晴らしい声量と高音で聴衆を圧倒した。本人もノリノリで、MCだけでなく、ロックスターのような衣装で登場したり、舞台上で飛び跳ねたりと、このイ ベントを最高に楽しんでいるようだった。グリゴーロとドミンゴが一緒に歌う事はなかった(「次、やるよ」と二人)が、この二人が一緒にステージに立ってい るのを見れたのは幸せだった。

そして19歳のジョナサン・アントインという若手が登場。まず、「女心の歌」を歌った。柔らかめのテナーで、稀に見る美しい声だが、まだ喉が定まっていな い。歌い方がポップス歌手の歌い方で、マイクにかなり依存しているのと、高音が叫ぶような感じになっている。声を潰しかねない。だが、非オペラ曲の「ヴォ ラー レ」は素晴らしく、会場も合唱となった。ライト・クラシックでスターになる要素を持っている。

ホストのドミンゴはステージ狭しの大活躍で、ブニアティシヴリを呼び戻して、彼女の伴奏で彼女に(若干必要以上に)寄り添ってラブソングを歌ったり、ブニ アティシヴリのピアノでラフマニノ フの「パガニーニの主題によるラプソディ」の18変奏を指揮したり。だが、やはり彼はきちんとした指揮者ではないので、オーケストラのアインザッツが揃っ てこない。彼の怪しい指揮技術では、「パガニーニの主題..」は難し過ぎる。「こうもり」序曲の指揮もしていたが、これはさすがに得意曲とあって、それな りにいい演奏だった。響きはどこか野暮ったいが。

力強い「グラナダ」の後、手拍子でカルメン前奏曲。アンコールではドミンゴの息子が登場。父親と二人で「Perhaps Love」を歌った。ドミンゴがかつてジョン・デンバーと歌った曲である。親子でラブソングとは、普通で考えるとかなり気持ちの悪い状況なのだが、ドミン ゴが父親ならこれもアリなのだろう。ドミンゴ・ジュニアの歌声だが、もちろん、父の声には比肩しようもないが、ところどころ似た響きがあってさ すが親子だと感心した。コンサートはこれで打ち止め。最後の曲はドミンゴの声に疲れが出ていて若干不安定になりはじめていたので、あれ以上は歌えなかった と思 う。

とにかく、ドミンゴのサービス精神と、歌手としての健在ぶりを確認させられた夜だった。



7.15.14

ラ・ボエーム(ロイヤル・オペラ)

Director John Copley
Set designs Julia Trevelyan Oman
Lighting design
John Charlton

Conductor Cornelius Meister
Orchestra Orchestra of the Royal Opera House
Mimì Angela Gheorghiu
Rodolfo Vittorio Grigolo
Marcello Massimo Cavalletti
Musetta Irina Lungu
Schaunard Lauri Vasar
Colline Gábor Bretz
Benoît Jeremy White
Alcindoro Donald Maxwell
Chorus Royal Opera Chorus

ロイヤル・オペラの「ラ・ボエーム」。ヴィットリオ・グリゴーロとアンジェラ・ゲオルギューという二大スターの競演。この夜の公演は全英都市の劇場に生中 継され、数多くの人々が観ていたらしい。そういえば、数年前に同じコンビでグノーの「ファウスト」を観たこと がある。私の中でも最高のオペラ体験の一つで、パーペと共にグリゴーロは素晴らし かったものの、ゲオルギューは期待を下回る歌いぶりだった。

この夜、圧倒的に素晴らしかったのはやはりグリゴーロ。開始こそピッチが上ずり気味、フレーズを引きずり気味だったが、すぐに声が安定した。高音の輝かし さ、フレーズの長さ、泣きの入る情熱的な歌いぶり。まるでパヴァロッティとコレルリを足して二で割ったような素晴らしさ。そして声量。性質はリリコなのだ と思うが、「ファウスト」の時と同様、天井桟敷までビンビン声が響いていた。前も思ったが、グリゴーロはここ20年で最大の才能だと思うし、ロドルフォに 関してはドミンゴやカレーラスよりも上、パヴァロッティにも匹敵すると思う。彼が素晴らしい声を発するたびに、自分の鼓動が速くなるのを感じた。こういう 経験をさせられる演奏家は多くない。

ゲオルギューは「ファウスト」の時にマンネリと感じたクリーミーヴォイスも効果的だった。相変わらず声のパレットは貧弱だったけれども、ミミという役にパ レットはいらないし、後半、ミミが弱っていくほど、ゲオルギューのクリーミーヴォイスとの相性は良くなって行った。何より、ミミという役柄にリアリティが あって、こちらも思わずドラマに引込まれた。

後の歌手はまあまあ。ただ指揮者は問題で、はっきりと力量不足でオーケストラとの信頼関係が築けていないように思えた。良い箇所もあったけれども、ところ どころでオーケストラのレスポンスが悪く、何度か緊張感が途切れたり、歌手と合わなかったり。歌手が良かっただけに、指揮者がパッパーノでなかったのが返 す返すも残念。


7.5.2014


Chopin
A Selection of Waltzes and Mazurkas
Rachmaninov
Corelli Variations Op. 42
Medtner
Tema con variazioni
Dithyramb in Eb Op. 10 No. 2

Nikolai Demodenko (pf)

ニコライ・デミジェンコがロンドン・ウィグモアホールに久しぶりに登場。得意の後期ロマン派を弾いた。

前半のショパンはマズルカとワルツを交互に組み合わせたもの。正直言って演奏は期待をはるかに下回るものだった。技術的な問題だけでなく、音楽的にも悪 かった。リズムが重く、ミスタッチだらけで生気がない。音に表情が無く、前に出てこない。眠剤中毒の時のホロヴィッツほどひどくはないが、若干それを思わ せる演奏。イ短調のワルツとマズルカは素晴らしかったが、後は練習不足でそのまま演奏会に臨んだような出来だった。客達は拍手喝采でブラボーの嵐。しか し、正直言って、体調を心配したくなるような出来だった。

しかし、後半が始まると、ガラリと印象が変わった。別のピアニストのようだった。相変わらず不安定で、一瞬止まって弾き直したりするところもあったけれ ど、音楽的には充実していた。特に、最後のメトネルでの音響の伽藍は圧倒的だった。ホールを満たすような巨大な音でありながら、うるさくなる事がなく、隅 々まで充実した豊麗な響き。ニレジハージについてのシェーンベルグの言葉ではないが、あんな凄い音は今まで誰からも聴いた事が無い。良かった。明らかに不 調 ではあったけれど、最後の最後で凄さを見せてくれた。

後半のデミジェンコは、もしかしたら前半と何も変わっていないのかもしれない。ただ、楽曲との相性、つまり、ショパンのワルツでは剥き出しになってしまっ た今の彼の問題点が、メトネルではうまく隠され、彼の本来の美点が前面に出てきたのだと思うし、曲への思い入れの強さみたいなものは明らかに違ったように 思う。

終演後、アンジェロ・ヴィラーニに誘われて楽屋へ行った。彼らは20年来の付き合いで、デミジェンコはアンジェロのためにメディア向けの推薦文も 提供している。しばらく待っていると、「アンジェロ!手の調子はどうだい?」と熊みたいな大男が、体躯に似合わない甲高い声で駆け寄ってきた。それがデミ ジェンコだった。アンジェロに紹介してもらい、握手。柔らかい手だった。「メトネルが素晴らしかった」とだけ言うと、慇懃な物腰でお礼を言われた。前か ら、デミデンコとデミジェンコのどちらが正しい発音なのか本人に訊こうと思っていたのだが、すっかり忘れてしまった。しばらく立ち話をしてお開き。


5.22.2014


Conductor Oleg Caetani
Orchestra Orchestra of the Royal Opera House
Floria Tosca Oksana Dyka
Mario Cavaradossi  Roberto Alagna
Baron Scarpia Marco Vratogna
Angelotti Michel de Souza
Spoletta Martyn Hill
Sacristan Jeremy White
Sciarrone Jihoon Kim
Gaoler Olle Zetterström
Chorus Royal Opera Chorus

アンジェロ・ヴィラーニの招待でコヴェント・ガーデンの「トスカ」に行ってきた。自分でチケットを取ったわけではなかったので、キャストも一幕の終わりま で確認せず。ほぼ完全なブラインドで演奏に入った。

プロダクションは2011年に観たジョナサン・ケントのプロダクションと同一。まずカヴァラドッシ。アラーニャはレコードで何度か聴いた事があるが、平板 な薄っぺらい声に感心しなかった。パートナーのゲオルギューと合わせて、見た目先行の歌手だと思ったものだ。しかし、昨晩、生で初めて聴いて印象が変わっ た。第一幕は名前を確認せずに聴いていたのだが、若干声や表現が一本調子ではあるものの、良く伸びるストレートな声の持ち主で素晴らしいと感じた。歌いぶ りも真摯で、三人の主役の中で一番の好印象だった。

トスカを歌ったオクサナ・ディカはウクライナのソプラノ。低域は若干硬いものの、中域から高域にかけての声は、ミレルラ・フレーニを思わせる美声だった。 若干声がドラマティックではあったものの、優れたトスカだったと思う。

スカルピアを歌った歌手。当初、トーマス・ハンプソンが歌う、とは聴かされていて、それだけは覚えていた。しかし、出てきた歌手の声がハンプソンと違う し、声も表現も何も光るものがない。第一幕が終わって歌手を確認したら、マルコ・ヴラトーニャという歌手に変わっていた。ハンプソンのスカルピアを聴きた いわけではなかったし、実力さえあればネーム・バリューは関係ない。しかし、ヴラトーニャは単に実力不足だった。高域のピッチが安定しておらず、まるで不 調のシェリル・ミルンズのよう。カーテンコールで私の周囲から珍しくブーイングが出ていたが、それも頷ける反応だと思った。

指揮のオレグ・カエタニは、スイス出身のイタリア人指揮者。機能主義と叙情性のバランスが取れた指揮ぶり。典型的なイタリア人指揮者のように音楽に没入 し、ドライブするのではなく、全体を冷静にコントロールしつつ、状況に合わせて音楽を適切にまとめていく。強く印象に残っているのが、「星は光りぬ」の冒 頭のクラリネット独奏の箇所で、カエタニはオーケストラの音を抑え、マシュマロのような柔らかい音でクラリネットを吹かせた。まるで夜の帳が下りるかのよ うな響きには陶然とさせられた。時にスクエアすぎる面があったし、カエタニのやった事全てに満足がいった訳ではなかったけれども、この瞬間だけは最高に素 晴らしかった。昨夜のハイライトだったと思う。調べてみたら、イーゴリ・マルケヴィッチの息子らしい。父親ほど派手では無いかもしれないが、優れた手腕の 持ち主だ。



4.15.2014
Benjamin Grosvenor
Escher quartet

Mendelssohn       Quartet in E flat Major op.12
Mendelssohn      Andante and Rondo capriccioso, Op.14
Schubert           Impromtu in G flat D899 No.3
Gounod/Liszt     Valse de Faust
Dvorak              Piano Quintet

この日はテンプル・チャーチで、ベンジャミン・グロヴナーとエッシャー四重奏団のジョイント・コンサートがあった。ベンジャミン・グロヴナーは若干12歳 でBBCのコンクールに優勝し、神童ピアニストとして英国のメディアを大いに賑わせた。順調に成長し、2011年にデッカの専属アーティストとなり、名実 ともに英国を代表する若手ピアニストとなった。現在22歳。

彼は素晴らしい技術と美しい音色を持っているが、正直、この日の演奏は低調だった。共演したエッシャー四重奏団のレベルが低かったこともあるが、今ひとつ 集中力に欠けていた。それでもシューベルトの即興曲は美しい歌を奏でていたが、リストはあまりに健康的すぎたし、メンデルスゾーンとドヴォルザークは弾き 飛ばしている感があった。スター街道にいて異常に忙しいのはわかるが、もう少し時間をかけて音楽を熟成させた方がいいと思った。友人の評論家のマイケル・ グロヴァーが昔からベンジャミンを強く推しているが、正直、ベンジャミンには表現者としての限界を感じるところがある。優れたピアニストではあるし、技術 はべらぼうだし、表現意欲もあるのだけれど、リストなどでは育ちの良さが邪魔してしまうところがある。 バッハなどの古典曲は素晴らしいと思うけれども。

コンサートの後、楽屋として使われた部屋で簡単なドリンク・パーティがあった。ベンジャミンが子供の頃から親しくしているマイケルが私を彼に「ニレジハー ジの専門家」 と紹介した。私が「アンジェロ・ヴィラーニの友達だよ」と 言うと、「ああ!」とベンジャミン。彼はアンジェロのレッスンを受けたことがあって、ピアニスト としてアンジェロを尊敬している。ニレジハージはyoutubeで聴いているけれど、まだケヴィン・バザーナの本を 読んでいない、とのことだったので、後 でCDと本を送ると約束した。ぱっと見は老成しているようだが、話してみると22歳という年齢よりも幼く、小さくて、シャイで純粋な少年のようだった。

この夜は、リパッティの研究者で、カナダの著名なピアノ音楽愛好家のマーク・エインリーがマイケルを訊ねてきていて、彼とも知り合いになれた。きくと、私 の友人の木下淳氏とも親しく、日本に行くと必ず会う仲だとのこと。演奏会は今ひとつだったが、それ以外の収穫が大きい夜だった。



4.13.2014

Performers
Vilde Frang
violin
Michail Lifits
piano
Programme
Brahms
Scherzo from F.A.E. Sonata (Sonatensatz)
Beethoven
Violin Sonata No. 6 in A Op. 30 No. 1
Albéniz
El puerto and Sevilla (arr. for violin and piano by Heifetz)
Franck
Sonata in A for violin and piano

日曜日の午後、アパートで昼寝をしていたらアンジェロ・ヴィラーニか ら突然連絡。「ウィグモア・ホールでVilde Frangというヴァイオリニストがフランクを弾くからどう?」。友人数人にも声をかけたという。午後の昼下がり、ロンドン市内まで行くのはちょっと面倒 臭いと思ったけれど、フランクの一言で釣られた。

Vilde Frangはノルウェー出身のヴァイオリニストで、EMIと契約を結んでいる。来日もしているし、ウィーンフィルと共演している。売り出し中のヴァイオリ ニストとのことだが、当日の客の入りは半分以下の200-300人弱だった。だが、演奏は本当に素晴らしかった。彼女のやったことの全てが気に入った。ど んな音楽を弾いても内面から自然に豊か な音楽が湧き出てくるのが感じ取れた。フレージングが呼吸と一体化していて、テンポが自在に伸縮しても不自然さがない。気に入ったのは、ヴィブラートが恒 常的に使われるのではなく、あくまで表現の手段として使われていたこと。演歌のコブシと同様、本来ならば、ヴァイオリン演奏のヴィブラートも適切に使われ るべきだと思う。そういった事を含めたフレーズ処理の見事さ、歌い心の豊かさ、緊張感、スケールの大きさ。若いけれども、全てが備わっているヴァイオリニ ストだと思った。オイストラフやヒルシュホルンを思い起こされる逸材、そしてこれほどのフランクを生で聴けたのはラッキーだった。アンコールはポップスの 「エストレリータ」。好きな曲ではあるけれど、細部までケアされた素晴らしいフランクの後では、これは蛇足にしか聴こえない。三和音のピッチも不安定だっ た。

一方でピアノのLifits。ブゾーニ国際コンクールなど、数多くのコンペティションで優勝。デッカと契約を結び、カーネギーホールでも弾いている。この 曲はピアノパートが大変難しく、巨匠ピアニストでもメロディア盤のリヒテルを除いて満足できた試しがない。Lifitsは技術的には問題がなかったし、こ の曲の必要なパワーをもってはいたがが、プラスアルファが今一歩だった。優柔不断な性格なのかどうかわからないが、若干タッチがソフトで、クレッシェンド のカーブが若干なだらかでエッジが効いていない。あるべき箇所でのアクセントが弱いため、曲の大きさが出てこない。Frangの足を引っ張ることはなかっ たが、完全には満足出来ないピアノパートだった。



3.29.2014
影の無い女

Director Claus Guth, Designs Christian Schmidt, Dramaturg Ronny Dietrich, Lighting design Olaf WinterVideo designAndi A. Müller
Performers

Conductor Semyon Bychkov
The Emperor Johan Botha, The Empress Emily Magee, The Nurse Michaela Schuster, BarakJohan  Reuter, Barak's Wife Elena Pankratova, One-Eyed Brother Adrian Clarke, One-Armed BrotherJeremy White, Hunchback Brother Hubert FrancisSpirit,  Messenger Ashley Holland, Voice of a Falcon Anush Hovhannisyan, Guardian of the Threshold Dušica Bijelic, Voice from Above Catherine Carby, Apparition of a Youth David Butt Philip, First Nightwatchman Michel de Souza, Second Nightwatchman Jihoon Kim, Third Night watchmanAdrian Clarke, Voice of Unborn Child Ana James Voice of Unborn Child Kiandra Howarth Voice of Unborn Child Nadezhda Karyazina
ChorusRoyal Opera Chorus Orchestra
Orchestra of the Royal Opera House

今年はリヒャルト・シュトラウスの記念年ということで、現在、ロイヤル・オペラとスカラ座の共同プロダクションでシュトラウスの「影の無い女」が 行われている。詩人ホーフマンスタールとシュトラウスというオーストリアが生んだ二人の天才ががっぷり四つに組んだ作品。ストーリーは象徴と寓意を盛り込 みすぎ、まわりくどさを通り越して理解困難になってしまっている。私はこのオペラを良く知っている方だと思っているけれど、それでも、タカだのカモシカだ のが出てくる台詞の多くは象徴だらけで何を言いたいのかよくわかっていない。

このオペラには、160人編成のオーケストラ、オルガニスト、5名の 主役歌手、複雑なスコアを熟知する練達の指揮者が必要で、演出では天界、地上、冥界、幻覚が交差する場面をうまく扱わねばならない。ということで、オペラ ハウスにとってはあまりに負担が大きいため、ロイヤルオペラ級のメジャーハウスでも20-30年に1度程度しかプロダクションできない。私は29日の公演 に行った。オーケストラは大編成すぎてボックスに入りきらず、客席にまで溢れて弾いていた。

音楽的には大変強力な公演だった。5人の主役歌手全てが素晴らしかった。皇帝のヨハン・ボータは若干ビブラートがあるものの、柔らかい中に芯のある声で、 声量も十 分。あまり知性を感じさせない声だが、皇帝にはそれがあっていた。皇后のエミリー・マギーは透明感のある歌声で、リリカルな箇所でもドラマティックな箇所 でも良かった。声質は違うが、声の重さはこの役を得意としたレオニー・リザネクに近い。バラクのヨハン・ロイター。ヴォータンをレパートリーとしている歌 手で、系統的にはジェームズ・モリソンに似ている。豊麗さに は欠けているものの、キャラクターはバラクに合っていた。バラクの妻のエレナ・パンクラトーヴァもスピントのきいた声が印象的で、キャラクターへの同化も 十分だった。乳母のミカエラ・シュースターも役のメフィスト的な面を巧く出していた。この5人、どれも穴が無かったが、個人的には一番印象に残ったのは、 舞台上の存在感も含めて乳母のシュースターだった。

しかし、この公演の最大のスターはビシュコフとオーケストラだったと思う。いままで、コヴェント・ガーデンのオーケストラがこれほど艶やかで、色彩感豊か で、パ ワフルな音色を奏でたのを聴いた事はなかった。デリケートなパッセージから強力なフォルティッシモまで、室内学的な透明感が保たれていた。安っぽい効果や 感傷的な旋律に溺れることなく、冷徹で客観的な視点が保たれていた。その一方でオーケストラの「鳴り」も凄まじく、時折、劇場全体が鳴動するので はないかと思われた。今、このオペラを扱える指揮者はティーレマンを含めて世界に何人かいると思うが、ビシュコフはその筆頭の存在と言ってもいいと思う。 それどころか、過去、このオペラを得意としてきたベームやショルティらと比べても遜色が無い。日本のオペラハウスやオーケストラは何を置いてもビシュコフ と契約すべき だ。

もう1人のスターはもちろんリヒャルト・シュトラウス。個人的にはこのオペラの音楽には「エレクトラ」や「サロメ」ほどの霊感のひらめきというか、集中力 みたいなものが無いように思うのだけれど、その職人的技術のキレは別格だ。ワーグナー以降、これほど聴衆を圧倒させるオペラを書くことが出来た作曲家は シュトラウス 以外いないと思うし、劇場体験と言う点ではワーグナーさえも色あせさせる凄まじいものをシュトラウスの音楽は持っている。この作品や「無口な女」などは もっと上演されてしかるべきだと思う。ロイヤルオペラの聴衆の大半はこの作品を知らなかったと思うが、それでも最後は立ち上がって熱狂的な反応だった。

公演で問題があったとすれば演出。クラウス・グートは、いまオペラ演出でもっともホットな演出家の一人だと思う。光と影、空間、映像をうまく使ったステー ジは美し く、視覚的には満足できた。所々よくわからない箇所はあったものの、最終幕の途中までは楽しめた。ところが、皇帝が石になったあたりから、ホーフマンス タールの台本からの遊離が顕著になってきた。石の皇帝が登場すべき場所では何も登場せず、変わりに寝室で錯乱する皇后が歌うのみ。その直後、生身の皇帝が 登場すると、皇后はなぜかカモシカのお面をかぶり、カモシカのお面を被った多くの子供達が登場して踊りだした。エンディングでは皇后のみがステージに残っ て錯乱する動きを行い、続いて寝室で眠る女性と伝統的な服を来た乳母が登場、最後に女性が「よく寝たー」と いう伸びをして終わった。どうやら、このオペラ全体が一女性の悪夢、ということらしい。

私はプロットを変えるような意欲的な演出は嫌いではない。ジャン・ピエール=ポネルのトリスタンのように、あまりに上演されすぎたオペラではそういう試み はありだ と思う。だが、このように比較的レアなオペラでそれをやってしまうと、考え抜かれた台本作家の意図が一切伝わらぬままに終わってしまう。それに、ホーフマ ンスター ルのスクリプ トのわけのわからなさをひっくるめて、「一女性の夢」の一言で片付けてしまうと、座っていた4時間は何だったのかと思ってしまう。芸術作品に内包されてい る曖昧さ、不条理は説明しすぎない方が良いのだ。「夢」「幻覚」というのは全てを説明できてしまうけれども、その一方でもっとも短絡的な方法であるとも言 える。何より、皇后がカモシカ のお面を被り始めてからは、ステージで何が起きているのか頭で理解しようとしてしまい、音楽に集中できなくなってしまった。才気煥発な演出家がやりすぎ て、オペラの成功 の足 を引っ張ってしまう。よくあることだが、本当に残念なことだと思った。

なぜ夢オチにしたのか。やはり政治的な理由だろう。周知のように、このオペラは女性の不妊と夫婦の不仲を題材にしている。皇后は不妊であるため、影が出来 ない。その罰として夫の皇帝は石にならねばならない。バラクの妻は欲求不満を抱えており、それ故に夫を拒否し、新しい男性を受け入れるために影を売り(不 妊となる)、その罰として冥界に落とされる。全ての災厄が、「妻に子供が出来ない」というところから出発している。一見、フェミニスト達を激高さ せるようなプロットなのだ。しかしこのストーリーが、不安神経症の女性の悪夢であれば、フェミニストも怒りようがない。あくまで想像だが、夢オチの理由は こんなところではないかと思う。



2.16. 2014
Prokofiev Sonata No 3 in A minor, Op 28
Chopin Sonata No 3 in B minor, Op 58
Kapustin Variations for Piano, Op 41
Chopin Nocturne No 1 in C minor, Op 48
Chopin Ballade No 3 In A-Flat Major, Op 47
Stravinsky Petrouchka: Three Movements for Piano

Yuja Wang (pf)

Barbican Centre

ユジャ・ワンのリサイタルは3年ぶり。

ユジャ・ワンというと、枕詞のようにその超絶技巧が言及されるけれど、彼女の本質はロマン派、表現主義だと思う。彼女の演奏は内面からわき上がるものに突 き動かされている。曲に真っ正面から対峙し、全身全霊で曲にぶつかり、ステージ上で内面を爆発させる。そこには人真似の入る余地はないし、聴衆はまるで即 興演奏のような生々しさを目撃することができる。アンスネスのように、あらかじめデザインされた解釈を演奏するピアニストが多い中、ユジャはアルゲリッチ と共に、本当の意味での「表現」をステージでやり、かつ超絶技巧を有する数少ないピアニストだと思う。

今回聴いてはっきりしたユジャ・ワンの特質の一つが、彼女の体内時計の中にある正確無比なリズムと、それを崩さない自己規範の 高さだ。この二つは偉大な高みに達していると思うし、彼女の同郷のピアニストであるラン・ランや、ユンディ・リに欠けている点でもある。この完璧なリズム 感と自己規律によって、ストラヴィンスキーやプロコフィエフは恐ろしいまでの迫力を獲得する。

叙情的な箇所ではどうだったか。やはり、大きなリズムをキープしつつ、その呼吸の中で微妙なルバートを入れながら歌っていた。枯れた味わい、ノスタル ジー、といったものはあまり感じられない。憂愁の影も薄い。だが、一種の儚さとひたむきさのようなものが前面に出てきていた。彼女が今出来ることだけを やった結果で、それは素晴らしい事だと思う。

アンコールは、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、プロコフィエフの「トッカータ」、ラグタイム、カルメン幻想曲、ショパンのワルツと盛りだくさん。聴衆は 文字通り熱狂的な反応で、総立ちで喝采を送っていた。総立ちは6年前のアルゲリッチ以来だった。

3年前聴いた時は、強烈な印象を受けた一方で、べらぼうに巧いけれど表現が一次元的で非力、と思ったこともあった。だが、今回はショパンの第三ソナタで音 楽に重厚さと粘り、スケールの大きさが感じられるなど、内面の成長が感じ取れた。もし、挫折や危機を迎えなければ、3年後はさらによくなるだろうし、10 年後は真に偉大なピアニストになっているだろう。彼女のような天才の演奏をこれからずっと聴き続けられるのはありがたい。



2.12.2014
Francis Poulenc: Gloria
Maurice Ravel: Daphnis et Chloé (complete)

Royal Philharmonic Orchestra
Charles Dutoit conductor
Nicole Cabell soprano
Philharmonia Chorus

プーランクの「グロリア」は初めて。プーランクは詳しくないのだけど、宗教的な官能性と原始的なリズムの交錯には、音楽的言語は違えども、オリヴィエ・メ シアンとの共通点を感じた。Nicole Caballはアンジェラ・ゲオルギューの代役で頭角を表した人。パミーナやムゼッタをレパートリーとする。若干高音が硬いけれど、よく共鳴する柔らかい 歌声で、オーケストラの音の壁を抜けて響き渡っていた。

「ダフニスとクロエ」全曲。こういう曲を振らせたら、今、デュトワの右に出るものはいないだろう。デュトワは曖昧模糊と茫洋とした響きを作るのではなく、 あくまで明快な響きを指向し、機能的に優れたアンサンブルでラヴェルの音楽を精密に描く。美しいメロディでもルバートやレガートの多用を行わず、リズムの 骨格はびくともしない。それでいて、リズムが硬くなりすぎることがない。並外れた色彩感と、音のバランス感覚のおかげだろう。盛り上がる箇所では、威圧感 を持ってこちらに迫るのではなく、音が上に広がる感じがする。終曲のバッカナールも素晴らしかった。この曲では、オーケストラをうまくドライブさせながら も、自然な推進力を保たねばならない。例えば、小太鼓のリズムが前面に出過ぎると躍動感を失うし、逆に背面にまわりすぎると推進力を失う。しかしデュトワ の手綱捌きは見事の一言で、小太鼓の細かいリズムとティンパニーの大きなリズムがテンポを微妙に伸縮させつつ絡み合い、大きなクライマックスを作ってい た。オーケストラも気合いの入った演奏で、最後の和音とともに大きなブラボー。デュトワは何度も呼び戻されていた。

今年はデュトワがロイヤル・フィルの芸術監督になってから5年目。個人的には、今のロンドンの四大オーケストラでは一番聴きごたえのある組み合わせだと思 う。ただ、デュトワは北米での仕事が多いせいか、ロイヤル・フィルへの登場回数が多くないのが残念。もう少し出てほしいし、ロイヤルオペラにも出てほしい ものだ。



12.5.13-12.6.13
ダニエル・ベン・ピエナール:平均律クラヴィーア全集演奏会(Kings Place, London)

ダニエル・ベン・ピエナールは南アフリカのピアニスト。日本では盲目のヴァイオリニスト、川畠成道の伴奏者として知られている。

アンジェロ・ヴィラーニはダニエル・ベン・ピエナールの師 匠にあたる。一年ほど彼をレッスンしていた事があるそうで、ヴィラーニいわく「ダニエル・ベンは 大変な天才。問題は、アガリ症がひどくて、緊張感を処理することができず、時折速く弾きすぎてしまう。もし彼が自分をコントロール出来た時の演奏は本当に 凄い」。評論家のマイケル・グロヴァーもピエナールには賞賛を惜しまない。最近リサイタルに行く気が起きない、というマイケルにその理由を聴いたところ、 退屈しきった顔で「誰も面白く無い。昔はソコロフだったが、今の彼には興味が無くなってしまった。行く気になるとしたら、ベンジャミン(グロヴナー)とダ ニエル・ベンだけだ」と言った。

そのダニエル・ベン・ピエナールが、バッハの平均律クラヴィーアの第一巻と第二巻を二日に分けてKings placeで弾いた。彼にとっては久しぶりの公開演奏になるはずだ。Kings placeは数週間前にヴィラーニと下見に行った事がある。まだ比較的新しいホールで、ピアノリサイタルに理想的なサイズと、優れた音響を持っている。 ウィグモア・ホールは有名ではあるが、実はピアノ向きの音響ではないため、これからはKings Placeが積極的に使われていくのではないかと思う。 中音域が飽和するところはあるが、ウィグモア・ホールよりは分離が良く、ピアノの美しい響きが良くとらえられていたと思う。

初日は第一巻。ピエナールは、バッハにおいては若き日のグレン・グールド風のリズミックで精密なアプローチを取る事が多いのだが、昨日の彼は全く違った。 ロマンティックでピアニスティック、美しいレガートと色彩感にあふれた音色。まるでショパンの前奏曲やラヴェルの「夜のガスパール」を弾いているかのよう なタッチが登場した。問題はバッハの音楽にある、リズミカルなパルスが頻繁に消えていたことで、フレーズが時にせわしなくなり、旋律の力強さが消えてしま うことが多々あった。快速のフーガはまるで洪水が起きたかのように弾かれ、個々の声部はペダルでかき消された。ゆったりしたフーガは良かったものの、美し いレガートがリズムに優先される事があり、アーティキュレーションが犠牲にされていた。正直、前半は聴いていて居心地が悪く、拒否反応の方が強かった。

後半は緊張がほぐれたのか、あるいはこちらが彼のアプローチに慣れてきたのか、彼の演奏を少しずつ楽しむ事が出来るようになった。素晴らしかったのが最後 の24番のフーガで、雄大さといい、ステンドグラスのような響きといい、ロマンティッ クな歌いまわしといい、大変な名演奏だったと思う。こういうのを聴くと、なぜグロヴァーやヴィラーニが口を極めてピエナールを賞賛するのかがよくわかる。

二日目の第二巻の演奏会に、ヴィラーニやグロヴァーとの共通の友人のPが来ていた。前半が終わり、Pに感想を訊ねてみた。私は第一巻で洗礼を受けていたの で驚かなかったが、Pはピエナールの解釈に大きなショックを受けたようだった。頭をふりながら、「素晴らしい音符や歌が洪水のような音とスピードにかき消 されてしまっている」「何をやろうとしているんだ?」「彼のゴールドベルグはカッチリしていて素晴らしかったのに」「彼が弾き始めた途端、俺の周囲にいた 連中が文句を言い始めた」。

若手ホープの香港人ピアニストのシーヤン・ウォンも来ていて、私たちの話に加わってきた。彼は同業者としてPよりも好意的だった。「ダニエル・ベンは何か を 達成しようとして、あえて大きなリスクを犯したんだと思う」「きっと、第二巻全体のアーチを考えた時に出た答えがあれなんだろう」。ウォンの意見の前半の 部分には同意できたが、後半についてはちょっと違うんじゃないかと思った。おそらく、ピエナールは、平均律クラヴィーアをバッハの作品と してではなく、グールドも含めた伝統的なバッハ演奏を超えた、一つの「ピアノ作品」としてとらえているのではないか。だから、曲の性格に応じて、ラヴェル やショパンにこそふ さわしいタッチをふんだんに使ったり、後期ベートーヴェンのように洪水のようなタッチで弾いたりする。最初は緊張感でパルスが消えていたと思っていたのだ が、どうも指向性の違いから結果的にそうなったような気がする。おそらく、全体のアーチ云々よりも、個々の曲の中で、ピアノで出来る表現の限界を追求して いった結果が、 ああいう個性的な解釈になったのだろう。それが常に成功しているとは限らないし、むしろ拒否反応を起こす結果になっているけれども、この上なく自由で、ピ アニスティックである事は間違いない。Pとウォンにこんな感想を言った。

「後半の演奏はもっと気に入るんじゃないかなあ」とPに言ったが、結局、Pは最後まで 納得できないまま家路についたようだった。

ヴィラーニにピエナールと話すよう勧められていたので、公演後、ピエナールのところに行った。正直に、 ネガティヴな意見も含めて感じた事を話したら、黙って話を聞いて、小声でお礼を言われた。写真ではハンサムだったけれども、間近で見たら小柄の猿顔で、 「ロード・オブ・ザ・リングス」で小人の一人を演じたドミニク・モナハンに似ていた。



5.29.13

TOM HARRELL – trumpet, WAYNE ESCOFFERY– tenor sax, DANNY GRISSETT – piano/Fender Rhodes, UGONNA OKEGWO – acoustic bass, JOHNATHAN BLAKE – drums

Ronnie Scott's

トム・ハレルの演奏は、ヘレン・メリルによるクリフォード・ブラウンのトリビュート盤でフリューゲルホーンのソロを聴いたのが最初。ピュアで一心不乱なソ ロという印象を受けた。ハレルは若いころから統合失調症(精神分裂症)を患っていることでも有名で、幻覚症状を薬と音楽で抑えている状態らしい。とは言 え、彼のフェイスブックの書き込みは至って正常なので、書かれているほど悪い状態ではないように思う。

ステージに猫背の白髪の老人が下を向いたまま登場。ハレルには青年のイメージがあったのだけど、年齢を調べたらもう67になるのだ。しかも、薬の常用のせ いかどうかわからないが、見た目は80くらいに見える。ハレルの真っ正面1メートルくらいのところに座っていたので、表情がよく見えたが、一言で異常な様 子だった。演奏が進行しているのに、両手をダラリとたらし、呆然とした表情で下を向き、瞳孔が開いた眼は全く焦点があっていない。ギザギザの唇が半開きで 音楽にあわせて何か動いている以外、棒立ちのまま微動だにしない。自分の番になるとノロノロと動き出してトランペットを吹き始める。吹いている時だけは集 中した表情になるが、ソロを取った後は、また猫背で下を向き、ずぶ濡れの浮浪者のようなたたずまいに戻ってしまう。最後にサ イドメンを紹介する時も、眼を閉じたままマイクに文字通りしがみつくようにして、言語不明瞭に声を振り絞っていた。

音楽の方はステージマナーと反対で、生気と輝きに満ちている。チェロのように太く暖かいフリューゲルホーンとトランペットの音色。ハイノートで圧倒するの ではなく、中音域で歌心豊かに演奏する。暖かいトーンや装飾音の使い方はクリフォード・ブラウンと似ていて、そのスタイルにケニー・ホイーラーの清冽な雰 囲気を加えた感じ。ウィントンのように、アドリブが無機的な音の羅列にならない。最初のセットでのベースとのデュオのハレルのソロはとりわけすばらしく、 ブラウンがよみがえったかのような瞬間が幾度もあった。デュオの演奏が終わった途端、ドラムのブレイクとベースのオケグウォが思わず、「イエー、トム!」 と声をかけたほど。

サックスのウェイン・エスコフェリーも強烈な存在感だった。どうしても、この手のサックス奏者は皆コルトレーンとマイケル・ブレッカーに聴こえてしまう し、彼も例外ではないのだけど、パワーと迫力が尋常じゃない。時折アルバート・アイラー顔負けの、甘さのあるトーンのシーツ・オブ・サウンドをまぜつつ、 圧倒的なソロを展開していった。

ドラマのジョナサン・ブレークはポリリズムの中にアフリカやカリビアンの要素を入れた、タイトでよくグルーヴするドラム。とにかく雄弁かつハッピーなドラ ムで、「決め」もうまいし、ソロに歌わせる腕も抜群。特に、トム・ハレルとの呼吸がぴったり合っていた。サイドメンの中では、拍手が一番多かったと思う。

ピアノのダニー・グリセットは、時折モーダルになるところを除けば、50-60年代のバップ系のサイドメンを強く思い起こさせる保守的なピアノを弾く人 で、ダイナミックレンジがあまり大きくない柔らかい音が特徴的。派手ではないし、新規性も感じられなかったけれども、トランペット、サックス、ドラマーが 主役のバンドを影で支える役割はきっちり果たしていた。



5.8. 2013

Debussy three preludes
Chopin Nocturnes
Wagner/Villani Reminiscences of Tristan and Isolde concert Paraphrase
Alkan Barcarolle in G minor
Liszt 2 Petrarch Sonnets 47 123
Liszt Ballade No. 2

St. Johns Smith Square, LONDON

アンジェロ・ヴィラーニの二度目のリサイタル。6日、リサ イタルに先立って、アンジェロ・ヴィラーニを特集したBBCの放送があった。インタビューと共 に、自身の編曲による「トリスタンとイゾルデの愛の死」を演奏した。これが大変な名演で、改めて彼の才能を再確認させられるものだった。
http://jessicamusic.blogspot.co.uk/

8日の会場はビッグ・ベンの南にあるSt. Johns Smith Square。当初はピカデリーにあるSt. James's Churchを予定していたのだが、前回のリサイタルで残響の長すぎる特性が明らかになり、変更した方がいいのではないかと思い、本人にもそう言った。私 以外の何人かからも同じ事を言われたらしく、今回の会場となったようだ。

冒頭のドビュッシーの前奏曲、ショパンのノクターンはいずれも内向的で耽美的な解釈。今回のピアノはスタインウェイだが、ホールの残響が良好なせいか、前 回よりも美しい音色を堪能できた。ただ、時折、なんとなく探るような弾き方になっていて、彼を長年苦しめた右手の調子が良くないのかと不安になる。続く 「愛の死」はBBCの再演。オーケストラとソプラノのオリジナル・フォーマットによるものを含め、この曲の録音を山ほど聴いて来たが、アンジェロの解釈は 中でも最上位に属すると思う。後半はアルカンから始まり、彼が最も得意とするリスト三曲。 やはり、リストは彼のロマンティックな特性に最も合致している。最後のバラード二番ではところどころ力が伝わりきれていない印象を受けたものの、全体とし ては説得力を持つリスト演奏。前回同様ブラボーが出ていた。

終演後、楽屋に挨拶に行くと、開口一番いきなり謝ってきた。最後のバラードが思ったように弾けなかったのだという。会場で使ったスタインウェイのピアノが マシュマロのようで、強音へのレスポンスが悪かったらしい。右手の調子を訊ねると「90%くらい」と言うので、問題は体調ではなくピアノにあったようだ。 「とにかく終わってホっとした」とのこと。婚約者を紹介され、「来週、ワインを飲もう」と誘いがあった。


追記)彼は5.10にSt. James'sで同じプログラムのリサイタルを開いた。ピアノはレスポンスの良いファツイオリで、アンジェロも、よりコミットした白熱の演奏をしていた。




4.8.2013

Valentina Lisitsa (Piano)
Miloš (Classical Guitar)

Fabric, London

yellow loungeというイベントに行ってきた。これはベルリンで始まった新しいフォーマットのクラシック音楽のコンサートで、一流のクラシック音楽のアーティ ストをクラブ・ハウスで演奏させるというもの。ソウル、東京、ロンドンなどで、ユジャ・ワン、サラ・オットー、ミッシャ・マイスキーらのドイツ・グラモ フォンのアーティストが演奏を行ってきた。今回は、ウクライナのピアニスト、ヴァレンティーナ・リシッツアと、ユーゴ出身のギタリストのミロシュ。

リシッツアは「クラブで弾くのは初めて」と興奮の面持ちでMC開始。時折、スマホで観客の写真を撮り、自分のFACEBOOKに送信しつつ。ラフマニノフ の前奏曲3曲と、リストのハンガリアン狂詩曲を一曲弾いた。暖かく、たっぷりした音色の持ち主で、いかにもロシアン・ヴィルトオーゾらしいロマンティック なピアノを弾いた。テクニックもかなりあるけれども、露骨な自己顕示に走って薄っぺらくなるところがない。

DJが入った映像パフォーマンスの後、ミロシュが登場。まず、「クラシック音楽の演奏家は世間では退屈だと思われていて、実際、私たちは退屈な連中だ」と 笑いを誘い、「なるべく退屈にならないようにするよ」と、ブラジルのサンバを弾きだした。ウーン、リズムが前のめりになっていまいちノレない。アサド兄弟 と同じく、クラシックのギタリストはフラメンコのギタリストに比べて、リズムが甘くなるところがある。すこぶる美しい「カルドソのミロンガ」「ベサメ・ ムーチョ」など、ラテン音楽が続き、アコーディオン、弦楽四重奏とベースを加えてアルゼンチン・タンゴ。タンゴはゴージャスで美しい演奏だったけれども、 スパイスの効きは今ひとつ。なんと言うか、弦楽四重奏の連中(ロイヤル アカデミーの学生)が育ちが良すぎて、場末の酒場の雰囲気というか、哀愁というか、小便臭さが足りないように思った。華やかなのは結構なのだけれ ど.........。ただ、クラシックとして通用するピアソラの二曲は良かったと思う。会場も大盛り上がりだった。

ミロシュへの大声援にライバル意識を刺激されたのだろうか。あるいは当初からの予定か、前半担当のリシッツアが突然舞台に戻ってきた。本編で終わったと 思ったらしく、客は半分くらい帰ってしまっていた。「速いのがいい?遅いのがいい?」と残った客に問いかけ、「FAST!」の声に、「FAST or Super-FAST?」とかぶせる。「Super-FAST!」の声に、ピアノに向かってプロコフィエフの戦争ソナタの最終楽章を弾き始めた。これが決 して速くないけれど、安定感と推進力を併せ持った悪くない演奏。弾き終わった彼女はゼイゼイ言いながら、「次はリスト」と、リスト編曲のシューベルトの 「アベ マリア」を弾いた。これはちょっと練習不足だったのか、あるいはプロコフィエフで精力を使い果たしたのか、タッチが怪しくなる瞬間がちらほら。しかし、こ のフォーマットはそういうのが許される気がするし、なにより濃厚なロマンティシズムが細部の粗さを忘れさせる。弾き終わって、「本当なら明日の朝まで皆と 話し込みたいけど、そういうわけにもいかないわ。次の曲で終わり。皆が知っているこの曲がフィナーレにふさわしいと思うの。知っ てたら叫んでもいいわよ」とリストの「ラ・カンパネラ」を弾き始めた。この曲はアンコールでさすがに弾きなれているのか、すばらしく安定したタッチで弾い てのけた。大歓声を背にリシッツアは舞台袖に引き上げた。

面白かったのは、この歓声で今度はミロシュが出てきたことだ。「(ラ・カンパネラみたいな)速いパッセージの曲でこのイベントを終えるより、遅い曲で終え る方がいいと思うんだ」と、リシッツアのもたらした興奮をかき消すかのように、映画「モーターサイクルズ ダイアリー」のテーマ音楽をしっとりと弾いた。 この対決、永遠に続くかと思われたが、さすがにここで打ち止め。

このライヴ・ハウスのフォーマット、とても面白いと思ったし、クラシック音楽の新しい形として定着するだろうと思った。演奏者と聴衆の距離が近く、立ち見 中心で、客はビールやカクテルを片手に写真やビデオを撮りながら聴く。演奏者はMCを挟みつつ、コンサート・ピースをきままに弾いていく。グールドの言う ところの「死んだ」コンサートの対極だと思った。ただ、ベートーヴェンの後期ソナタみたいな大曲はちょっと厳しいだろうし、ベルクやドビュッシーも厳しい かも。しかし、演奏会というものの原点回帰のような気がするし、何より、アーティストたちがこのフォーマットを最高に楽
しんでいる。それが見れるだけでも行く価値は十分あると思った。




10.6.12

Brahms - Ballade Op. 10 No. 1
Brahms - Intermezzo Op. 116 No. 6
Grieg - 5 Lyric Pieces
Brahms - Rhapsody Op. 79 No. 2
Liszt - Petrarch Sonnets 47 and 123
Liszt - Apres une Lecture de Dante: Fantasia quasi Sonata
Pf) Angelo Villani
St. James's Piccadilly

私 がオーストラリア人ピアニストのアンジェロ・ヴィラーニに 会ったのは、3年ほど前の事だ。まず、このサイトにもご協力頂いているアマチュア・ピアニストの 木下氏から、英グラモフォン誌のコンサルタントなどを務めていた批評家・録音コレクターのマイケル・グローヴァーを紹介された。グローヴァーはロンドンの ピアノサークルでは知られた人物で、アルゲリッチ、グロヴナー、ハフなどの著名ピアニスト達とも交友がある。夫婦でハイストリート・ケンジントンのグロー ヴァーの家に招待され、その時に「素晴しいピアニストで紹介したい人物」としてヴィラーニが来ていたのだった。なんでも、ヴィラーニはニレジハージの大 ファンという事で、バザーナの伝記本の裏話でも訊きたかったのだろう。ヴィラーニとは音楽の嗜好が一致していたこともあって話題は尽きず、その後半年ほど たってから、ヴィラーニとグローヴァーを自宅のディナーに招いてさらに話し込んだ。

確か最初の会合の前だと思うが、グローヴァーから、ヴィラーニの不運な音楽キャリアのことを詳しく教えてもらった。ヴィラーニは母国オーストラリアでは神 童として知られ、若干19歳でメルボルン交響楽団と共演するなど、将来を期待されたピアニストだったらしい。1990年のチャイコフスキー国際コンクール にエントリー、本選直前になり、右手にtrapped nerve (神経痛)を発症、そのまま引退してしまう。英国に移住、治療を続けながら、ピカデリーのタワーレコードで働いたり、子供にピアノを教えながら生計をたて ていた。腕の調子の良い時には、ロンドンのピアノ録音愛好家の集まりや、友人の結婚式などで演奏して評判を得ていたものの、15分以上続けて曲を弾く事は 出来なかったという(私の家でもピアノに手を触れなかった)。ただ、とある結婚式で録音されたというヴィラーニのプライベート録音は聴いたことがある。ベ イビーグランドということだったが、その中に含まれていたリスト演奏のいくつかは大変優れたもので、ホロヴィッツやニレジハージを彷彿とさせる耽美的で芳 醇な演奏だった。バザーナにもCDを送ったが、彼も「(スケールの)大きな音を出す」と強い印象を受けたようだ。

昨 年暮れ、グローヴァーから一通のメール。ようやく治療の成果が出たということで、ヴィラーニが22年ぶりのカムバックコンサートをロンドンで行うことを決 めた、とのこと。ヴィラーニ本人からも、夫婦で是非来て欲しい、との連絡を貰った。ガーディアンやBBCなどのメディアが特集を組み、ディミジェンコやグ ロヴナーなども推薦の辞を寄せた。その演奏会が行われたのが昨晩、ピカデリーのSt. James'である。

プログラム前半はブラームスのバラード、グリーグの小品、後半はリストの大曲、ダンテ・ソナタを中心としたプログラム。ヴィラーニのスタイルは、彼が敬愛 するホロヴィッツ、ニレジハージのそれを強く思い起こさせる。構造よりも情念を優先し、歌の拍節感も時に曖昧に、テンポも大きく揺れる19世紀的なアプ ローチだ。当日のピアノはファツイオリで、ヴィラーニはピアノから美しいピアニッシモと、強烈なフォルテッシモを引き出し、耽美的かつダイナミックな演奏 を聴かせた。

ブラームスは非常に個性的で、特にラプソディでは激しく揺れるテンポとダイナミクスを伴いつつ進行した。曲の構築性を情念の発露と耽美性で覆い隠したよう な演奏。恣意的で気侭にもとれる解釈は好き嫌いが別れるだろう。一方、グリーグは詩的で幻想的だった。文句なく素晴しかったのがリストである。多彩なパ レットと、強靭なテクニックを武器に、ドラマティックで独創的な解釈を展開した。特に「ダンテ・ソナタ」は叙事的かつ叙情的で、かつデモーニッシュな迫力 も伴った、大変説得力のある名演だったと思う。ブラボーの歓呼に答えてアンコール三曲。小さい規模ながら、熱い雰囲気のコンサートとなった。

残念だったのが、会場のアコースティックだ。教会と言う事で、残響が長過ぎて、音が拡散してしまっていた。ヴィラーニはただでさえペダルを多用するスタイ ルをとるため、細部が教会の残響にかき消され、音が飽和する瞬間がいくつかあった。ブラームスに若干の違和感を感じたのも、このアコースティックのせいも 多分にあるだろう。休憩時間に会ったグローヴァーに「ここは残響が特殊すぎると思う。アンジェロがこの会場を選んだのか?」と訊ねると、グローヴァーは若 干顔を曇らせつつ、「彼ではなく、彼の支持者が選んだ。ここは音が響き過ぎる。後半のリストがハイライトであることを願う」と言っていた。もしかしたら、 後半のヴィラーニは音響の問題を感じ、あえてペダルを減らしてきたのかもしれない。後半では細部もよく聴こえ、残響の問題もほとんど感じることがなかっ た。

終 演後、ヴィラーニにおめでとうを言いに楽屋へ行った。「ダンテ・ソナタ」の感想を訊ねられたので、「最高」と答えると喜んでいた。ニレジハージの復活劇に なぞらえて、「ここが君のOld First Churchだね」と言うと、顔をほころばせながら「 全くそうだ!」と喜んでいた。もしかしたら、このコンサートが、22年間沈黙していたヴィラーニの輝かしいキャリアの第一歩になるかもしれない。この場に いることが出来て幸運だったと思う。

P.S. その後、近接マイクによる録音を聴いたところ、印象は残響にかき消されてしまった実演よりもはるかに良かった。この教会はピアノ演奏に適さない事で知られ ているらしい。ただ、ヴィラーニの話では、常設のファツイオリ・ピアノは最高に素晴らしく、ピアニストの側からすると弾きやすいホールなのだという。

追記(2014.8.28): 香港出身の若手ピアニスト、シーヤン・ウォンはダニエル・ベン・ピエナールと共にこのコンサートを聴いていた。彼らは前半を私と同じ階下、後半を階上で聴 いた。階下での響きは上記の通りだったが、階上の響きは実に素晴らしかったのだそうだ。シーヤン曰く、ピアノのクオリティも含めると、 St. James's Piccadilly「ロンドンで最良のピアノ会場」とのことだ。ただし、座るなら階上に限る。階下の残響の長い響きは合唱やオーケストラには良いと思う が、ピアノには問題がありすぎる。



5.22.2012

Franz Schubert: Piano Sonata in A minor, D.784
Johannes Brahms: 3 Intermezzi, Op.117
Interval
Franz Liszt: Sonata in B minor

Liszts En reve
Ernesto Lecuona's 'Maleguena
Schubert Minuet D. 600

Arcadi Volodos piano
Royal Festival Hall

超絶技巧で知られるロシア人ピアニスト、アルカーディ・ヴォロドス。「トルコ行進曲」などのすごい編曲で知られていて、巷にはホロヴィッツの再来、などと いう声もある。その実力ははたしてどうなのだろう。

会場に入ると、なぜかスタインウェイの前に学食系の椅子。こういうチープな椅子で弾く人を初めて見た。最初のシューベルトはスタインウェイとは思えない柔 らかい音色で開始。正直、この分裂症気味の曲を自分は理解しているとは言えないのだが、それにしても、ヴォロドスはやや慎重になりすぎている印象を受け た。強固さと強靭さを要求されるパッセージで若干リズムが崩れるため、リヒテルの演奏から明確に感じられるシューベルトの巨大さが出てこない。和音が飛ぶ 箇所で音を置きにいってしまっているため、若干腰砕けの印象を与える。また、ヴォロドスはペダルを深めに踏む傾向があるのだが、それがシューベルトでは明 らかにマイナスに働いており、音の分離の悪さが聴いていてもどかしかった。

一転して、ブラームスの間奏曲集は素晴らしかった。ヴォロドスは多彩な音のパレットを駆使して、曲の浮遊感と重量感を感じさせつつ、優艶かつ流麗に弾い た。ほとんどすべての音が完璧にコントロールされており、ひとつひとつの音が、ペダルやタッチで微妙な色付けがなされ、よく歌っていた。ピアノの音の美し さ、音色の多彩さ、表情の豊かさ、という点では、今まで生で聴いたピアニスト達の中でも、ヴォロドスは頭ひとつ抜きん出ていると思う。ただ、彼の演奏が、 一般のブラームスのイメージとかけ離れていたのも確か。ブラームスというよりはラフマニノフ。かなりロシア的な情緒に流れた演奏ではあった。

プログラム後半はリストのソナタ。長い沈黙の後に音二つ。冒頭の下降音でペダルを深く踏み、GとFの不協和音を強調させ、不安感を引き出す。叙情的なとこ ろでは豊富な音のパレットを駆使して、多彩かつ官能的な響きを創りだす。豪壮な箇所ではペダルを長く踏み込み、ピアノ全体を共鳴させる。個性豊かで、ロシ アン・ヴィルトオーゾらしいスケールの大きな演奏だ。翌日の批評には、「構造が見えない」「焦点が定まっていない」という感想もあったが、そもそも、この 曲に確固とした構造なんぞあるのだろうか。たしかに循環形式のようなところはあるけれども、全体としては取り留めがないバラードのような作品だと思う。そ ういう印象もあって、私はヴォロドスの演奏に何らの問題を感じなかった。

全体としての印象としては、よく言われる超絶技巧よりも抒情表現の方に強く惹かれた。アンコールでは鬼のような技巧のキレをみせたものの、全体的には、ユ ジャ・ワンの方が思い切りの良さを感じる。しかし、彼の創りだすソノリティの美しさは抜群。ほとんど、マジックと言ってもいいかもしれない。

問題があったのはむしろ聴衆の方だった。やかましい咳の音、リストの静かな場所で携帯電話が数コール、ソナタの最後の和音が鳴り止んでヴォロドスがまだピ アノに手を置いているのに「ブラボー」の大声。その後の拍手はロック公演のような熱狂になったので、ピアニストは満足だったとは思うが、昨晩の聴衆は音楽 都市ロンドンとは思えぬ低いレベルだった。


5.1. 2012

Sergey Rachmaninov: Etude-tableau in A minor, Op.39 No.6
Sergey Rachmaninov: Etude-tableau in B minor, Op.39 No.4
Sergey Rachmaninov: El使ie in E flat minor, Op.3 No.1
Sergey Rachmaninov: Etude-tableau in E flat minor, Op.39 No.5
Ludwig Van Beethoven: Piano Sonata in E flat, Op.27 No.1 (Quasi una fantasia)
Alexander Scriabin: Sonata No.5, Op.53
Interval
Sergey Prokofiev: Piano Sonata No.6 in A, Op.82

Yuja Wang, piano

Qween Elizabeth Hallにおいて、ユジャ・ワンのソロ・リサイタル。このコンサートはチケットを2011年初頭の段階で抑えていたこともあり、ちょうど一年前のこの日、 間違えてQueen Elizabeth Hallにまで来てしまった、ということがあった。都合で妻が参加できなかったため、うつ病で休職中の大学の同僚を誘った。彼の母親は60年代にポーラン ド国立オペラのプリマだったそうで、そのこともあってクラシックには造詣が深い。生涯最高のリサイタルはエイヴリー・フィッシャーホールの一列目で聴いた ホロヴィッツだという。

華奢で小さい女性が登場。緊張で硬くなったようなぎこちない笑顔を見せて、頭をピアノすれすれに「ぐあらり」と豪快に振り下ろして挨拶。ちょっと驚いた が、これは彼女のクセらしく、この日はこの機械じかけの人形のようなお辞儀を何度も見ることになった。

前列6席目ということで、舞台姿もはっきり見えた。素朴とも言えるステージマナーのせいか、あるいはその体格のせいか、24歳という年齢よりもさらに幼く 見える。まずはラフマニノフ。鋭いアタッカ、正確なリズム、スケールの大きさを感じさせる表現力。ただ、最初の三曲はとても良かったのだが、最後の Op39.5のエチュードはやや平板で、若干手に余る感じがした。ロシア的な旋律が大きなフレーズとして力強く響いてこず、分厚い和音に埋もれてしまって いた。土臭さという面でも若干不満を感じさせるもので、ここらへんは若さが出てしまったかも しれない。同僚曰く、「ラフマニノフが執着していた「鐘の音」が聞こえなかった」。

ベートーヴェンは軽量級の演奏。リズム感は素晴らしく、冒頭から途切れぬパルスの存在を感じさせた。爽快な演奏ではあったが、時折、内声部の旋律が途切れ たような、あってしかるべき音が聞こえなくなったような瞬間が何度かあったのはどういうわけだろう。単に音が抜けたとか、ミスタッチとか、そういう問題で はなかった。若干、和音のバランスやペダリングに配慮が欠けていたのではないだろうか。

ワンが本領を発揮したのは、スクリャービンとプロコフィエフで、圧倒的なテクニックを土台に、ピアノに思いを叩き付けるかのように激しく、時に情熱的に難 曲を弾ききった。アンコールはホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲。評判通り、アクロバティックな能力の高さは比類がない。

彼女の演奏には、アンスネスのリサイタル時に感じた、円満さ、日常性、とは対極のものをがあった。一言で言うと、鋭い抜き身のような迫力。超絶技巧を武器 に音楽を極限まで追い込んで行くようなところは彼女の大きな魅力だと思う。ルーティーンに陥ることなく、一心不乱に演奏に没頭し、自らの内面を開陳する。 どんなに難しいパッセージでも音を置きに行かず、一瞬の迷いもなく手を叩きつける。

こういう本能的なスタイルは素晴らしいと思うけれど、この手のピアニストは、プレッシャーのあまり、どこかでキャリアを停滞させたり、隠遁したり、精神病 院に入院したりするものだ。ホロヴィッツ、ニレジハージ、リヒテル、アルゲリッチ、オグドン、ポゴレリッチなどなど。ピアノを離れた時の彼女の脆弱な佇ま いもあって、この先大丈夫だろうかと、ちょっと心配になった。

追記)先程、彼女のツイッターを覗いたところ、3時間前の書き込みで、「私は極端なもの(Extreme)が好きだ。なぜなら、それがもっとも生き生きし ているからーーー黒澤明」とあった。なるほど。



3.29.2012

Joseph Haydn: Piano Sonata in C minor, Hob.XVI/20
Bella Bartok: Suite for piano, Op.14
Claude Debussy: Images, Set 1
Interval
Fryderyk Chopin: Waltz in F minor, Op.70 No.2
Fryderyk Chopin: Waltz in G flat, Op.70 No.1
Fryderyk Chopin: Waltz in D flat, Op.70 No.3
Fryderyk Chopin: Waltz in A flat, Op.42
Fryderyk Chopin: Ballade No.3 in A flat, Op.47
Fryderyk Chopin: Nocturne in B, Op.62 No.1
Fryderyk Chopin: Ballade No.1 in G minor, Op.23

29日はロイヤル・フェスティヴァル・ホールで、ノルウェー出身の人気ピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスのリサイタル。昨年帰国した際にブロムシュ テット・N響と共演したラフマニノフのピアノ協奏曲第三番のビデオを観たが、その時はあまりピンと来ず、物事を極限まで追い込まない、日常的で、あまり面 白くない演奏をする人だと思った。

実際に生で聴いてみると、「物事を極限まで追い込まない」という印象はあまり変わらなかったものの、とても素晴らしいピアニストだと感じた。どちらかとい うと、大きな流れの中で音楽を作っていくタイプの人で、音楽がコセコセとせわしなくなることがない。むしろ、すべてのフレーズとフレーズの連関が自然、か つダイナミックに行われているため、全体としてスケールの大きな音楽になっている、と言った方がいいのかもしれない。それが顕著に出ていたのが冒頭のハイ ドンで、特に第二楽章の歌におけるフレーズの移行の見事さ、呼吸の大きさ、深さはフルトヴェングラーのそれを感じさせるものだった。

鋭いアタッカを必要とするバルトークは、完璧な技術で安全運転をしました、という印象。テレビで見たラフマニノフの演奏を思い出した。一転して、ドビュッ シーは美しいの一言。さらに素晴らしかったのが後半のショパンで、特にワルツには陶然とさせられた。華やかなヨーロッパの舞踏会の光景と、憂愁と孤絶の 影。テンポは速めで、表情はむしろあっさりしているし、奇をてらうようなことは一つもやっていない。それにもかかわらず、第一次世界大戦前後の頃の音楽の ような、ノスタルジックでメランコリックな雰囲気がそこはかとなくあるのである。決して意図して出来るような事ではないと思う。彼の中にそういう要素が多 分にあって、それが自然ににじみ出ているのだろう。この日、バラードなども弾いていて、そういった大曲もそれなりに良かったものの、強烈な印象を受けたの はワルツやノクターンといった小品だった。アンコールはショパンのワルツをもう一曲、ラフマニノフの前奏曲、グラナドゥス。淡白な聴衆の多いロンドンでア ンコール三曲というのは多い。だが、欲を言えばショパンをもっと聴かせて欲しかった。

技術的には非常に高いものを持っている一方で、メカニックなものは一切感じさせない。音楽はつねに有機的なつながり、パルスを持って進行する。特徴的だっ たのが奏法で、全体的にレガート志向が高く、アレグロだろうがアンダンテだろうが、常にフレーズとフレーズが繋がっているようなところがあった。当然、ダ ンパーペダルを頻繁に使うことになるのだが、繊細かつ細心の注意を持ってペダル使用がなされていたため、豊かな共鳴音の中でも一つ一つの音が全く濁ること なく聴こえてきた。古典派のハイドンでもレガートのためにペダルが全編を通じて使われていたが、放埒であることは一瞬足りともなかった。音色はスタイン ウェイでありながら細くて金属的な響きがせず、どちらかという目の詰まったような暖かい響き。細かいパッセージの機動性、滑らかさは抜群だった。こういう 音を出す人は、ヨーゼフ・ホフマンを代表に手があまり大きくない傾向があるのだが、もしかしたらアンスネスもそうなのかもしれない。



2.7.2012

Sadler's Wells 劇場で進行中のロンドン・フラメンコ・フェスティヴァルに、ポスト・パコ・デ・ルシアと言われて久しいフラメンコ・ギタリスト、ヴィセンテ・アミーゴが登 場。まずは伝統的なスタイルでのソロ(ソレア)から始まる。鋭いカッティングにラスゲアード、強靭なタッチ。うーん、いい感じ。客席にまでビンビン音が響 いてくる。フラメンコギターの技術の一つに、右手の親指を撥のように高速で上下させて、低音弦を中心に複数の弦を弾く手法があるのだが、ヴィセンテはこれ がベラ棒に巧い。ギターの鳴りが他と違う。また、薬指と小指が異常に長いため、常人には不可能なコードを抑えてもベース音が途切れない。昨年聴いたパコが 精彩を欠いていたこともあって、昨晩のギターの音の凄さは鮮烈だった。

途中から、リズムセクションやダンサーが加わり、華麗にステージが進行した。パコは今のヴィセンテの年齢の当たりから、内向的で厳しい音楽を指向するよう になっていて、外面の華やかさとは裏腹に、音楽にもステージにも求道者のようなやや陰鬱な雰囲気が漂っていた。それに比べると、ヴィセンテのスタイルはフ ラメンコの語法を使いながらも、コードやリズムにはラテンポップやムード音楽の要素も入り、時にはReturn to foreverのようにキャッチーなフレーズも飛び出す。俗的なものに背を向けるパコと、一線を躊躇なく踏み越えるヴィセンテ。パコの音楽は厳しすぎて映 画には使えないけど、ヴィセンテの音楽なら画面をスタイリッシュに彩ってくれるだろう。

ただ、フラメンコでのファルセータは文句なく凄いのだけど、フュージョンのソロでインプロヴィゼーションをやる箇所になると、「ギター・トリオ」で切磋琢 磨したパコほどの想像力の飛翔、跳躍は見られず、若干輝きが失せるところがあった。ここらへん、フラメンコの枠を越えた活動をあまりしてこなかったヴィセ ンテの限界なのかもしれない。

演奏中、真後ろに座っていた年配のイギリス人女性が、「もっと大きく手拍子をしたらどうなの?」「こんなのはフラメンコじゃない」「私はフラメンコはよく 知っている」などと、周囲に大声で文句を言っていてうるさかった。彼女は3曲目が終わったあたりで「もう我慢できない!家に帰る!」と言い捨てて出て行っ てしまった。どうも、フラメンコ酒場でやるような扇子やカスタネットをつかった伝統的なものを期待して、アテが外れたらしい。お客だから文句を言う権利は あるものの、パコ引退後の第一人者のスタイルも知らずにノコノコやってきて、「私はフラメンコを知っている」も何もないだろう。うるさいスノッブがさっさ と消えてくれてありがたかった。



1.31.2012
モーツアルト:ドン・ジョヴァンニ
Conductor
Constantinos Carydis

Don Giovanni
Gerald Finley

Leporello
Lorenzo Regazzo

Donna Anna
Hibla Gerzmava

Donna Elvira
Katarina Karneus

Don Ottavio
Matthew Polenzani

Zerlina
Irini Kyriakidou

Masetto
Adam Plachetka

Commendatore
Marco Spotti

Chorus
Royal Opera Chorus

Orchestra
Orchestra of the Royal Opera House

新年ロイヤル・オペラ一作目は、モーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」。2008年のプロダクションの再演。指揮者のコンスタンティノス・カリーディス (Constantinos Carydis)には興味がある。彼は、カルロス・クライバーの牙城だったバイエルン国立歌劇場が制定したクライバー賞の第一回受賞者。そんなことを聞い たら、ちょっと期待してしまうではないか。

序曲はノン・ビブラート奏法、キビキビとしたテンポ、鋭いアタッカで開始。速いパッセージの彫琢が十分ではないものの、流れるようなフレーズとリズムの良 さが印象的。本編に入ると、大胆なテンポ変化をおりまぜながら、緻密に、かつダイナミックに音楽が進行。ユニークだったのが、明らかに登場人物の心理によ りそって設定されたテンポとフレージング。例えば、ツエルリーナがドン・ジョヴァンニに口説かれるシーンでは、ツエルリーナの心理を表すかのようにリズム がためらいがちに引きずられるし、「地獄堕ち」ではドン・ジョヴァンニの動悸の速さを示すかのように、急速のテンポになる。音と心理状態の関係性がきちん とデザインされているので、恣意的な感じがしない。各セクションの透明感も抜群。これだけで判断するのは早いかもしれないが、オペラに関しては、クライ バーの後継者になれる人材が出てきたと言っていいかもしれない。

歌手で印象的だったのが、ドンナ・アンナを歌ったHibla Gerzmava。高域のピッチが上ずるところがあったものの、上から下まで良く伸びる潤いのある声に加え、柔軟で大きなフレージングが素晴らしかった。 ドラマティックで色彩感のある声に加え、コロラトゥーラの技術も申し分ない。いままで聴いた中でも最高のドンナ・アンナだった。

Gerald Finleyのドン・ジョヴァンニも良かった。エッジのきいた美声が素晴らしく、安心して聴いていられた。背がそれほど大きくないせいもあって、ステージ 上でのカリスマ性は今ひとつだったものの、声楽面では十分満足。騎士長のMarco Spottiもイタリア系のバスらしい鋭く重い声で存在感を見せつけた。

残りの歌手は少なからず問題あり。オッターヴィオのPolenzaniは高貴で凛々しい美声ではあったが、どちらかというとモーツアルトよりもヴェルディ やドニゼッティに合いそうな声だ。ソット・ヴォーチェは見事だったものの、細かいパッセージがきちんと歌えていなかったり、若干声の荒れがあったのが気に なった。レポレロのLorenzo Regazzoも歌のキレが今ひとつ。カリーディスの指揮に遅れるシーンが多々あった。Kermeusのエルヴィーラは可もなく不可もなし。歌いぶりが若 干ドラマティックにすぎるように思った。ツエルリーナのKyriakidouも然り。この役には歌が重すぎる。

印象に残ったのが、全編を通じて、観客の笑い声や驚きの声が絶えなかったこと。このオペラの台本は「フィガロ」ほど出来が良いとは思えないし、どれもこれ も共感を呼ばない登場人物ばかりだと思うのだけど、それでもこれだけ現代人を楽しませるとは、さすがモーツアルト。




9.24.2011

グノー:ファウスト
Original Director
David McVicar

Conductor
Evelino Pido

Faust
Vittorio Grigolo

Mehistopheres
Rene Pape

Marguerite
Angela Gheorghiu

Valentin
Dmitri Hvorostovsky

Siebel
Michele Losier

Wagner
Daniel Grice�、

Marthe Schwertlein
Carole Wilson


昨晩24日はロイヤルオペラでグノーの「ファウスト」。グリゴーロ、ゲオルギュー、パーペ、ホロストフスキーという当代きって のスター4人をずらりと揃えた公演。このうち1人でも客が呼べるというのに、4人もそろえてくるとは不景気にえらく奮発したものだ。

役者が揃うと、オペラの出来に関わらず、公演の密度もぐっと濃くなる。例えばファウストを歌ったグリゴーロ。パヴァロッティの声をハンサムにし、スピント をよりきかせた美声で、声量も素晴しい。ハイCも綺麗に出せるだけでなく、歌自体も大変しっかりしている。表現の幅が広い一方で、自己満足に陥るところが ないバランス感覚。声、カリスマ、歌、知性が揃っているという点では、ここ20年の最大の才能と言ってもいいかもしれない。

メフィストーフェレを歌ったパーペだが、聴く前はショルティの魔笛でのザラストロなどの歌いぶりで知っていた、軽くて柔らかい声質に危惧を抱いていた。と ころが、舞台での彼は物凄い声量と存在感で聴衆を圧倒した。声は円柱のように上から下まで豊麗に響き、声量の凄まじさたるや天井桟敷においても風圧のよう なものを感じさせるほど。その一方で、メフィストーフェレに必要な機動性にも欠けていない。威風堂々とした舞台姿と合わせて、メフィーストフェレの一つの 理想型を具現していたと思う。

ヴァレンティンを歌ったホロストフスキー。今回のお目当ての歌手だったが、期待を裏切らず、底光りのするような美声を聴かせた。レガートが美しいスタイ リッシュでノーブルな歌い回しと豊かな低声部は、あのエットーレ・バスティアニーニを彷彿とさせる。実際、バスティアニーニ以降では最高のバリトンだろ う。

ゲ オルギューはロイヤル・オペラで行われたショルティ指揮の「椿姫」で伝説的な成功をおさめ、大スターの階段を駆け上がった。昨晩もゲオルギュー目当ての客 が多かったらしく、「宝石の歌」の後では凄まじいブラボーが出ていた。だが、実際の歌唱ではいくつかの問題を感じさせた。絶対的な声量に欠ける上、ドラマ ティックな表現のパレットを豊富に持っていないのである。得意のクリーミーな弱音をさかんに多用していたのだが、ピッチが若干不安定だったせいもあって表 現の力強さとして聴こえてこなかった。彼女はカラスとよく比較されるが、その実は似て非なるものだ。厚化粧気味の歌唱の違和感は前半で顕著で、「宝石の 歌」では、年増のハリウッ ドスターが乙女を演じているかのような奇妙な印象ばかりが残った。ただ、マルグリートが狂気に陥ってからは、その違和感が逆に功を奏したのか、歌に説得力 が出てきて良かった。それにしても、大スターのゲオルギューがすっかり霞んでしまった、というのが昨晩の歌手陣のレベルの高さを象徴している。

指揮者のEvelino Pid?�ニいう人は知らなかったが、プロフィールをみると、ウィーン、パリ、メトロポリタンなどでイタリアものを多く上演しているらしい。演奏を聴く限 り、大変な力の持ち主のようだ。演奏は細部にまで厳しい目が行き届いており、オーケストラのサウンドは常に艶やかで豊麗、一度たりとも放埒になることがな かった。オーケストラを纏める実力は監督のパッパーノよりも上だ。

David McVicarによる演出も大変意欲的なもので、戦前のドイツのキャバレーのコスチューム、ミュージカル風の振り付けとネオン、自転車などといった小道具 を使いながら、伝統とモダンを折衷させた面白いものだった。特に衝撃的だったのが、第五幕のワルプルギスの夜の場面。ここではなぜかメフィストーフェレが 女装して登場、ファウストとともに踊り子のダンスを眺める。最初は伝統的な振り付けで優雅に踊っていたバレリーナ達が次第に奇声をあげ、酒場のストリッ パーのような動きを始める。そしてあるものは四つん這いになり、そしてあるものは股を大きく広げてに横たわり、その上に男性がのしかかって激しく腰を動か す。この上なくアンダーグランド的でシュールなシーンだったが、プロット上、ここまでやって悪いことは一つもない。それどころか、このシーンがインモラル であればあるほど、「落ちた」ファウストの位置と、魂を売ったことの罪の重みが伝わってくるのである。その点で、作品の精神をよくついた演出だったと思 う。

とにかく、歌唱、指揮、演出と三拍子そろった稀有の舞台であった。ロイヤルオペラは侮れない。



6.14.11

Puccini Tosca
Conductor: Antonio Pappano
Tosca: Martina Serafin
Cavaradossi: Marcello Giordani
Baron Scarpia: Juha Uusitalo
Spoletta: Hubert Francis
Angelotti: Lukas Jakobski
Sacristan: Jeremy White
Sciarrone: ZhengZhong Zhou

普 通、オペラ公演はプレミエ(初日)のキャストが一番いいものなのだが、今回の「トスカ」は趣きが違った。6公演で、一番いいキャストは最終公演のみ(アン ジェラ・ゲオルギュー、 ジョナス・カウフマン、ブリン・ターフェル)。それ以前の公演は、マルティナ・セラフィン、マルチェッロ・ジョルダーニ、ユハ・ ウーシタロ、という中堅実力派の歌手を揃えていた。変則的キャスティングの理由は、最終公演がビデオ撮りされるため。最初の5公演は録画のための一種の公 開リハーサルみたいなものなのだろう。

いずれにせよ、「トスカ」では、主要3キャストすべてが完全でないと不満足な結果におわる。なにしろ、この作品にはEMIのデ・サバータ盤、という60年 間君臨したバイブルがあって、特に、主役のトスカとスカルピアを歌う歌手達は、観客の頭の中にあるマリア・カラスとティト・ゴッビの歌声と常に比較される 運命にある。しかもここはロイヤル・オペラ・コヴェントガーデンだ。カラスとゴッビ、ゼッフィレッリ演出による伝説的な公演が行われた場所だ。ただでさえ 期待値は高い。http://www.youtube.com/watch?v=IeRNp_yTr34

私が聴いたのは二日目の公演で、残念ながら歌手の出来に不満が残るものだった。最大の問題はスカルピアを歌ったウーシタロだった。ワーグナーでは実績を出 している人だが、スカルピアにしては声質が軽すぎ、やわらかすぎた。なによりも、スカルピアに必要なカリスマ、キャラクター、声量に決定的に欠けていた。 尻上がりによくなったものの、見せどころであるべき第一幕幕切れの「テ・デウム」でも非力さが浮き彫りになってしまっていた。もしこれがターフェルだった ら、と何度思ったことか。

カ ヴァラドッシを歌ったジョルダーニは、昔からいる典型的イタリアン・テナーのタイプ。不調だったのか、声が若干不安定になるところが気になったものの、ス ピントのきいた力強い高音は見事だった。ただ、歴史に名を残すテナー達に比べると、表現の面で今一つ足らない。なんというか、歌がメロドラマ調で、一本調 子なのである。とは言え、一定の水準はクリアしていたと思う。少なくとも、ホセ・クーラなどよりはずっと好感のもてる歌いぶりだった。

素晴らしかったのがマルティナ・セラフィンのトスカ。若干太めのスタイルではあるものの、名取裕子みたいな舞台姿は悪くない。ミレッラ・フレーニを思わせ る潤いのある中低域をうまく使い、美しい歌を聴かせていた。声域が低めなのか、「歌に生き恋に生き」の高音が若干硬くなる瞬間はあったものの、全体として はとても満足の行くものだった。この出来なら、最終日に登場するアンジェラ・ゲオルギューにもプレッシャーがかかってくるだろう。

パッパーノ指揮のコヴェントガーデンオーケストラは、昨日はちょっとざらついた音を出していた。もともとコヴェントガーデンのオペラハウスの響きはおそろ しくデッドで、楽器の音が残響を伴わないまま生で耳に飛び込む傾向があるのだが、それにしても、先年聴いたビシュコフはもっと潤いのある繊細な音をオーケ ストラから引き出していたと思う。若干大雑把なところはあったものの、この人らしい伸縮自在のテンポ、柔軟な歌いまわしは堂に入っていて、いつもどおり安 心して聴いていられた。


6.7.2011
Nikolai Lugansky
Charles Dutoit & Royal Philharmonic Orchestra
Royal Festival Hall

昨 晩は一年前からブッキングしていたロイヤルフィルのコンサート。アルゲリッチ、デュトワ指揮のシューマンの協奏曲が聴ける筈だったのだが、残念なことにコ ンサートの一週間前にアルゲリッチがキャンセルしてしまった。代役はニコライ・ルガンスキーで、シューマンの代わりにベートーヴェンの第四協奏曲。シュー マンの協奏曲はルガンスキーのレパートリーの筈だが、さすがにアルゲリッチを聴きにきた観客の前で同じ曲は弾きたくないか。

実に洒落た味わいの「舞踏への勧誘」のオーケストラの演奏が終わり、代役のルガンスキーが登場。端的に言って、貴族的、かつ理知的なベートーヴェンだっ た。素晴しく安定したリズム、バランスよく鳴り響く和音、滑らかなフレージング、完璧にコントロールされたピアニッシモの美しさ、どれも印象に残るもの だった。ミスタッチはごくたまにあったものの、彼は一音たりとも粗末にすることなく、ポリーニのようにダンパーペダルを濫用することなく、細部まできっち りと明快に弾いていった。その音楽的姿勢からは生真面目で几帳面な性格が見える。

私はルガンスキーにはラフマニノフ弾き、というヴィルトオーゾ的なイメージをもっていたのだが、昨晩は線の細ささえ感じさせる繊細さの方が印象に残った。 ただし、とても感心はしたのだけれど、感動で心が震える、ということは無かった。安定感、表現の美しさ、瑞々しさはどれも印象的ではあったが、全体的に醒 めすぎているというか、生々しい人間味に欠けているような所を感じた。その場で音楽を生成させるのではなく、あらかじめデザインした音を綿密に並べていく ような印象を与える点で、この人はよく言われるロシアン・スクールよりもミケランジェリの系列に近いピアニストであるような気がする。

プログラムの後半はオーケストラ演奏で「春の祭典」。ベートーヴェンでは若干重苦しい所があったデュトワの指揮も、こういう曲では圧倒的な印象を与える。 どの曲でもそうなのだけど、彼が振ると各セクションからいろいろな音が聴こえてくるし、それでいて全体の有機性も保たれていて本当に感心する。イン・テン ポで、これみよがしなデフォルメも一切やらないのに、ルーティンなものに陥る瞬間が無い。オーケストラもデュトワの指揮に渾身の力で応え、精密でありなが ら熱さも失わない名演となった。指揮者は終演後は何度もステージに呼び戻され、最後は小さく「バイバイ」の合図をして袖に引っ込んで行った。団員の満足げ な顔も印象的だった。

一つだけ、気になったシーンがあった。曲の最後、打楽器が乱れ打ちになり、ブラスが咆哮する箇所で、右側ブラスセクション全体のリズムだけが、本来のリズ ムから離脱したように聴こえた。2-3秒で元に戻り、フィナーレを迎えたが、あれはなんだったのだろう。この瞬間、「春の祭典」を演奏する側の恐怖を実体 験させられたような気になった。

「春の祭典」が終わってホールを出る時、妻が前を歩いていた男性の踵を踏んづけた。ライト・グレーの上下を着ていたその男性は楽屋口の扉を開け、中に入っ ていった。その顔をちらりと見たらルガンスキーだった。


1/28/2011 Royal Festival Hall

Maurizio Pollini

今年前半だけで5度のコンサートが行われる「ポリーニ・プロジェクト」の第一弾がRFHで今日から始まる。バッハの「平均律ク ラヴィーア」第一巻だけのプログラムを聴いた。

実は今まで、彼のリサイタルをことごとく避けてきた。聴いていて居心地が悪くなるのがわかっていたからである。もともと、私は彼のピアノは大好きで、70 年代までの彼の録音には、もう子供の頃から大変魅了されていた。しかし、79年録音の「皇帝」や、81年の「交響的練習曲」あたりから、何か、内面の規律 のようなものが徐々に失われていったように感じた。ペダルやルバート、テンポ変化が顕著になった上、そういったものが表現主義的なものから来るのではな く、ただ単にメカニックの都合から来ているように思えてならなかった。90年代に発売されたベートーヴェンの中期ソナタの録音も、エアチェックで耳にした モーツアルトのニ短調協奏曲のライヴも、その悪印象を強めるだけの出来だった。ポリーニの「復調」を耳にしてはいたものの、今回、バッハでなければ足を運 ぶ気にならなかっただろう。

この日のピアノはファブリーニ調律のスタインウェイ。よく伸びる音ではあるものの、掠れたような要素が若干混じる、個人的にはちょっと耳に障る響き。中低 域は剛そのもの音がする。色彩感もあるし、レスポンスも良さそう。だが、バッハとの相性はどうだろうか。

ポリーニのバッハへのアプローチは気負いの無い素直なもの。ダンパーペダルを多用しすぎているせいか、はつらつとした印象は薄い。どちらかというと、平板 なのっぺりとした空気が漂う。それでも全般的に前奏曲は悪くないのだが、フーガにはっきり不満が残る。各声部は一応聴こえるのだが、それらに一貫してある べきパルスが感じられないのである。その結果、曲の展開に力強さと安定感が欠けてしまっている。

例えば第七番のフーガ形式の前奏曲。バッハという偉大な山にもう少しで登れそうで登れていないもどかしさが漂う。二十番のイ短調のフーガでも、フレーズに パルスが無い。しかも、ペダルの使い過ぎで声部が分離できず、響きが汚くなっている。技術的な衰えもあって、まるで指揮者不在のオーケストラのように不安 定な演奏だ。二十一番の変ロ長調のフーガ。キツツキが戸を叩くようなパッセージがはっきり聴こえない。この曲に関わらず、多声の旋律がきちんと処理できて いなかったり、テンポが一定に保てずにせわしなくなったり、もたれたりす る箇所が沢山あった。

二十四番は荘重な前奏曲と、十二音音楽を先取りしたようなテーマのフーガを持つ偉大な作品。しかし、ポリーニはこの前奏曲をひどく素っ気なく弾いた。好み とは違うが、こういう枯れた味わいは決して悪くない。ただ、フーガはまたしてもフレーズ処理が甘く、もたついた、重苦しい印象を残した。、

終わってみれば、事前の不安が的中した演奏だったわけだが、中には良かったものも4-5曲あった。例えば八番。モーツアルトのピアノ協奏曲の緩徐楽章に出 てきそうな前奏曲で、こういう曲だと、かつてのポリーニのピアノにあったリリシズムが前面に出てくる。続くフーガも破綻のないもので、満足できるものだっ た。




11.18.2010, Royal Festival Hall

Paco De Lucia
Antonio Sanchez (chitarra), Antonio Serrano (tastiere, harmonium), Alain Perez (basso), Piranha (percussioni), Duquende (voce), David de Jacoba (voce), Farruco (ballerino)

London Jazz Festivalの一環として、パコ・デ・ルシアのセクステットのコンサートが行われた。報道によれば、これは引退前の彼の最後のツアーになるという。ス ペイン国内ではまだ演奏するだろうが、国外でパコを見ることが出来るのはこれが最後になる。50年に渡って音楽的革命を続けた偉大なキャリアも、ついにエ ピローグを迎えようとしている。

聴衆がどこまでその事を知っていたのか定かではないが、パコの登場時の熱狂は凄かった。「マエストロ!」の声に微笑むパコ。いつも通り、緩やかにコンサー トをスタート。全盛時に比べれば技巧に若干の翳りはあるものの、やはりパコにしか作れない濃密な世界だ。曲がすすむとともに熱気は高まり、プログラム最後 の「シルヤブ」では恒例のギターバトルで盛り上がる。聴衆は総立ちで手拍子を始め、「オーレ、オーレ」のかけ声も出た。5分ほどたってパコが再登場。最後 は若き日のパコをブレークさせた「Entre dos Aguas」でコンサートを終えた。

サイドメンで強く印象に残ったのが、ハーモニカのAntonio Sorrano。3年前のトロントでも素晴らしい演奏を聴かせてくれていたが、今回はフレーズが自由自在に飛翔し、イマジネーション溢れる美しいソロを何 度も聴かせていた。天才。

カマロンを彷彿とさせるハスキーボイスのDuquende、力強く長大なフレーズを繰り出すde Jacobaの歌も素晴らしく、特に後者が歌う時、会場は超絶的な空気を醸し出していた。

ベースのAlain Perezはフュージョン畑の人らしい。優れた技巧で会場は湧いていたが、スタイルに関しては若干違和感を感じさせた。どちらかと言うと霊感に欠けるフ レーズをちりばめつつ少しずつ盛り上げていき、速弾きで最後の方にクライマックスを持って行く感じのソロ。常に「この瞬間」に霊感を吹き込むパコや Sorranoのスタイルとは合っていない。

ダンス(バイレ)のFarruco。偉大なダンサー、エル・ファルーコの孫で、スペイン若手舞踏家の筆頭。彼か彼の兄が少年時代にカルロス・サウラの映画 「フラメンコ」にも出ていた筈だ。大変な技量の持ち主で、華麗なステップを駆使した踊りは、客席からは大きな喝采を受けていた。しかし、相当なナルシスト なのか、はたまた若気の至りか、自己顕示に過ぎる余計な動きばかりが目に余った。彼女でも会場にいたのだろうか。あるいは相当な勘違い人間なのか。個人的 な意見だが、彼のスタイルはあの場に相応しいとは思えなかった。

6 月に、カリフォルニアでパコのギターを作っているレスター・デヴォーに会った。その時に彼から直接聞いたところでは、パコは新しいアルバムの完成段階に 入っているとのこと。しかし、この日は3年前のトロントと同じようなプログラム構成で、新曲は一つも入っていなかった。キャリアの最後は今までの曲で、と いう趣向なのかもしれない。

ともあれ、96年の東京での「ギター・トリオ」から始まったパコ巡礼もこれで一区切り。まだウィントン・マルサリスの新作でのコラボと、パコ本人の新作ア ルバムを聴く事が残っているものの、近作の穏和ぶりから想像するに、過去の「アルモライマ」や「シロッコ」のような衝撃を与えてくれることはないだろう。 その一方で、宮崎駿やピカソがみせたような、老年の「狂気と暴走」への期待もある。ともかく、一つの偉大な時代の終わりを飾るであろう新作。どんなものが 出てくるか楽しみだ。



6.27.10

Hard Rock Calling
Hyde Park

MORE THAN ME13:45-14:05
JOSHUA RADIN14:20 - 14:50
ELVIS COSTELLO15:10 - 16:00
CROWDED HOUSE16:25 - 17:25
CROSBY, STILLS AND NASH17:50 - 18:50
PAUL MCCARTNEY19:30 - 22:15

こんなに楽しかったのは久しぶり。ポール・マッカートニーは稀代のエンターテイナーだと思う。スピルバーグやキャメロンと同じ ように、大衆の目線、というものをしっかり意識し、そこで力を存分に発揮することに最大限の喜びを見いだす。

普通、ロックンローラーは昔の曲はやりたがらないもの。しかし、ポールは聴衆の好みの方を優先する。昨夜のプログラムではビートルズ後の楽曲は3割ほど。 85年以降の曲は2曲しかやらなかった。

その一方で、三時間にも及んだショーの間、彼はビートルズ時代の自作の傑作の多くを歌った。その構成も凝っていて、「イエスタデイ」のすぐ後に「ヘル ター・スケルター」で度肝を抜いたり、「サージェント・ペッパー」のリプライズで終わらせると思わせておいて、間髪入れずに「ジ・エンド」になだれ込んだ り。ポールも昔の曲のパワーは意識していて、Get Backの前奏で聴衆が大歓声を挙げた瞬間、してやったりの表情がスクリーンに大写しになっていた。

ステージマナーからも、サービス精神が旺盛なのが伝わってくる。「君らが知っているように、ジョージ・ハリソンはウクレレの名手だった」と、ジョージの写 真をバックに、ウクレレで「サムシング」を歌い、ビートルズ・ファンを泣かせる。ジョンに捧げた「ヒア・トゥデイ」だけでなく、ジョン中心に作られた 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「デイ・トリッパー」「平和を我等に」なども披露。二人が生きていた頃にはありえなかった事だ。
http://www.beehivecity.com/music/video-paul-mccartney-plays-george-harrison-something-on-ukulele-1000203/

機智にとんだMCぶりもこの人らしい。「私のお尻にサインして」のボードに、「ご免だよ」と答えて笑わせたり、「ヘイ・ジュード」のリフレインの大合唱で 「女性だけ!」と叫んで指揮を始めたり、と、五万人の聴衆をからかい、おどけ、まるで撫で転ばすかのように手なずけてしまう。今、自分だけがポールと対話 している、と聴衆の一人一人に思わせてしまう能力と魅力が凄い。

彼も今年で68歳である。それなのに、何人ものティーンエイジャーの女性が「I love you, Paul」と叫んでいた。妻もポールが顔を向けるたびに飛び上がって手をふり、ステージ後には「ポールと何度も目が合った!」と言い張る。終演後、泣きな がら歩いている女性達を何人も見かけた。往年のビートル・パワーはいまだに健在だった。

アンコールに入る前、大きなユニオン・ジャックを抱えてポールが出てきて、旗を振りながらステージをしばらく走り回った。イングランドの旗ではなかった が、なんとなく、「ドイツに負けてもくよくよするなよ」というポールのメッセージだったように思えてならなかった。



5.27.10

Maurice Ravel: Valses nobles et sentimentales
Cesar Franck: Sonata in A
Ernest Chausson: Concert in D for violin, piano & string quartet, Op.21

Louis Lortie piano
Augustin Dumay violin
Quatuor Ebene

Queen Elizabeth Hall

昨年の11月23日、Queen Elizabeth Hallにてショパンのエチュード全曲コンサートを行ったルイ・ロルティ。この夜は、同ホールでラヴェルの「高雅で感傷的な...」、フランクのソナタ、 ショーソンのコンセールというプログラム。
オーギュスタン・デュメイのヴァイオリン、エベネ・カルテットとのジョイントである。フランク楽派の音楽を心底愛する自分にとっては、絶対に外せない夜。

ただ、ロルティというピアニストは本当に素晴らしいピアノを弾くのだけど、若干、パワーに欠けるところがある。ショーソンはともかく、フランクは彼の手に 余るのではないか、という危惧を抱きつつ、前から三列目に。

冒頭のラヴェルは肩の力が適度に抜けた美しい演奏。こういうフランスものでは、ロルティはオーケストラのような多彩な音色をピアノから引き出してきて、本 当にうまい。Fazioli特有のひんやりした質感の音がラヴェルとよくあっていた。

二曲目はフランクのヴァイオリン・ソナタ。感動、というものを忘れて鈍感になってしまった私でも、この曲と「魔笛」だけは別だ。リヒテルとオイストラフの 名演は子供の頃から聴いていて刷り込まれているし、曲への思いがつのって指の腱を痛めながら必死で練習したこともあるくらい。なにしろ完璧な作品なので、 きちんと弾かれた演奏なら、聴いているだけで感動でふぬけのようになる。それでもロルティの非力さは気になった。大切なところで和音から力がぬけてしまう ため、リヒテルに比べて今ひとつキマるべきところがキマらない。クライマックスのスピード感は十分あったものの、壮大さ、劇性、という点では若干物足りな いものが残った。

反対に感心したのがデュメイのヴァイオリンだった。10代の頃、デュメイが20代の時に吹き込んだフランクのソナタのLPを持っていた。当時からこの曲の 第一人者の評判はあったが、妙に気取ったようなサロン風の演奏に一種の嫌悪感を覚えたものである。ところが、この夜の彼は、足を踏みならし、うなり声をあ げ、まるでフランクその人に挑みかかるかのようであった。そこから出てくる音楽の瑞々しさと男性的な力強さ!この30年のデュメイの成熟、というものを十 分感じさせた演奏だった。

三曲目はフランクの愛弟子であったショーソンの「コンセール」。色気のある曲である。今度は、エベネ・カルテット+デュメイ+ロルティの6人編成。エベ ネ・カルテットは、ジャズなども見事にやってしまうフランスの新進気鋭のカルテットだ。

http://www.quatuorebene.com/en/article/page/jazz

若くてハンサム、演奏は明快でキレが良く、技術も正確で表現力も豊か、と非の打ち所がない。日本ではまだ無名なようだが、かつてのクロノス・カルテットの ようにもてはやされる日が来るかもしれない。

この夜は、「コンセール」が青臭さと熱気に満ちた若書き作品、ということもあり、スタイリッシュなエベネ・カルテットの方向性とぴったり合致した。これに プリマドンナのように華麗なデュメイのヴァイオリンと、ロルティの流麗でスピード感のあるピアノが絡み、実にダイナミックでカタルシスを感じさせる熱い演 奏が展開された。アンコールも無く、客の入りも6割ほどだったが、個人的には大満足の夜。こんな演奏会なら何度でも行きたい。

帰路で妻と話題になったのが、デュメイの弾くストラディバリの音だった。「コンセール」では、デュメイとエベネ・カルテットのヴァイオリン奏者が一緒のフ レーズを弾くシーンがあって、そういった箇所で、音の輝き、艶、音量、色彩の差が、それこそ可哀想になるほど丸わかりだったのである。もちろん、エベネの 連中はそんな事は百も承知だろうが。

写真は中央ロルティ、向かって右がデュメイ。



5.4.2010

Rolando Villazon- tenor
Lucy Crowe - soprano
Paul McCreesh - conductor
Gabrieli Players

Royal Festival Hall

昨夜はRoyal Festival hallにてメキシコ生まれのテナー、ローランド・ヴィラソン(ヴィラゾン、ヴィリャソン)のヘンデルの夕べ。伴奏はGabrieli players。

数年前、若き日のドミンゴを彷彿とさせるスピントのきいた力強い歌声と、完璧なテクニックで彗星のように現れたヴィラソン。アラーニャのように、名ばかり で力に欠けるテナーが幅を聴かせるイタリアオペラ界で、久しぶりに(おそらく、ドミンゴ、カレーラスの登場以来30年ぶりに)知・情・意のバランスのとれ た歌が歌える本格テナーの登場である。瞬く間に、世界中のオペラハウスで引っ張りだこになった。これまた彗星のように登場した美貌のソプラノ、アンナ・ネ トレプコとの黄金コンビの「椿姫」でザルツブルグ音楽祭を制覇したまでは良かったが、あまりに売れっ子になりすぎて喉を酷使、大事な声帯を痛めてしまっ た。2007年頃からキャンセル、不調が伝えられるようになった。2009年シーズンは手術でお休みし、2010年シーズンからの再始動である。

客席は意外なほど空席が目立ち、当日券も多く出た。やはり、ヘンデルという地味なプログラムと、ヴィラソンのここ数年の不調もあるのだろう。実際、前半の ヴィラソンは力みばかりが目立った。もともと声量のある方ではないのだが、この時も声がなかなか前に出て来ず、低声部が鳴りきらない。それでも、例えばホ セ・クーラやロベルト・アラーニャあたりの1.5流テナーと比べると、どこか格の違いのようなものは感じさせるのだけれど、当代最高のテナー歌手としては 物足りない出来。後半に入ると、だいぶリラックスしたのか声が伸び始め、その真摯で熱い歌声を楽しめるようになった。アンコールの「オン・ブラ・マイ・ フ」は暖かく丁寧な表現。万雷の拍手をさらった。

後半の挽回でスタンディングオベーションが出たとは言え、客観的に見てこの夜のヴィラソンはベストのコンディションではなかった。低域で音程が甘く、時折 フラットになっていたし、高音域もAでさえキツい感じ。ごく稀だが、弱音で声がいがらっぽい響きになることもあった。復活プログラムに高音域が出てこない ヘンデルを選んだのも、喉がまだ本調子でないこともあるのだろう。

拾いものだったのが、英国生まれのソプラノ、Lucy Crowe。素晴しいテクニックと情感のこもった声。コケティッシュな表現力も十分で、その佇まいはあのエディタ・グルベローヴァを彷彿とさせた。歌った のはアリア二曲と、ヴィラソンの相手役としてのレチタティーヴォだけだったが、ホール全体を潤すようなその声の美しさは強く印象に残るものだった。はっき り言って、この夜のCroweはヴィラソンを完全に食ってしまっていたと思う。

ヴィラソンの喉が、全盛期に歌いすぎて喉を潰したカレーラス、ディ・ステファノのようになっていないことを祈りたい。この夜のヴィラソンの声は不満が残る ものではあったが、それでも後半の出来は、多少なりとも希望を感じさせるものではあったと思う。




1.15.10

Victoria Palace Theatre: Billy Eliot

映 画「リトル・ダンサー」を元にしたミュージカル「ビリー・エリオット」。エルトン・ジョンの音楽に、映画版を監督したスティーヴン・ダルドリーの監修。 2005年に、ロンドンのVictoria Palace Theatreで公演が始まった。トニー賞を始めとする賞を総なめにし、数百億円の大ヒットをもたらした。ブロードウェイやシカゴにも輸出され、今でもロ ングランが続いている。15日にVictoria Palace Theatreの本家の公演に足を運んだ。

北イングランドの炭坑夫達の喋る英語なので、舞台で言っていることは半分もわからない(例えば、Shut upはシャラップではなく、ショトップと発音する)。それでも、笑いあり、涙あり、感動ありのエキサイティングな舞台だった。エルトンの音楽はベタで、若 干クイーン風。ハードロックやラグタイム、ディキシーランドジャズも交えながら存分に楽しませてくれた。舞台転換のスムーズな点、照明の美しさ、立体感の ある演出も見事。全てが緻密に計算され、場面場面が流れるように展開されていて感心させられた。何よりもパフォーマンスの熱気が凄い。

監督が同じなので、ストーリーの流れは映画「リトルダンサー」と同様である。ただ、映画の名シーンについては、表現を変えたり、あっさりカットしてしまう などの「工夫」もみられた。例えば、「リトルダンサー」では、成人したビリーが「白鳥の湖」を舞うスローモーションのラストがある。自分は映画史に残る名 シーンだと思うのだけど、スローモーションが不可能な舞台といこともあるのだろう、いさぎよくそれをカットしていた。代わりに、成人したビリーと現在のビ リーとのデュオで、「白鳥の湖」の幻想的なダンスを中盤に持ってきていた。誰もが知る映画の名シーンと勝負せず、観客にカタルシスを別の手法で感じさせ る。賢明だと思った。最後、カーテンコールが始まった途端、出演者達総出で、華やかなディキシーランドジャズにのってタップダンスが展開された。フルコー スの後に豪勢なデザートを食べさせてもらった気分だ。

印象に残ったのは、Ms.Wilkinsonを演じたJ.Riding。豊かな声量と、切れのある演技で素晴しかった。ビリーを演じた少年 (O.GardnerかT.Holland)も見事で、ダンスについては映画版のビリーを遥かに上回る出来映え。タップ、バレエ、体操の床運動など、いろ いろな要素をこなしながら、縦横無尽に舞台を駆け回っていた。彼らの熱演で、3時間があっと言う間に過ぎていった。

こりゃあヒットするわけだ。



12.31.09 Wigmore Hall
Florilegium
Dame Emma Kirkby soprano

Programme
Handel
Concerto Grosso in G Op. 3 No. 3
Cantata: Tra le fiamme
Concerto a 4 in D minor
Sweet Bird from 'L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato�ユ

Purcell
Suite from 'The Fairy Queen'
Sweeter than Roses
Music for a while
One charming night (instrumental version)
Chacony in G minor for strings
Chaconne 2 in 1 upon a ground
Chaconne from 'Timon of Athens'
The Plaint
An Evening Hymn

昨晩はNew year's eve。一年の締めくくりはエマ・カークビーとテムズ河の花火。カークビーは古楽の女声歌手の第一人者である。彼女の声を最初に聴いたのは、20年以上前 に発売されたホグウッド指揮のモーツアルトのレクイエムだった。ジェスマイヤーの加筆をほぼ完全に否定するモーンダー版の演奏、ということで大変話題に なった演奏であるが、自分にはカークビーという歌手のボーイ・ソプラノのようなノンビブラートの歌声の方が強く印象にのこった。それ以来、自分にとって、 カークビーはリリック・ソプラノの理想型だ。

そのカークビーも今年で60歳である。今回はFlorilegiumという古楽の合奏団とともに登場。なんでも2009年はヘンデルとパーセルの記念年と いうことで、前半はヘンデル、後半はパーセル、というプログラム。カークビーのMCも交えながら、Wigmore hallの雰囲気も手伝って、アットホームでリラックスしたコンサートとなった。

生で聴いたカークビーの声は、意外なほどに情感と潤いに満ちており、年齢をほとんど感じさせなかった。声量はなく、そして高音の響きが硬くなる瞬間があっ たものの、透明で清純な歌声は健在。Florilegiumとの呼吸もぴったりで、ヘンデルのSweet birdでは、鳥を模したフルートソロとカークビーの声が美しく溶け合い、見事に呼応し合っていた。

共演したFlorilegium。鋭角的なリズムと、柔軟なフレージングはグレン・グールドのバッハのそれを思わせる。いくつか演奏されたパーセルのシャ コンヌは、どれもスタイリッシュ。「カッコいいバロック」を聴かせてくれたと思う。ヴィオラ・ダ・ガンバは日本人女性だったが、説得力のあるソロで、強く 印象に残る演奏だった。

コンサートを通じて、カークビーやメンバーが楽しそうに、互いに笑みをかわしながら、表情豊かに演奏していたのが印象的だった。弾き手が楽しんでいるのを 見るのはいつも気持ちのいいものだ。




Queen Elizabeth Hall, 11.23.09

昨夜は、Queen Elizabeth Hallでルイ・ロルティによるショパンのエチュード全曲コンサート。

ルイ・ロルティはカナダ出身のピアニストである。ショパン、ベートーヴェン、ラヴェル演奏に定評がある。彼が録音したショパンのエチュード集やラヴェル全 集(シャンドスレーベル)はファーストチョイスにしても良いほどの完成度を誇っている。

この日も、ただただ嘆声を放つしかない演奏を聴かせてくれた。安定感のある確かな技術と、色彩感豊かな音、溢れるようなロマンティシズム。表現力の幅の広 さも瞠目すべきものがある。例えば、そこかしこに顔を出す幻想性やユーモアは、ショパンのエチュードというよりは、まるでシューマンの作品を聴いているか のような気分になった。際立って特徴的だったのが、メロディアスな箇所でのレガート。手首とペダルを巧妙に使い、まるで弦楽器か木管楽器のように浮遊感の あるフレージングでメロディを歌わせていた。そういった特質が出ていたのが、10-3や25-7。繊細な上にも繊細なコントロールから作られたフレージン グは、ピアノに鍵盤がついていることを忘れさせるかのごとくだった。

ただ、ヴィルトオーゾ的な巨大なテクニックの持ち主ではなかった。どの曲も楽々と弾きこなせるほど優れた技倆の持ち主ではあったが、25-10のように、 オクターブ奏法の箇所になると、一種の非力さのようなものを感じさせるところがあった。また、時にフォルテッシモの音の力強さが欠け、キメるべき所で、音 から力が若干逃げてしまうような所が数カ所あったのはどういうわけだろう。もしかしたら手が小さいのかもしれないが、体格は中肉中背で、決して貧弱には見 えない。

今回は舞台から数メートルの位置だったので、弾く姿をよく観察してみた。気がついたのは、手と鍵盤の距離が常に近く、高い位置から腕を降り下ろす動きがほ とんど無かったこと、それから強音の箇所でも手首の固定の度合いがあまり強くなく、そのために、腕の力が手首から逃げてしまい、ピアノに完全に伝わりきっ ていないように見受けられたこと。グールドもこの傾向があったように思うが、この弾き方だと滑らかで繊細な音を出す事に長ずる反面、リヒテル風のコシの しっかりした音を出すのは難しいかもしれない。それでも、超難曲の25-12の疾走感から来る迫力は見事で、終盤になるに従ってテンポがぐんぐん上昇して いく様は圧巻だった。

ロルティもFazioliユーザーである。彼のピアノは5000万円近くする。Fazioliの美質が最大限に発揮されたのが、この日のアンコールで弾か れたショパンの第二ソナタの第三楽章と第四楽章。そして、ノクターン8番。生で聴くFazioliの弱音の美しさを表現するのは不可能に近いのだけど、無 理に例えるならば、ビロードに包まれた真珠のような響きである。ヒューイットの演奏でもそういった音は時折聴こえて来たが、ロルティの奏でる音はさらに美 しく繊細で、まるで水琴窟のように鼓膜を優しくくすぐった。

ロルティは来年の5月にオーギュスタン・デュメイらと一緒にロンドンに戻ってくる。フランクのヴァイオリン・ソナタとショーソンのコンセールを弾く。どち らも大好きな曲だ。もちろんチケットは抑え済み。




8.30.09

VIVIER: Orion (UK premiere) [13']
RAVEL: Piano Concerto in G major (soloist: Martha Argerich) [22']

PROKOFIEV: The Love for Three Oranges - Symphonic Suite [17']
MUSORGSKY, orch. RAVEL: Pictures at an Exhibition [30']

Royal Philharmonic Orchestra
Conducted by Charles Dutoit

BBCプロムス60は、シャルル・デュトワ、ロイヤル・フィルの伴奏でマルタ・アルゲリッチの登場。現在、この顔ぶれで行っているヨーロッパツアーの一環 でもある。もともとのプログラムでは、アルゲリッチはプロコフィエフの第一協奏曲と、ラヴェルのト長調協奏曲を弾く予定だった。だが、一週間前に主催者か らメールが入ってきた。だいたい、こういうのはいい知らせであったためしがないのだが、メールには、「病気のため、アルゲリッチはプロコフィエフの第一協 奏曲を準備できなかった。ラヴェルは弾く」とある。キャンセルでなかったことについて、ひとまず胸をなでおろす。

会場のロイヤル・アルバートホールに入ってみると、席はステージの後ろ、第二ヴァイオリン、打楽器奏者の後ろだった。最初はがっかりしたのだが、いざプロ グラムの冒頭、「Orion」が始まると意外にこれが悪くない。金管や木管がクリアに聴こえるし、指揮者とオーケストラとのコミュニケーションも良くわか る。絶対的な距離がステージに近いせいか、ピアノの響きも明瞭だった。

偉大なピアニストでも、その多くは演奏中に楽器や楽譜とのなんらかの格闘の痕跡がみられるものである。しかし、アルゲリッチの演奏は、そういった障壁や逡 巡のようなものを一切感じさせない。鍵盤に触れるやいなや、彼女の身体から、生気と疾走感に溢れた音楽がマジックのようにほとばしり出てくる。もう飽きる 程、おそらく100回は弾いているラヴェルの筈なのに、この音楽の新鮮さ、躍動感はいったいどういうことだろう。

アルゲリッチの速いテンポについていくために、デュトワがオーケストラを限界まで追い込んでいく。必死になってピアノに食らいつこうとする管楽器奏者達。 それを感じてさらに一段ギアをあげて疾走しはじめるアルゲリッチ。そういった丁々発止のやりとりだけでなく、第二楽章では目の詰まった、琥珀色の美しい音 を堪能することもできた。彼女は美音で聴かせるタイプではないと勝手に思っていたのだが。

ラヴェルが終わり、観客(とオーケストラから)の熱狂的な歓呼にこたえて、ピアノの前に座ったアルゲリッチ。拍手が終わるのを待たず、長い髪を無造作にか きあげながら、スカルラッティのトッカータ・ソナタを疾風のように弾きはじめた。これがラヴェル以上に印象的な演奏。攻撃的だが正確無比なタッチをちりば めつつ、イマジネイティヴでめくるめくような音楽を聴かせた。これほど先鋭的で、ピアニスティックなスカルラッティは、今までレコードでも演奏会でも聴い たことがない。こういうのを聴く度に、一晩、彼女のソロ・リサイタルが聴けたらどんなに幸せだろう、と思ってしまう。今となっては夢のまた夢となってし まったけれども。

休憩をはさんで、「三つのオレンジの恋」と「展覧会の絵」。座っている位置のせいもあるのだろうか、普段と全く違う響きがステージから聴こえてきて面白 かった。デュトワという指揮者は、聴かせ上手の上にトレーナーとしても非常に優秀だ。技術的な妥協をせずに、細部まできちんとした音楽をつくってくるの で、通俗名曲でも聴いていて退屈させられることがない。また、彼はLSOの監督のゲルギエフのような見え透いた自己顕示もやらないから、こちらが白けてし まうようなこともない。ロイヤル・フィルは最高の音楽監督を迎えたと思う。




Ian Bostridge
Julias Drake

7.23.09 Wigmore Hall

内 田光子が10年ほど前に、「今、ぜひ一緒にシューベルトをやりたいと思っている人がいて、交渉中です」と話していたのを読んだことがある。それがボスト リッジだった。もうその数年前から、英国びいきのグラモフォン誌を中心に急激に評価が高まっていた。彼が出演した昨年の「ドン・ジョヴァンニ」はあっとい う間にチケットが売り切れてしまった。今、もっともホットな歌手の一人だろう。その貧乏詩人のような長身痩躯の容貌からか、女性ファンも少なくないようで ある。

とは言え、本人にはスターらしい浮ついた雰囲気はない。ストイックなステージマナーで、地味地味のプログラムをこなしていった。冒頭から、独特の、ビロー ドを細筆で撫でまわすような唄い回しで、細部まで丁寧に表現して行く。この人は、フィッシャー・ディスカウと似たところがあって、全てのフレーズを微分積 分し、いちいちクレッシェンドとデクレッシェンドで色付けしないと気が済まないようなところがある。それでも、フィッシャー・ディスカウほど頭でっかちな 感じがしなかったのは、持って生まれた叙情センスから来るものだろうか。時に耽美的に過ぎ、そして若干表情過多に感じたものの、透明で美しい歌声には時間 を忘れて聴き惚れさせるものがあった。きっと、彼のリヒャルト・シュトラウスなどは素晴らしいことだろう。スタイルは若干違うものの、美声、テクニック、 知性、表現力が全て揃っているという点では、あのフリッツ・ヴンダーリッヒ以来のテナーかも、とさえ思う。

ジュリアス・ドレークのピアノ。そのタッチは特別洗練されている、というわけではなかったのだが、リズム感の良さと表現力の豊かさが強く印象に残った。ボ ストリッジをサポート、時に誘導し、安定感のあるステージを作り出していたと思う。

アンコール二曲目の出来事。リラックスしすぎたのか、ボストリッジがフレーズを間違えたらしい。突然口を抑えて、ドレークの方を向いてあわてて演奏を制止 させるというハプニングがあった。会場は笑いと拍手に包まれ、演奏は再開。その後は、本プログラム以上に、素晴らしく伸びのある声で聴衆を魅了した。


6.13.09 Wigmore hall
Rameau: Pieces de clavecin
Dukas: Variation, Interlude et Finale sur un theme de Ramaeu

Couperin: Sixieme Ordere from Pieces de clavecin Book II
Ravel: Le Tombeau de Couperin
Angela Hewitt (Pf)

二 度目のアンジェラ・ヒューイット。Wigmore Hallは初めて。このホールは前々から訪れてみたいと思っていた。ここは500席に満たない小さなホールなのだが、ルネッサンス風の内装が美しく、しか も音響が非常に良いという(後ろの席で聴いた感じでは、音は大きく響くものの、分離はあまりよくない)。他の大ホールに比べてチケットも割安で、しかも席 が舞台に近いため、アットホームな空気でコンサートを楽しむことができる。安い、小さい、とは言っても、ここで弾くアーティストは一級。過去の来演アー ティストには、ブゾーニ、サンサーンス、イザイエ、リヒテル、シュナーベル、サラサーテなどの名がずらりと並ぶ。今年は5月にMidori、7月にボスト リッジ、10月には、ジョシュア・レッドマンとブラッド・メルドーのデュオが出る。

ヒューイットの組んだプログラムは、前半がラモー、後半がクープランにちなんだもの。ラモーやクープランは、ヒューイットの左手の動きが右手に比べてやや 重かったせいか、あるいは本来がクラヴサンで書かれた曲という性質のせいか、少し野暮ったく感じられた。デュカやラヴェルの方が良かったように思う。そ の、寡作家デュカによるラモーのテーマによる変奏曲。フランクの影響下に書かれていて、地味ながら霊感にあふれた力作と感じた。コンサートでもあまり取り 上げられない作品だが、もう少し弾かれてもいいと思う。それから、良かったのが「クープランの墓」。前奏曲の開始部でいきなりまごつくところもあったもの の、全体的には流麗さ、力強さに不足のない佳演だったと思う。アンコールでは、ドビュッシーの「月の光」をしっとりと聴かせてくれた。


5.5.09
Conductor: Semyon Bychkov
Lohengrin: Simon O'Neill
Elsa: Edith Haller
Ortrud: Petra Lang
Telramund: Gerd Grochowski
King Henry: Kwangchul Youn

昨 晩はコヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラで、ワーグナーの「ローエングリン」である。間抜けなことに開演時間を間違えてしまい、第一幕を逃した。 「ローエングリン」は第一幕が一番面白いので痛い。ただ、ロイヤル・オペラでは遅刻者のために廊下にディスプレイが用意されていて、劇場内の様子を知るこ とは出来た。ちょうど到着した頃に、劇場内でもローエングリンが白鳥とともに到着。うーん、チープなスピーカーを通してさえ、指揮も歌手も最上級なのがわ かる。これを逃したのは惜しい。

指揮はセミヨン・ビシュコフ。彼はたしかカラヤン・コンクールの初代優勝者で、カラヤンが最晩年に高く評価した逸材として、鳴り物入りのデビューをした。 その後、どちらかというと地味で手堅い路線に行った印象がある。パリ管やケルン放響の監督を歴任している。初日の評価では、「ビシュコフはコヴェントガー デンを征服した」と大絶賛だったが、その好評価もうなずける指揮ぶりだった。劇的な場面での引き締まったアンサンブル、速めのテンポ、ティンパニやブラス の強奏も辞さない彫塑的な音づくりは、バイロイト時代のベームを思わせる。同時に、全てのセクションの音が驚くほどの透明度と色彩感を持って聴こえて来 る。話では、ワーグナーがリストに書き送ったテンポ指示を参考にしていった結果、キビキビともたれないテンポになったという。それでいてスケールがこじん まりすることはなく、各所で壮大なクライマックスも築いていた。こんな素晴らしいワーグナーを振れる指揮者がまだいたとは!

ローエングリンは、プレミエを唄ったJohan Bothaではなく、ニュージーランドの新鋭、Simon O'Neill。ダブルキャストのBothaの方が知名度がはるかに高いし、Bothaはビシュコフとケルンで既にローエングリンをやっている。ただ、 Youtubeで確認した印象では、無名のO'Neillの歌唱力がBothaよりも明らかに上だと思った。迷わず、O'Neillの出る回のチケットを とった。その期待を裏切らない素晴らしいローエングリンだった。ヴァーサルやヴェントリスらと同系の、細身の硬質の声のヘルデン・テナーだったが、彼らよ りも声質がハンサムで金属的な要素がずっと少ない。全盛期のペーター・ホフマンの声を明るくさせ、それをさらに安定させた時のような凛々しい声だった。 カーテンコールで、彼だけビシュコフに抱擁されていたところを見ると、ビシュコフも満足の出来だったのだろう。まだ国際的に有名とは言いがたいが、この図 抜けた実力なら数年もせずに世界中で引っ張りだこになるだろう。

エルザ役のEdith Haller。彼女も国際的なキャリアはそれほどでもないようで、2008年のバイロイトに出た時も、グートルーネやノルンなどの端役。しかし、この夜は 非常に印象に残る出来だった。ドラマティックな表現には欠けていたものの、リリカルな声質、ノンビブラートで良く響く声が美しい。ピアニッシモでも天井桟 敷の隅々まで綺麗に届いていた。清純そのものの声と正確なテクニックは、全盛時のマーガレット・プライスを彷彿とさせる。O'Neillとの組み合わせは ほぼ完璧だった。

批評家から絶賛されていたのが、オルトルートのPetra Lang。絶対的なパワーには欠けていたものの、この役に必要な存在感と表現力を持っていた。

Elijah Moshinskyによる演出は1977年の再演らしい。伝統的なスタイルで、このオペラの宗教性をより強調していた。一つ印象に残ったのが、第三幕の冒 頭、有名な前奏曲がおわりに近づくとともに、舞台上に展開していた黒服のメイド達が、巨大な赤いシーツを舞台上に広げたシーン。最後の和音とともに展開さ れた、真っ赤なシーツの鮮烈なイメージは目の奥に焼き付いている。

かえすがえすも第一幕を聴けなかったのは残念だったが、それでもビシュコフの底力、O'NeillとHallerの素晴らしい歌声を満喫した一夜だった。



4.29.09
アンジェラ・ヒューイット
ゴールドベルグ変奏曲
ロイヤル・フェスティバルホール

この日は本来ならばグレゴリー・ソコロフが登場する筈だった。ビザ問題でソコロフがキャンセルし、そのコンサートを救ったのがヒューイット。ソコロフは残 念だったが、ヒューイットのバッハなら御の字だ。それでも、埋め合わせが必要だと思ったのだろう、「ゴールドベルグ変奏曲」についてのフリートーク、サイ ン会などがあった。トークでは、曲への個人的な思い入れ、各変奏曲の解説、さらにファツィオリ・ピアノについてのコメントがきけて面白かった。

ファツィオリはイタリアの家具メーカーが作ったピアノで、録音でもそれとわかるほど特徴的な音色を持っている。ただ、生産台数が少ないため、広く使われて いるとは言えない。数少ないファツィオリ・ユーザーの代表がヒュ ーイットだ。彼女がトグネッティと吹き込んだバッハのピアノ協奏曲集(Hyperion)は、ファツィオリ特有の歌うような音色、まるでマリンバのような 高音域の明るい響きが素晴しく、時々取り出しては耳を傾けている(http://www.hyperion-records.co.uk/al.asp? al=CDA67607/8)。昨日のトークでは、ヒューイットはファツイオリについて、「音が大変カラフルで表現の幅が広い」「パワフル」「タッチのリ アクションがとても良い」「最弱音でもIlluminatingでRadiantな音が保たれる。他のピアノではなかなかそうはいかない」とコメントをし ていた。確かに、この日ホールで耳にした最弱音は、まるでビロードに包まれた真珠のようにしっとりと輝いていた。

ゴールドベルグ変奏曲と言えばグールド。グールドと言えばゴールドベルグ変奏曲。そしてヒューイット の師はミセス・ゲレーロ、つまりグールドの師、アルベルト・ゲレーロの夫人。弾く方も聴く方も、グールドを意識しない方がおかしいというものだ。そのせい かどうかわからないが、ヒューイットのアプローチはグールドの対極に位置するものだった。つまり、色彩感に溢れた音、表現主義的でロマンティックな歌い回 し、ショパネスクでピアニスティックな表現。繰り返しを一切省略せず、ペダル、ルパートも数多く用いていた。彼女のバッハ録音を聴いた身としては、本当の ヒューイットのスタイルはもっと1950-60年代のグールド寄りなのではないかと思うのだが.....。実際、時折顔を出すチョッピーなタッチや装飾音 の扱い方は、グールドのスタイルを彷彿とさせるものだった。

どんなスタイルであれ、頭の中に刷り込まれたグールドの新旧録音の鼻歌が一時的にでも消え去ってくれれば、こちらとしてはそれで十分。残念ながら、その瞬 間はあまり多くなかった。出てきた音楽は大脳皮質の産物、彼女のナチュラルな持ち味が薄まってしまっていた。技術的なものからか、音を置きにいってしまっ ていたのも残念。ハイペリオンのバッハ協奏曲集の録音に充溢していた躍動感、自発性、自然なフレージングの美しさが、昨日は時折にしか聴こえてこなかっ た。それでも、マイナーの変奏曲では、グールドの演奏に欠けているエロチシズムみたいなものは聴こえてきたし、第28変奏の美しい響きは今でも耳に残って いる。こういった瞬間がいくつかあっただけでも行った甲斐があったというものだろう。



4.27.09ロイヤルフェスティバルホール

Martha Argerich
Charles Dutoit
Royal Philharmonic Orchestra

プログラムはオール・プロコフィエフ。
「三つのオレンジへの恋」
「ピアノ協奏曲第三番」
「ロメオとジュリエット」ハイライト

アルゲリッチが真の天才であることを実感させられた一夜だった。冒頭からタッチのキレ、鋭角的なリズムに圧倒される。音楽がその場で生成されているような 自発性と完璧な技術、そして天翔るようなスピード感は少しも変わっていない。本当に67歳なのだろうか。しかも、15年ほど前、メラノーマを患い、肺転移 もおこして危なかったという。聴く前は、さすがに若い頃の輝きはないだろう、と多少の覚悟をしていた。

とんでもない間違いだった。

ピアニストが音を「置き」に行く瞬間が一つもなく、自由奔放に飛び回っていた音たちの方がバシっとあるべきところに次々と着地していく。その様子にいささ かの乱れもないまま、音楽がスピード感を増して行く。分野は全然違うが、パコ・デ・ルシアの演奏にあるものと同じ要素を感じさせた。第一楽章が終わった瞬 間、あまりの素晴らしさに客席からざわめきと拍手が漏れた。近くの席にいた女性は「すごい」と溜め息。第三楽章の最後の和音から間髪をいれず、熱狂的なブ ラボーがかかり、客は総立ちになって手拍子。それに参加するオーケストラのメンバー達。ロンドンのオーソドックスなコンサートでは珍しい。

1人で弾くのはプレッシャーが大きすぎる、ということで、アルゲリッチがソロで弾かなくなって20年くらいになる。今回のコンサートの前、カナダの僻地に いるKevin Bazzanaが、「なんてラッキーな奴だ」と羨ましそうにしながら、「拍手をいっぱいしたらソロで弾いてくれるかもね」と話していた。その予言通り、歓 呼に答えてピアノに戻り、ショパンのマズルカを弾いてくれた。また歓呼とスタンディングオベーション。もう一度出て来て、マズルカをもう一曲。その解釈 は、晩年のホロヴィッツばりにたっぷりと恣意的に弾き崩され、ロマンチシズムが全面に出たもの。まるで、自宅の居間で気ままに弾いているようなリラックス した弾き方だった。ソロコンサートをやめた今だからこそ、こういうアルゲリッチが聴けるのかもしれない。

元夫のデュトワ指揮のロイヤル・フィル。アルゲリッチの影に隠れてしまったが、素晴しい演奏をしていたと思う。というより、今まで聴いた数多くのオーケス トラ公演の中でも、公演後に、これだけ満ち足りた思いで家路につけたことはなかった。その多くはアルゲリッチだけではなく、デュトワの指揮に起因していた と思う。これみよがしのハッタリは一切せず、テンポをあまり崩さずに進めていく。その一方で、オーケストラから艶やかで豊麗な歌が幾層にも重なって聴こえ てくる。凄い指揮者だ。

最後の「ロメオとジュリエット」は、デュトワがモントリール交響楽団と吹き込んだ名盤があった。しかし、昨日の演奏は、録音よりもさらに集中度が高く、セ クション間の有機的なつながりをより感じさせる素晴らしい出来だった。演奏に反して終演後の客の拍手に熱がこもっていなかったのは、前半プログラムのアル ゲリッチでお腹いっぱいになってしまった客が多かったせいだろう。デュトワによほど感心した自分でさえ、拍手しながら「アンコールはもういいや」と思った ほどだから。



12.29.09
プッチーニ トゥーランドット(ロイヤル・オペラ)

Original Production: Andrei Serban
Conductor: Nicola Luisotti
Princess Turandot: Irene Theorin
Calaf: Jose Cura
Liu: Svetla Vassileva
Timur: Paata Burchuladze
Ping: Giorgio Caoduro
Pang: Ji-Min Park§
Pong: Alasdair Elliott
Emperor Altoum: Robert Tear

幕 があがる前に「Irene Theorinは感染症にかかっていますが、今晩は歌います」とのアナウンス。Theorinは、初日は歌えず、ベテランのエリザベス・コネルに変わった という報道があった。この日からTheorinが復活したらしい。コネルも好きな歌手だが、この日のTheorinの出来を考えればラッキーだった。

オペラ自体は面白いので楽しめたが、公演にはポジティブな面とネガティヴな面が混在した。ティムール役は、カラヤン指揮の「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長 役で一躍有名になった、バスのPaata Buruchuladzeである。当時から巨大な声量で有名だった歌手だが、この日も地響きがするような声を聴かせてくれた。だが、小回りのきかない重過 ぎる声は相変わらずで、メロディが点描法のようになってしまっていた。リュー役のSvetla Vassilevaは平凡。声質がややドラマティック過ぎていて、役柄にそぐわない。ビブラートも大きいし、声のコントロールも十分ではなかった。客の同 情を惹きやすいリューということで、カーテンコールでは大きな拍手を貰っていたが、演技はともかく、歌の方は水準以下だったと思う。カラフのJose Curaは、いつも通りまあまあ、というところ。中低域では安定しているものの、高域では泣きが入るというのもいつも通り。恣意的にフレーズを崩すところ も散見され、指揮者が苦労しているのが見てとれた。振る舞いや佇まいは大歌手なのだが、歌の力が今ひとつそれについていっていない。

一 方で素晴しかったのは、風邪をひいていた筈のTheorin。ビブラートはやや大きかったものの、上まで良く伸びる透き通った声、情感、声量、表現力とも 申し分なかった。アリアでの高音が一部短かったところを除けば、コンディションの不良をほとんど感じさせなかった。舞台上の容姿もトゥーランドットに相応 しかった。これほど優れたトゥーランドット歌手を生で聴けたのはラッキーである。

皇帝に往年の名テノール、Robert Tearがキャスティングされていたのも嬉しい驚き。ピン(Giorgio Caoduro)、ポン(Ji-Min Park)、パン(Alasdair Eliott)は芸達者でとても良かったと思う。

指 揮者のNicola Luisottiは、よくも悪くも叩き上げ指揮者の雰囲気がある人。オペラ公演につきものであるアクシデントを適確に処理する能力に長けているように見受 けられたが、オーケストラに興奮を与える面は十全ではなかった。推進力に不足する箇所が散見されたし、アンサンブルも音のキレも今ひとつだった。だが、情 感を感じさせる箇所では、美しく透明な歌をオーケストラから引き出しており、単なるカペルマイスターとは一線を画していた。彼の最良の面が出たのが、 「リューの死」で、大変感動的なシーンとなっていたと思う。2009年よりサンフランシスコ・オペラの監督に就任するとのこと。これから楽しみである。

演出はダンサーの太極拳のような意味不明の動きを除けば、優れた演出だったと思う。光と影を巧妙に取り入れた寺院風のセットも雰囲気がよかった。



9.30.2008

内田光子
コリン・デイヴィス
ロンドン交響楽団
バービカンホール

プ ログラムはベートーヴェン第四ピアノ協奏曲とウィリアム・ウォルトンの「ベルシャザールの響宴」という、全然関連のない組み合わせ。正規のプログラムの前 に、若手作曲家Christian Masonの4分ほどの小品が演奏された。繊細な響きを持つ現代曲で、タケミツやメシアンの影響があって面白い。イギリスではこうやって、自国の音楽家や 作曲家のPRを積極的にやる。

内田光子の柔らかなタッチで曲が開始。同じホールでブロンフマンを聴いた時は、もっとずっと金属的な音色だったと記憶している。彼女のアプローチは非常に ロマンティック。いつものように、息を潜めるように、ピアノと対話するかのように弾きながら、曲の底辺に流れる叙情性を美しく浮かび上がらせていった。第 一楽章は手に余る感じがしたが、第二楽章の集中力は見事。第三楽章では、玉を転がすようなタッチが曲に輝きを与えていた。コリン・デイヴィス指揮のロンド ン交響楽団だが、時折ハッとするような豊かな歌をきかせていたものの、全体的になんとなく居心地が悪そうに弾いているような印象を受けた。オーケストラの 音にも潤いと香りがなかったように感じた。バービカンホールのデッドな音響のせいだけではないと思う。同じホールでもウィーンフィルはもっと柔らかないい 音だったから。

次のウォルトンの「ベルシャザールの響宴」はCD用に録音されていたらしい。別にそのせいでもないのだろうが、デイヴィスもオーケストラも水を得た魚のよ うになった。「デイヴィスっていい指揮者なんだな」と改めて思ったものだ。曲は俗っぽく、軽薄で、ジョン・ウィリアムスがバーンスタインとストラヴィンス キーをパロったような感じ。効果ねらいが見え見えで、聴いていて恥ずかしくなる。でも、まあ、退屈はしなかった。それに、こういう映画音楽っぽい曲なら、 オーケストラのデッドな響きも気にならない。

ところで、この曲、カラヤンが「20世紀でもっとも重要な合唱作」と言ったそうだが、カラヤンは何を考えていたのだろう。そんな傑作とは思えないのだが。 デュリュフレのレクイエムや、オルフのカンタータなどを忘れていたのだろうか。




9.16.2008
コ ヴェントガーデン・ロイヤル・オペラでの「西部の娘」初日。このオペラはプッチーニの凡作の一つと言われて、上演機会も録音も少ない。かろうじて、大して 傑作とも思えないテノールのアリアがたまに歌われるだけである。このプロダクションは1977年から繰り返されてきたもの。演出はファッジョーニ。セッ ト・デザインはケン・アダムである。ケン・アダムは、キューブリックの「博士の異常な愛情」の有名な「戦争室」をてがけた、映画界でも伝説的なデザイナー である。

アントニオ・パッパーノ(指揮)
ホセ・クーラ(ディック・ジョンソン)
エヴァ=マリア ウェストブローク(ミニー)
シルヴァーノ・カローリ(ジャック・ランス)

シルヴァーノ・カローリは、27年前、カルロス・クライバー指揮のミラノ・スカラ座来日公演の「オテロ」でイアーゴを歌った。1977年のプロダクション もドミンゴと一緒に出ていたというから驚きである。来年70歳ということで、声の衰え、共鳴が不足するところもなくはなかったが、それをフレージングの技 術で巧妙にカバーしていた。舞台上の存在感は圧倒的だ。
ホセ・クーラは、泣き節が特徴のリリコ・スピント・テナーで、売れっ子の一人と言っていいだろう。悪くはないのだが.......魅力の無いフランコ・ボ ニソルリ、と言ったところか。
すばらしかったのは、ミニー役のウェストブローク。彼女は今年のバイロイトではティーレマン指揮の指輪でジークリンデ役を歌っているし、ウィーンでも 「フィデリオ」のレオノーレを歌っている。この夜は、喉が暖まっていなかった第一幕で高音が上がりきっていなかったが、尻上がりに調子を上げていき、第二 幕では見事な歌いぶりだった。高音域も力強いのだけど、印象に残ったのがレジスターより下の地声の美しさ。言葉もはっきり聴こえるあたり、全盛時のテバル ディを思わせた。優れた歌手だと思う。
パッパーノの指揮はオペラティックな感興にあふれたもので、躍動感、色彩感覚の豊かさはカルロス・クライバーにちょっと似ている。「ラ・ボエーム」などは 素晴らしいことだろう。

作品はなかなか面白かった。「ラ・ボエーム」「トスカ」「トゥーランドット」の要素をごちゃ混ぜにして、ハリウッド風にした感じ。初演当時は、「アメリカ 的でない」と批判されたらしいが、今聴いてみると1940-60年代のハリウッドの西部劇の音楽に良く似ている箇所もある。当時としては斬新な響きだった のだろうと思う。クライマックスは、第二幕、主人公のミニーが恋人のディック・ジョンソンを救うために悪役のランスを相手にポーカーをするシーン。ここ は、プッチーニの全作品の中でも最高度の緊迫感を持つ箇所だ。もしこのペースで全曲が出来上がっていたら、大変な傑作として残っただろうが、続く第三幕で いきなり台本が陳腐になってしまい、苦笑せざるを得ないような展開で終わっている。台本の拙劣さが、忘れ去られたオペラとなってしまった原因の一つだと思 う。



9.8.2008
ベルナルト・ハイティンク指揮シカゴ交響楽団とマレイ・ペライアの競演。BBCプロ ムス、ロイヤルアルバートホールである。いろいろな意味でとても楽しみな顔合わせだ。プログラムは、モーツアルトのピアノ協奏曲24番と、ショスタコー ヴィッチの交響曲第4番。

シカゴ響というと、自分の中では、殺伐としたデッドな音を出すが、べら棒に巧いオーケストラ、というイメージがずっとあった。そのオーケストラが、中庸の 美徳そのもののハイティンクの手にかかるとどんな音を出すか、とても興味があった。

モーツアルトでは、ハイティンクがオーケストラに柔軟なタッチとフレーズを要求していて、冒頭は「これがシカゴ?」と一瞬思うようなビロードタッチで始 まった。それでも時折、木管に「ゴリっ」とした無粋な肌触りが見えるのは、やはりシカゴ響。ペライアのピアノは1970年代の録音に比べて、恰幅と深みを 増した感じ。清冽さ、キレの良さは若干後退したものの、モーツアルトの最高傑作の1つであるこの協奏曲から、驚く程豊かな表情を引き出していた。それでい て表情過多の厚化粧にならず、どこか毅然としていたものを保っていたのはさすが。ロマンの極みのような第二楽章は名演だったと思う。

ショスタコービッチの交響曲第4番では、正確無比、というシカゴ響のイメージ通りの演奏が聴けた。このオーケストラのブラス・セクションの音圧と重量感は 生で聴くと物凄いものがある。それでいて、他のセクションも驚くほどの透明度と音量で聴こえてくるから、全体的にパワーがあるのだろう。音の色彩感や音色 の美しさ、個々の奏者の自発性は一週間前に聴いたベルリン・フィルが上だったと思うが、音の反応の良さ、キレ、リズム感、そして絶対的な音量ではシカゴ響 が上回っていたように思う。彼らに比べると、ベルリン・フィルでさえ優雅に聴こえる。ただ、曲は正直言って退屈した。面白い箇所もあったものの、全体とし てとりとめがなさすぎるように思う。

ハイティンクはシカゴ響を撫で付け、そして時に爆発するにまかせつつ、全体として丁寧にまとめていた。オーケストラからの信頼も勝ち得ているようで、最後 はメンバー全員から拍手を送られていた。シカゴの次期監督はムーティだそうだが、なぜハイティンクの路線でいかないのだろう。非常にいいコンビだと思うの だが。来年80になるというハイティンクの年齢が関係しているのだろうか。見た感じでは、まだ60代前半と言っても通るほど元気そうだったが。

残念だったのは、ショスタコービッチの第二楽章の終わりのピアニッシモで誰かの携帯電話が高々と鳴ったこと。それから、フォルテッシモであまり目立たな かったが、もう一度鳴っていた。アメリカならともかく、音楽の都ロンドンでこういう事があったのは残念だ。携帯電話持ち込み禁止のルールを作るべきじゃな いかと思う。




9.2.2008
今年のBBCプロムスの目玉、ラトルとベルリン・フィル、エマール(アイマール)によるメシアンのトゥーランガリラ交響曲をロ イヤル・アルバート・ホール で聴いた。コンマスの安永徹の音合わせに続き、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの「前奏曲と愛の死」でプログラムは開始。

テーマが「性と愛」で共通するプログラムの意図は明らかだ。そして、作曲者のメシアンは、小沢征爾盤のトゥーランガリラ交響曲の解説に執拗にトリスタンと イゾルデを引用していた。だが、肝心のラトルの指揮は、標題性を追求するというよりは、どちらかというと純音楽的なアプローチで、特に二つの作品の相関関 係を強調するようなことはしていなかった。それはそれで全然かまわないと思う。

トリスタンにしてもトゥーランガリラにしても、ラトルの解釈は緻密に計算されている。クライマックスでも、覚醒した意識を失うことなく冷静に演奏されてい るように感じた。例えば、トリスタンは中庸から遅めのテンポでじっくりと演奏されていたが、例えばフルトヴェングラーの演奏に濃厚にある「死の匂い」は まったくなかった。そのかわり、響きの感覚的な美しさ、流麗なフレーズ、そしてセクション間の卓越したバランスを聴き取ることができた。この点では、ラト ルは若き日のカラヤンを思わせるところがある。

感心したのが、いまさらながらのベルリン・フィルの巧さ。これが、響きの美しさ、縦、横、ピッチがあうというレベルだけではなく、個々の奏者の表現力、そ れから自発性の高さでも比類のない高さにあった。例えば、トリスタン前奏曲で弦とオーボエが会話する場面では、オーボエが長いフレーズを表現豊かに歌って いた。その歌い回しががあまりに特徴的だったので、まるでイゾルデの嘆き(オーボエ)ににトリスタン(弦)が応答しているかのように聴こえた。ここまで聴 衆にイメージを与えることができてしまうとは、オーケストラというよりは、ほとんどソリストの集団に近い。

トゥーランガリラ交響曲は、高校時代に小沢征爾のトロント盤を毎日のように聴いていたので、どうしてもそれとの比較になる。オーケストラはトロント交響楽 団よりもベルリン・フィルが数段格上なので、オーケストラの機能美は比較にならない。だが、指揮については、純音楽的に進めていくアプローチは小沢と似て いたと思う。むしろ、オドロオドロシさはラトルの方が抑え気味なほどだった。この曲自体、粘液質なほどにロマンティックだし、やりすぎるととめどがなくな る要素があるから、彼のようなアプローチでやった方がうまくいくかもしれない。少なくとも、自分はバーンスタインよりはラトルや小沢の演奏を聴きたい、と 思う。圧巻だったのは超難曲の「星達の血の歓喜」で、ラトルはベルリン・フィルの手綱を冷静にさばきつつ、巨大なクライマックスを作っていた。

ピアニストのエマールは、ストレート主体のイヴォンヌ・ロリオに比べると変化球主体のアプローチ。ラトルにぴったり寄り添うよりは、リズムも含めてすこし ずつスタンスをずらしつつ、存在感を浮だたせていたように思えた。あの長大な、「愛のまどろみの庭」で退屈しなかったのは初めてである。ラトルの色彩感覚 はもとより、エマールの表現力とひんやりした音色におうところが大きかった。

十分満足させられた一夜ではあったのだけど、ラトルの指揮については感動というよりは、感心、という印象が主だったのも事実。どの瞬間にも作品に 対する誠実な姿勢のようなものも感じたのだけど、なぜかこちらをのめり込ませるところまではいかなかった。たぶん、ラトルの、破綻の芽 を摘み取っていく手際の良さと、バランス感覚のせいで、音楽をギリギリのところまで追い込むことを、本能的に拒否しているかのような印象を持った のだと思う(BPOが巧すぎるのかもしれない)。あと、無い物ねだりではあるが、彼の音楽にもう少し「性愛」と「死」の匂いがあれば、と思う。すばらしい 技術を持つ 指揮者であることは間違いないのだから。

一つ思い出した。休憩時間にアリーナに降りていくと、廊下からトランペット・セクションがトゥーランガリラ交響曲のフレーズを何度も練習しているのが聴こ えた。コンサートが終わった後、団員同士が満足そうに握手をかわしていた。腕っこきの彼らにとっても、この曲は大きなチャレンジなのだろう。




7.27.2008 バービカンホール
Gary Burton, Pat Metheny, Steve Swallow, Antonio Sanchez

ゲイリー・バートンの演奏を聴いていると、英語の「演奏する」という言葉が、「遊戯」と同じなんだと改めて気づかされる。弾い ているのは白髪の人物なの に、まるで天使が雲上で遊んでいるかのような音楽。そういう印象はチック・コリアとの録音群にも感じられたのだけど、実際に弾いているのを観るとそれがさ らに感じられる。クリスタルガラスのように透明で純粋な音楽だけが一心不乱にそこに鳴っている、という印象。超絶技巧にも微塵のかげりもない。

パット・メセニー。この人はバートンに比べると、一種の俗臭みたいなものがある。最初こそ、バートンのサポートとしておとなしく弾いていたのだけど、途中 から大爆発。コルトレーンとブレッカーが同時に顔を出す。聴衆も唖然、そして熱狂。中頃をすぎて、途中でアコースティックに持ち替え、バートンとデュオで 演奏し始めた。これがバートンの持ち味を最高に引き出していた。

ドラムのAntonio Sanchezの柔軟なリズム感覚と多彩な音色も驚異的。実はSanchesこそ、この夜の影の主役だったと思う。Steve Swallowのモノローグのような渋いベースも聴きごたえがあった。聴衆はスタンディング・オベーション。それだけすばらしい夜だったと思う。