サイト更新情報

fugue.usは、幻のアーティスト達、忘れられた作品、隠されたエピソードなどに光をあてていく事を目的とした非営利サイトです(営利事業は英国の レーベルSonetto Classicsによって行われています)。

内容は著作権 によって保護されています。


10.17.2017

ニレジハージのライヴシリーズで、LP盤起こしの音源を一部入れる必要があると思っている。しかし、LPデジタル化の術が手元に無い。金属針のプレーヤーを持っている人は周囲にいるのだが、新品のLPなのでできればレーザーターンテーブルを使いたい。

関東近辺でもし協力していただける方があればご一報を。デジタル化自体はポータブルのレコーダーがあるので、あとはプレーヤーのみ必要なので。

info(at)sonettoclassics.com



10.15.2017


BBCよりノーマ・フィッシャーのアルバムのリマスタリングに使う24bitの録音を入手。

何度か書いていると思うが、BBCは70年代の放送録音を基本的に保管していない。今回のアルバムに使う音源は全て70年代の録音なので、基本は残っていないのだが、スクリャービンの第一ソナタだけはおそらく80年代に再放送があったためにマスターテープが残された。

BBCに有料でテープ音源の提供を求めることができるため、当然、この音源を8月上旬にリクエストした。できれば24bitで、とも付け加えて。ところが送られてきた音源は第四楽章の途中で切れている。再 度トランスファーを頼んだところ、今度は16bitの完全な録音が送られてきた。だが、こちらとしてはリマスタリング作業のために24bitの録音が欲し い。もちろん、CDには44kHz/16bitしか入らないのだけれど、リマスタリングではベストの結果を得るため、なるべく高い解像度の音源を使って作業している。ヴィラーニのアルバムもニレジハージのアルバムもそうした。

そのことを指摘し、改めて24bitのファイルをリクエストしたところ、「無い。放送はすべて16bitで行なっているため、16bitの音源しかない。それに、人間は24bitと 16bitを聴き分けられない」との返答。これには驚いてしまった。まず、70年代の録音はアナログの磁気テープに記録されているため、16bitも24bitも ないのである。テープから24bitで起こせば良いだけの話。「聴き分けられない」云々については唖然とする他ない。

さらに同じくライセンスを受けているBBC Legendsのディスク(ベームのブラームス第二交響曲)を見ると、20-24bit音源からリマスタリング、と書いてある。つまり、BBCは彼らには高解像度の録音を渡したことがあるわけだ。首を捻らざるを得ない。

以上のことを論理立てて書き、改めて24bit/96khzの音源をリクエスト。半月以上経ってからやっと要望通りファイルが送られてきた。よかった。文句を言っていなかったら16bitで妥協して仕事をするところだった。

多少手間取ったが、やっと目的の音源が全て出揃った。今週末からリマスタリングに入ろうと思う。



10.14.2017

今年の初頭に亡くなったロンドン楽界の大立者、テリー・ハリソンを偲ぶ私的な集まりがウィグモア・ホールで開かれた。イベントは招待制。ハイティンクやコヴァセヴィッチらの音楽家、業界関係者数十人を前にシフ、塩川悠子、ルプーが弾いた。インプレッションはこちら。写真へのリンクもあり。



10.11.2017

今日は珍しい日で、ニレジハージに関する記事が二つも掲載された。細部の正確性には難があるものの。
http://hungarianfreepress.com/2017/10/11/ervin-nyiregyhazi-from-hungarian-child-prodigy-to-california-drifter/

http://montrealgazette.com/sponsored/mtl-375th/from-the-archives-young-piano-star-lit-up-montreal-burned-out-early


前者はハンガリー人によるフリーメディアで、fugue.us由来の資料も使っている。ただ、ニレジハージの名前のスペルがNyíregyházi(iとaの上にアキュート・アクセントを置く。本来はaの上のみ)と間違っていたので指摘した。日本人がハンガリー人にハンガリー語を教えるのは妙な図式だけれど、この件に関してはハンガリー人ほど間違えやすい、という面がある。

この著者もそうだが、ハンガリー人はニレジハージをNyíregyháziと間違って綴る人がたまにいて、ブダペストのリスト・アカデミーも同じミスをしている。アカデミーに指摘したのだが、直す気配がない。困ったもの。
http://lfze.hu/en/notable-alumni/-/asset_publisher/fLQ9RSuRgn0e/content/nyiregyhazi-ervin/10192

スペルミスの理由はハンガリーにNyíregyházaという地域があるためで、この土地の出身者は土地名に基づいてiとaの上にアキュート・アクセントを置いてNyíregyháziと名乗る。ただ、ニレジハージの父親はiのアキュートアクセントを外してNyiregyháziと綴っており、息子アーヴィンもそれに従っている。

12月上旬からしばらく東京に滞在予定。少し長くいるつもり。




10.8.2017

国際ニレジハージ財団のマティアス・スミット会長と電話会談。メインは進行中のとある大プロジェクトについての話し合いだったが、話の流れで私とケヴィン・バザーナ が財団のメンバーになる、という話題が出た。このことはケヴィンからも耳にしていたので、会長に本気かどうかを確認した。

会長が心配しているのは自身の死後のことで、死ぬ前に信頼できる人物にニレジハージの遺産を遺したい、ということらしい。最終的にはSonettoが遺 産・著作権の管轄者となることも念頭にあって、その間に私とケヴィン、会長の三人それぞれが遺産を管轄するのが一番良い、という判断らしい。私の過去10 年の活動を見て信頼できると考えてくれたのだと思う。

スミット会長にはメンバーとなることを承知する、と伝えた。あとは彼の方で法的手続きを行うだけ。バ ザーナは私のようにリリース活動を頻繁にしているわけではないので、本人はメンバーになってもならなくてもどちらでも良い感じだったが、私の方からも私と 一緒にメンバーになってくれるように頼んだ。もう13年も一緒にやってきた相棒だし、彼の書き手としての能力、知識には絶対の信頼を置いている。いてもら うと心強い。


10.7.2017

先月の24日ノーマ・フィッシャーの家でアルバム用の撮影を行った。撮影を担当したリチャード・カリーナは私の要望を取り入れつつ、自由にノーマを撮っていった。まずピアノの部屋で撮影し、昼食を挟んでリビングで私の要求したスタイルで撮影。あとは庭で撮った。

昨日、リチャードの家で写真のチェックを行った。リチャードのキャリアの中でも満足度の高いセッションだったようで、大きな手応えがあったようで興奮して いた。彼はノーマを20年前にも撮った経験があるそうだが、その時は彼女を撮影モードに持っていくために苦労したという。今回は最初から自然で生き生きし た表情だった。

セッションの終わりにリチャードにノーマとの写真を何枚か撮影してもらった。実は二人のまともな写真は初めて。問題は私のFuji x100sが扱いが難しく、他人の手で満足に働かないのだ。あるのはピンボケ、ブレ写真ばかり。もちろん、リチャードの写真ではそんなことは起こり得ない。

リチャードとはすっかり意気投合。来年の夏のフィンランドへの家族旅行に一緒に同行しないかと誘われた。



9.28.2017

ソーク研究所時代の上司について書かれた記事を新聞で読んだ。あまり良い内容のニュースではなかった。その上司のことを思い出しついでに、当時のことを少し書いて見たい。ちょっと長いが、自分にとっては人生の分岐点の一つとなった大きな出来事だ。


私は1999年に大学院を修了し、その足で内藤記念科学財団の奨学金を貰ってアメリカ、サンディエゴのソーク研究所に移った。当時、ソーク研究所にはDNAの 二重らせん構造を発見したフランシス・クリックが在籍していた。彼はDNAの塩基である「ATGC」のナンバーをつけた真っ白なベンツに真っ白なスーツと いういでたちで、キャンパスと駐車場の間を歩いているのをよく見かけた。研究員にとっては、ルイス・カーンによる美しいキャンパス、研究所の眼前に広がる 青い海とともにソーク研の象徴だった。サインを求める同僚もいたが、私は神様相手にそんなことは出来ない。すれ違う際に軽く会釈する程度の距離で満足だっ た。

サン・ディエゴはとにかく美しいところだった。ソーク研究所はかつて利根川進博士なども在籍した世界的な研究機関で、研究者の夢の地の一つでもあった。た だ、私のソーク研の上司であったXは非常に難しい人で、内部では研究員が次々と辞めていくことで知られていた。部下達を縛り、干渉し、文献のコピーさえ取 らせてもらえず、やむを得ず隣の研究室のコピー機の暗証番号を教えてもらっていた。おそらく、部下がすぐに辞めていくことが続いて極度の人間不信に陥って いたのだと思う。しかも、出張も無いのに週に一度程度しか研究室に顔を出さず、非常に謎の多い人だった。私も研究室に到着してすぐに、研究室や実験システ ム、そしてXの実力にも問題があることが見えてきたが、なんとかXと折り合いをつけようとじっと我慢した。虐げられた人間同士のよしみで、研究室の同僚のポ スドク達との関係が良かったのが救いだった(ただ、韓国人ポスドクのみ、突然脈絡なしに歴史を持ち出されて泣かれたことはある)。

ソーク研に所属して10ヶ月で、「これはもう駄目だ」という事件が私とXの間で起きた。詳細は省くが、私の仕事の妨害をしているとしか思えない、と感じた 決定的な出来事が起きたのである。その少し前、科学技術庁の海外特別研究員の奨学金が当たったこともあり、他の研究室に移ることを真剣に考え始め た。この奨学金は給料手取り490万円に加え、150万円の研究資金を2年間、という現在の基準に照らしても気前の良いもので、当時のソーク研のポスドク の初 任給手取りの3倍を超える支給額であった。これが取れたのは大学院時代の論文のおかけである。大発見というほどのものではなかったが、名の通った雑誌に5 本の国際論文を出すことが出来たのだ。当時の愛知県がんセンターの上司M先生とY先生の指導のおかげだった。

資金面は確保できたとはいえ、異動は実質的に不可能に近かった。私のビザはJ1というカテゴリーで、これは研究機関がスポンサーとなることが前提で出されるものである。異 動にはスポンサーを探して移す手続きをせねばならず、そのためには新たな所属先を退任後一月以内に確保しておかなければならなかった。だ がXは部下の就職活動を許す人ではなかったし、就職活動が発覚した部下を即時解雇に追い込む、という話も耳にしていた。だが、再就職出来なければ一月以内にビ ザが失効する。上司の協力が得られない上、後ろ盾の無い外国で、応募、面接、採用をわずか一ヵ月間で済ますのはほとんど不可能に思えた。とりあえず、私の給料を出していた科学技術振興財 団にメールを書いたところ、先方はこちらの境遇に同情的で、派遣期間中の異動を認めます、とのことだった。

当時、分野の最有力研究者はシアトルにあるフレッド・ハッチンソン癌研究所のマーク・グルーディンという研究者で、実力も実績も名声もXとはケタが違う巨大な存 在だった。日ごろからマークの論文に強い印象を受けていたこともあり、いずれ一緒に働ければ、と思っていた。そこで、「貴方の98年の論文に衝撃を受け た。働かせてほしい」とマークにメールを書き送った。折り返し返事が来て、「君の今の上司の許可を得よ。そしたら面接に招く」とのぶっきら棒な文面。マー クは実質的に研究所を統括していたために多忙で、メールでは極度のミニマリストであることを後で知るのだが、この時は冷たい反応だと思った。しか し、いずれはXに話さねばならないのも確か。だがその時はまだ逡巡していた。就職活動が発覚してすぐXに追い出された韓国人やインド人のポスドクの例 を実際に見てきたからだ。

ある土曜日、私が研究室のデスクに座っていると、同じ階の研究者であったVがやってきた。チキンラーメンをむしゃむしゃ食べながら「マークの研究室に応募したのは君だな。私の部屋に来い」とのこと。ソーク研の看板教授であったVがなぜ私のところに来たのか疑問だった。理由を問うと、Vは「マークから聞いた。彼は私の親友だ。君はマークの研究室に行けるだろう。そして、フレッド・ハッチは私の大好きな研究所だ」と矢継ぎ早に私に言った。なぜVが私に肩入れしたのかよくわからない。研究所内の政治力学が働いたのだと思っている。

Vの保証を得て胸をなでおろしたものの、直ぐにそれは不安に変わる。Vが私がマークの研究室に応募したことをXに教えてしまったのだ。なぜVが無断で そんなことをしたのかわからなかった。間もなく、Xが笑顔を浮かべながら私のデスクに来て、「私の部屋に来なさい」と告げた。彼女のオフィスに入ると、X は笑顔で「何か問題を抱えているという噂を聞いたわ。話しなさい」。観念した私はXにマークの研究室に応募したことを告げた。Xは笑顔のままカレンダー を見て、「じゃ、あなたの退任日を決めましょうか」と言った。「X、今ソーク研を出たら自分はビザの関係で一カ月以内に国外退去になる。できれば次が決まる までここに置いてもらえないか」と必死に頼んだ。給料は日本政府関連の財団から出ていたため、私がいてもXの懐は痛まないはずだ。ところがXは、「あなた の事情など私の知ったことじゃない。貴方の存在はこの研究室の空気を悪くするの。さあ、退任日を言いなさい」。やむなく2週間後を指定すると、Xは「リー ズナブルね」と同意した。そして、こう続けた「貴方がマークの研究室に行けるなどと思わないことね。いろいろな研究室に応募することね」。あの時の冷たい笑顔は 忘れない。人事課に駆け込んだが、担当は同情的な笑みを浮かべるだけで「何もできない」、と繰り返すのみだった。

部屋から戻ってしばらくすると、Vと仲の良い同僚のポスドクが私のところに来てこう言った。「おい、お前は彼女が見た中で最悪のポスドクだ、とXがマークに書き送ったらしい。Vがそう言っていた」。研究者間の世界ではボスの言葉は絶対だ。狼狽した私がVのところに行くと、Vは「そうらしい。でも心配するな。マークには君は最高のポスドクだ、と言っておいたから」と私に言った。だが、Vは私について知っているのは履歴書の内容だけで最高も何もない。やはり政治的理由で私を助けたかったのだと思う。

Xには知られてしまったが、一方でおおっぴらに就職活動が出来るようになった。トークの経験が不足していたので、Vがオーガナイズしている所内の合同セミナーでも話させてもらった(Xはいつも通り顔を出さなかった)。この時期は眠れず、プレッシャーから常に発熱するようになった。

マークに「Xが応募の事を知った」とメールを出すと直ぐに面接に招いてくれた。シアトルまで飛び、フレッド・ハッチでマークに会うと、なぜ私がXの研究 室を去りたがっているかを訊かれた。続いてセミナーを行い、研究所のメンバー10名ほどと話した。マークはナイスだったが態度は淡々としていた。マークの研究室は月に100名ほどの応募があり、リスクをおかして私を雇わねばならない 理由はなかったし、マークはプラグマティストで、慈悲心で安易に動くようなタイプでもなかった。ただ、後から思うとマークははっきりと断るのが苦手な人 で、しかもVの 関与もあって、無下に断れなかったのだと思う。加えて、私は科技庁の資金を持っていたから、マークにとって特に断る理由が見つからなかったのだと思う。別れ際 にマークは私にこう言った。「あと二人候補がいる。君を採るかどうかわからないよ」。彼が私にコミットした、という手応えはなかった。

ソーク研に戻って一週間が経ったがマークから返事は無かった。面接から採用まで何ヶ月もかかるのが普通なのでこれは珍しくないのだが、私に関しては退任日が残り数日まで迫ってい た。マークの返事がすぐ貰えないのであれば、早急に次を確保しておく必要があった。当時は家にネットもプリンターもない。ソーク研退任後は就職活動もずっ と難しくなる上、ビザ失効へのカウントダウンも始まっていた。

もうマークの返事は待てないとなったある日、東海岸の二人の研究者にポストへの応募メールを出した。二人とも世界的研究者だったが、私の本命はマークだった。それでも一人からは直ぐに熱心な文面の返事が来て、「あと君がやらねばならないのは面接と推薦状だけだ」とあった。Vに「マークの返事が来ない。別の研究者に応募のメールを出して一人からは返事があった」と告げると、Vは「ちょっと待っていなさい」と奥に引っ込んだ。その数分後、マークから「私の研究室にようこそ。後は秘書に連絡せよ。」というごく簡単なメールが届いた。あの瞬間は今でも忘れない。その後、応募したもう一人からも返事があったが、話を先に進める必要はなかった。

国外退去まで1ヶ月、まさにギリギリのタイミングだった。私がマークの研究室からオファーをもらった、と知った時のXの反応が忘れられない。Xは一 瞬驚いた顔をしたが直ぐに笑顔に戻り、「おめでとう」と私に言った。そして「私達はこれからも友達ね」と続けた。形勢が逆転した形になったわけだが、もはや私 にとって過去になった彼女のことはどうでもよくなっていた。1週間後にはサンディエゴからシアトルに向けて愛車のロードスターを飛ばしていた。

Xとト ラブルを抱えたこと、自分を無理やり捻じ込んだような形になったことで、シアトルに異動した当初はマークは私の事を少し警戒していたような気がする。だが その後の仕事を通じてマークは私を評価してくれるようになり、3年後には「自分のフレッド・ハッチ25年の研究生活の中で最高のポスドク2〜3名の1人」 と推薦状に書いてくれるまでになった。マークが当初約束したのは科学技術振興財団の奨学金が切れる1年半の間だけだったが、結局、マークの研究室で次々と論文が出て、結局9年 もいることとなった。2008年にロンドン大学ICRのチームリーダーに着任したが、私を受け入れ、育ててくれたシアトルから離れるのは辛かった。今でも時折、私の第二の故郷となったシアトルのことを夢に 見る。



9.17.2017

ノーマ・フィッシャーの弟子の一人であるエドゥアルド・クンツのインタビューがネットにあったので見てみた。昔のインタビューと比べると、明らかに話し方の雰囲気が変わっている。よく言えばカリスマチックになり、悪く言えば芝居がかっている。まるでハリウッドの映画俳優のような話し方だ。

話している内容も挑戦的で、「作曲家は私無しには存在しない」「私と作曲家は同等」などと言っている。彼の言葉には一部真実も含まれているが、別にクンツ がいなくとも作曲家は存在するし、クンツの他にも演奏家はたくさんいる。ところが、彼の言葉を聴いていると、神&作曲家と聴衆を繋ぐのはエドゥア ルド・クンツしかいないかのようだ。

ただ、彼はよく喋るからこの態度が目立っているだけで、彼のような唯我独尊は、その実力の有無に関わらず、ピアニストでは珍しくない。音大にも沢山いる。さらに、小さい頃から神童、天才ともてはやされれ、クラスやコンクールで他人をうち 負かし続けていれば、謙虚になれ、と言うほうが無理だろう。ピアノという、他人と関わらない自己完結型の楽器がその独尊の傾向に拍車をかける。若い頃にスターだったピアニストが ミッドエイジ・クライシスを次々と発症するのも、ピアニストにありがちな、ある種歪んだ成長過程が関係している可能性が高いと思う。



9.16.2017

昨日はブライス・モリソンと二度目の会合。現在彼が執筆しているノーマ・フィッシャーのCD冊子について細部の修正の申し入れ。今回は彼の自宅に行った。要件は早々に終わり。

かつての出来事はどこへやら、ブライスとはすっかり打ち解けていろいろな話をした。個々のピアニストの評価には違いがあるが、それ以外では彼と考えは共通する。例えば、ピアニストは専門外については驚くほど無知であることが多く、ピアノ曲は知っていてもオペラや歌曲のことをほとんど知らない。ロンドンマスタークラスでも、ピアニストたちは他の楽器のクラスには全く顔を出さず、練習場と教授室を行ったり来たりするだけの生徒ばかりだった。

私 はピアニストは呼吸の仕方、アーティキュレーションを学ぶためには、絶対にオペラに知悉すべきだと思っている。知り合いの若いピアニスト達にも常にそう話してい る。ブライスも「ピアニストは歌曲を勉強すべき」という考えで、自らの学生には口を酸っぱくして言っているのだという。特別「勉強」する必要はないと思う が、ピアニストはオペラや歌曲を知らなければいけないし、この二つを愛せないピアニストはちょっと見込みがないのではないか、とさえ思う。

あとはホロヴィッツとルービンシュタインとの想い出話。二人は仲が悪かったが、その原因は奥さん同士が合わなかったせいが大きいのだそうだ。さらに、「ホロヴィッツは良いピアニストだが、私はより良い音楽家だ」というルービンシュタインのホロヴィッツ評が有名だが、ブライスにルービンシュタインが言ったのは「ホロヴィッツは偉大なピアニストだ。だが、私はさらに素晴らしい」というものだったらしい。そういう話がいろいろ聞けて面白かった。

ブライスのノートはほぼ出来上がり。私のプロデューサーノートもほぼ仕上がっていて、来週日曜日にノーマを撮影するセッションがある。一つ、BBCが提示したラ イセンス契約に極めて理不尽なことが書いてあって、そのことがプロジェクトの行方に重大な影響(中止も含めて)をもたらすかもしれない。そのことはまたいずれ。



9.8.2017

ヴァネッサの死である会議が延期になったため、ノーマのアルバムの写真を撮ることが決まっているリチャード・カリーナと会った。リチャードは超一流の写真家で、英国王室や英国首相、ローリング・ストーンズ、シドニー・ポラックらと仕事をしている。彼はノーマの遠い親戚ということで白羽の矢がたった。

リチャードは私がFuji x100sを使っているのを見て、自分のx100Tを嬉しそうに見せてきた。「このカメラを持っている人間で悪い人間はいないよ。最高に素晴らしいカメラ だ」。仕事ではフィルムカメラやフルサイズのデジタルを使う彼も、x100を持って外出することが多いという。

彼の過去の作品を一通り見た後、フロントカバーのデザイン案を見せた。リチャードはびっくりして、「ワーオ、これはすごいアイデアだ。男性ではあると思うけれど、 女性のポートレートではまず無いね。ノーマはうんと言わないと思うな。でもぜひやってみたいね」。私もノーマの反応については悲観的。そこで、二人で作戦 を練った。うまくいくかどうかわからないが、私とリチャードの二人が同じ考えを持っていることは強みだと思う。

以前から温めていた「人間を拒絶する自然」「自然への根源的恐怖」をテーマにしたアルバムについても話した。これも制作意欲を刺激されたようで、是非やって見たいとのこと。写真、音楽が決まってきた。



9.7.2017

このサイトで何度かPという名前で言及している友人の娘ヴァネッサが神経芽腫で亡くなった。9歳。5年間の闘病生活の後のことだった。少し彼女のために書いてみたい。

Pはアンジェロ・ヴィラーニの古くからの友人で、ロンドンのピアノ業界に人脈がある。ニレジハージとヴィラーニの最大の理解者の一人で、両アルバムのクラ ウドファンディングにも協力してくれた。彼の話では、ベンジャミン・グロヴナーがデッカ契約を得た裏にも関わっていて、ベンジャミンのウィグモア・ホール 公演のプライベート録音をデッカの重役に渡したのがきっかけだった、とのこと。「このことはベンジャミンは知らないと思うよ」と笑っていた。

Pは探究心旺盛かつヴァイタリティの塊のような人物で、特に昨年のBrexitではテレビにも登場して離脱反対のために声をあげつづけた。賢く、行動力が あり、真摯な彼がもし選挙に出馬したら支持する人は多いと思うが、ヴァネッサの病気の事もあって本人が出馬を匂わしたことはない。

ヴァネッサが 発症したのは4歳の時だ。アンジェロのロンドン・デビューの数ヶ月後のことである。ヴァネッサが患ったのは神経芽腫の中でもレアなケースで、すでにステージ4。治療法も確立していなかった。私とPはアンジェロを通じて付き合いがあり、ヴァネッサとも何度 か会っていた。世間は狭いもので、ある時、ロンドン大ICRの私の同僚であり、共同研究者でもあるLがヴァネッサの治療チームの一員であることがわかっ た。Lからもヴァネッサの病状の情報が入ってくるようになったが、明らかに彼女のガンは治療不可能なケースの一つで、Lも匙を投げている印象だった。

それでも5年もの間、次々と転移していくヴァネッサのガンを止めようと、Pは必死になって治療法を探し続けた。数年前、アメリカのスローンキャタリング研究所で開発された免疫療法を行うため、クラウドファンディング を立ち上げた。マンチェスター・ユナイテッドのリオ・ファーディナンド、エマ・ワトソンといった著名人たちも募金を呼びかけたことで数千万円の募金が集 まった。資金を持って渡米したものの、治療は失敗。帰国していからいくつかの新規治療法を続けたが効果はなく、最後の望みとして先月、Phase 1の免疫療法をトライしたが、予想通りガンの進行は止まらずに治療が停止された。それが先週の金曜日の話。私も早い時期から彼女が長くない事はわかっていたが、7月に会った際は元気だったこともあり、これほど突然終わりが来るとは予想していなかった。ヴァネッサ本人は知っていたらしいー昨日、本人の希望で学校に行ってクラスの友達に別れを告げていたのだそうだ。

人は死んだ人間をやたら美化したがるものだが、ヴァネッサは本当の天使だった。常に両親の言うことを良く聞き、我儘一つ言わなかった。Pの話では、抗がん 剤の治療中でも両親を心配させまいと辛さを口にせず、逆に両親の体調を気遣ってきたという。本人はガンであることを知っており、口にもしていたが、人前では 常に笑顔を絶やさなかった。また、時折見せる達観したような、透明感のある表情には写真を撮る身として惹かれるものがあった。

ヴァネッサと接する時間はそれほど多くはなかったが、彼女と知り合えたことは良かったと思う。次に作るニレジハージ・アルバムはヴァネッサ・モスに捧げたい。




9.3.2017

JK Artsの木下淳さんによるヤマハのピアノ情報誌「ピアノの本」掲載のニレジハージ盤の評。こちらから。



8.31.2017

友人のSNSでピティナ専務理事の福田成康氏による以下の挨拶文が議論となっていた。ピティナ主催のコンクールに関するもので、挨拶文の骨子は三つ。

「人間が生まれ持った競争心に火をつけ、参加者・保護者・指導者が一体となって一つの目標に向かうことは、子どもの成長を促す機会として有益」

ピアノの演奏そのものが目的と言えるまでピアノに向き合えれば、ピアノと関わる価値が深まる」

早い時期に能力を向上させる手段として、まずは、コンクールをはじめとする様々な演奏の機会をご活用」


第二、第三の文は問題ない。ピアノのように高度な技術が必要な楽器の習得は、表現意欲が生まれる前に教育を開始し、基本的な技量の質を高めておく必要がある。そのためにコンクールや演奏会といった場を提供し、動機として活用してもらう。それ自体は間違っていないと思う。

友人が問題視したのは最初の文の「競争心に火をつけ」という言葉だ。私からみると、それに続く保護者云々の表現も煽っているかのようで印象が悪い。後でどんなに良いことを書いたところで、「一つの目標」は「コンクール入賞」と読めるし、あたかもピティナが東大合格実績数を伸ばすことを目指す進学塾のような存在であるかのような印象さえ与えてしまう。

私個人は昨今のコンクールにはどちらかと言うとネガティブな印象を持っている。数年前、とあるピアニストが一連のピアノ・コンクールに参加する 計画を相談してきた際にも、思いとどまるように言ったたことがある。「自分の音楽を成熟させることに集中すべき」と言ったのだが、ピアニストはこちらの 言葉を理解した上でコンクール参加に固執しつづけた。その理由が、「コンクールの場を使って人前で弾くことに慣れたい」というものだった。しかも、 コン クールによっては交通費も出してくれるし、滞在費も出るし、オーケストラとの共演機会もあるし、うまく行けば賞金も貰える。ピアニストの本心がどこにある かは置いておいて、そういった現実的な理由であれば、こ ちらは強くは反対はしない。

結局のところ、彼の一連のコンクール挑戦はどれもうまく行かなかった。最近の彼のTVインタビューでは自身のコンクール参加歴には触れることなく、「自分はあえてコンクールには挑 まずにキャリアを作っている」と発言していた。一瞬、「ん?」と思ったが、それはそれでかまわない。ピアニストが失敗に終わったコンクールの参加歴 を隠すことは珍しくないから。

ともあれ、これまで何度も書いてきたようにコンクールというものは技術品評会の性格の強いもの。芸術とは関係がない、ということは言っておかねばならない(1)(2)(3)(4)。「芸術点」らしきものはあっても、フィギュアスケートの芸術点と 大差ない、表面的で根拠の薄弱なものだ。不正の噂もちらつく。昨今のコンクールが歴史に残るようなピアニストを輩出しなくなったのも驚くに当たらない。

賞金やコンサート契約など、コンクールが入賞者にもたらす一時的な利益があることまでは否定しない。だが、保護者も指導者側も、コンクールには「必要悪」 程度の認識は持っておいた方がいいと思う。このようなものを目標に設定してしまうと、子供を誤った方向に向かわせることになるし、コンクールに敗れた子が 将来伸びる要素を詰むことにもなる。特に指導する側は気をつけるべきだと思う。




8.23.2017

fugue.usのトップページを変更。意図的ではなくて、Sonettoのトップページを変更している際にミスで上書きしてしまった。作り直すのも面倒なのでこのシンプルな仕様のままで行くことにする。

オランダ国際ニレジハージ財団のマティアス・スミット会長が、私とケヴィンに財団の正式メンバーになってほしいと話しているらしい。財団を三人でシェア し、著作権の許認可権を私やケヴィンが持つことでSonettoを含めたニレジハージ関連の活動をスムーズにする、という意図だそうだ。まだマティアス本 人と話していないが、こちらとしては名誉なことだし仕事はよりやりやすくなる。実現すればアーカイブと著作権が初めて統合されることになる。



8.20.2017

Sonetto Classicsのトップページをバージョンアップした。見よう見まねでスクリプトを二つ導入。ページ作りは独学なのであまり大したことは出来ないけれど。


8.19.2017

昨晩、トリニティ・カ レッジで行われたベルカント・ソサイエティによるマスタークラスの出席者によるガラ・コンサートがロンドンのナショナル・リベラル・クラブで行われた。 ロンドン・マスタークラスのヴォーカル・クラスの講師だったネリ・ミリチオウが主催。

昨年のロンドン・マスタークラスで一際光っていたスペインの歌手、エステバリーズが参加していたので、二時間かけて彼女を聴きに足を伸ば すことにした。歌 唱は期待通り。技術面でも表現面でもすでに完成しており、聴衆を一瞬でとりこにする魅力もある。彼女なら一級のオペラハウスでも出れるし、実際、私がい くつ か聴いたロイヤル・オペラ公演の幾人かのスープレット役も彼女ほど印象的ではなかったと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=HJL5Xh9HWGY&feature=youtu.be&t=1h11m26s

昨年、彼女はマドリードでヒットしたミュージカル「ドン・ファン」のヒロインにキャ スティングされ、スペイン版エミー賞のようなものを貰った。さらに秋にはイタリアのムーティ夫人の主催する音楽祭で、リッカルド・ムーティの指揮で道化師の ネッダを歌うことが決まっている。一見、しごく順調そうに思える。

休憩中と公演後に彼女が私の席にやって来た。真面目な話をしたそうだったので、しばしコンサルティング。曰く、継続的なキャリアの発展に苦 労しているらしい。打開策としてコ ンクールにいくつか参加する予定で、「見つかる」ことを目指したい、とのこと。彼女ほどの実力と経歴であればなんなく見つかりそうなのだが、世間はそう甘 くな い。

「何も約束できないし、何も期待しないで欲しいけれど」と前置きした上で、もし興味があればアンジェロ・ヴィラーニの Public RelationをやっているNicky Thomasに話してみようか、と提案。ニッキーの元クライアントの一人はロイヤル・オペラハウスの監督のパッパーノで、ニッキーがその気にさえなれ ばパッパーノまで話は通じる。万が一うまくいけば個人オーディション、ということになるかもしれない。ただ、この手の話は山ほどあるだろうし、忙しいニッ キーやパッパーノがいちいち相手にするとも思えない。タイミングと彼らの興味を惹く材料が重要だ。

最近彼女が仕事をしているプラシド・ドミンゴか、あるいはムーティかムーティ夫人の推薦状をもらえるかどうか当たって見て欲しい、と伝えた。そういったものがあ れば多少は違ってくる。推薦状がもらえること が判った段階で動いてみることにする。



8.12.2017

ノーマ・フィッシャーのBBC放送録音のアルバムプロジェクトがスタートした。FBを通じてアナウンスしたところ、エドゥアルド・クンツ、フレンチェス コ・リベッタといった現役ピアニスト、エーテス・オルガといった批評家、ニムロッド・ボレンシュタインといった作曲家から多くの反響があった。世界的な名 教師ということで、彼女の業界知名度は実は高い。アルバムには日本語対訳をつけて、日本でもリリースしたいと考えている。

1) Brahms: Variations on an Original Theme Op 21 No 1
2) Brahms: Variations on a Hungarian Song, Op.21 No 2
3) Scriabin: Etude Op. 42 No. 1
4) Scriabin: Etude Op. 42 No. 4
5) Scriabin: Etude Op. 42 No. 5
6) Scriabin: Etude Op. 42 No. 8
7) Scriabin: Piano Sonata No 1

Sleevenote: Bryce Morrison
Photo: Richard Kalina
Remastering: Andrew J. Holdsworth&Tomo Sawado

現在、BBCとライセンス契約の話し合いをしており、それが済み次第リマスタリングに入る予定。


老舗の音楽レビューサイトで、私もフルトヴェングラー盤の評価などを古くから読ませてもらっている加藤幸弘氏のページにニレジハージの センチュリー・クラブ・リサイタルのアルバムのレビューが掲載されている。いつも通り、しっかり背景を調べられた上で評が書かれている。

http://classicalcd.la.coocan.jp/cdreviews/2017-2/20170812010.htm




8.5.2017

アンジェロのダンテ・アルバムの評が英グラモフォン誌に掲載されず、英インターナショナル・ピアノに回った経緯をブライス・モリソンから直接聞いた。す でに一度アンジェロから経緯を聞いてはいたのだが、要は今の英グラモフォンにおいては、Sonettoのような弱小レーベルのアルバムをとりあげない、と いう明確なポリ シーがあるらしいこと。内容がいくら素晴らしくとも関係ない。アルバムを非常に高く評価するブライスはこのことに憤激し、上層部二人に掛け合ったそうだ が、「無名レーベルだから」とけんもほろろの対応だったらしい。無名なのは当たり前だ。第一作目だったのだから。

英グラモフォンの判断はビジネスの論理としては正しい。明らかに広告料を出せそうにない会社に色目を使っても彼らには一文の儲けにはならない。その意味で は、国内盤でさえあればレビューするレコ芸がいかに良心 的かわかるというもの(中には、これ絶対に聴いていないなあ、という内容の無い評もあるけれど)。さらに英インターナショナルピアノ。将来はわからないが 今は広告掲載の意志は無い、とこちらがはっきり言ったのにも関わらず、アルバムを取り上げてくれた。本来、レコード 雑誌はどこもそうあるべきと思うのだが、それはこちらの勝手な考えでしかない。長年、この業界を生き延びてきた英グラモフォンには、商売におけるそれ相応 のしたたかさがある、ということだと思う。

それに加えて、ガラスの天井、ではないが、英グラモフォンが何十年もやってきた異常な英国贔屓、というかお仲間贔屓を見ていると、ビジネス面以外 にもクリアしなければならな いものがあるのを感じる。こちらが数年かけて作った程度の個人ネットワークでは太刀打ちできない壁だ。別に邪魔をされているわけではないし、個人の発信 ツールや強固な 日本市場がバックにある以上、彼らに近づく意味を感じないし、その興味もない(少し前のことだが、彼らのFBのメッセージ欄に露骨な英国バイアスを指摘し たこともある)。カフカの「城」の主人公の道を選ぶより、こちらは自分の仕事を少しでも良いものにすることに集中するだけだ。



8.4.2017


今日、ロンドン市内でブライス・モリソンと昼飯。彼はハロルド・C・ショーンバーグ以降では代表的なピアノ音楽の批評家。彼と会うのは実は二度目で、その 時はこちらを怒鳴りつけるようにして去っていく、ということがあった。その時のことを忘れたように笑顔で挨拶。後の会話も友好的だった。ニレジハージのア ルバムとケヴィンのサイン本を渡したら喜んでいた。彼は英グラモフォンにニレジハージのVAI盤について好意的な評価を書いている。

彼は生前のリヒテル、ボレ、ホロヴィッツ、アンダをはじめとする数多のピアニスト達と親交があり、彼らに関するいろいろな話を聞いた。リヒテルは相当な変 人、というか躁鬱気質だったらしいこともわかった。ヴィラーニのダンテ・アルバムについては、「偉大なアルバム!」。

会った理由はSonettoの次作であるノーマ・フィッシャーのアルバムのライナーノーツの依頼。「ノーマとは大昔から友人。彼女のスクリャービン第一と シューマンのト短調ソナタをライブで聴いたよ。巨大な演奏で本当に素晴らしいピアニストだと思った」。喜んで引き受けるとのこと。細かい条件等はまた改め て話し合わねばならないが、ブライスで行くと思う。




7.15.2017

Sonetto Classicsの公式ページにニレジハー ジ・アーカイブのページを加えた。以下が和訳。
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Sonetto Classicsは ハンガリーの作曲家兼ピアニストのアーヴィン・ニレジハージに関する世界最大のアーカイブを保有している。アーカイブの主要部はニレジハージ家より派生し ており、さらに旧高崎芸術短期大学のアーカイブと組み合わされている。澤渡朋之の個人コレクション及びニレジハージの親友であったリカルド・エルナンデス から澤渡に送られたマスターテープもアーカイブの一部とみなすことができる。

ニレジハージの個人アーカイブは彼の死後1990年代に旧高崎芸術短期大学に寄贈された。だが、アーカイブの内容はその後大衆に明かされることがなかった。ケヴィン・ バザーナと澤渡は共同して旧高崎芸術短期大学にアーカイブの公開を幾度と無く呼びかけたが失敗に終わった。

2012年に旧高崎芸術短期大学は経営困難に陥り閉鎖され、アーカイブは債権者によって差し押さえられた。アーカイブの所有 権の移管を巡る交渉が2013年に始まり、Sonetto Classicsが2016年にアーカイブの所有権を獲得した。

膨大なコレクションはニレジハージの個人アーカイブと旧高崎芸術短期大学プ ロデュースの未発表の素材が含まれている。100を超えるリール・テープ(多くのマスターテープを含む)、ドキュメンタリーフィルム、2000を超える楽 曲の楽譜、数百の写真、手紙、冊子、直筆譜などである。アーカイブ由来の素材を用いたソネットの最初のプロジェクト、ニレジハージ・ライブ、vol. 1: センチュリー・クラブ・オブ・カリフォルニア, 1972は彼の30回目の命日である2017年4月8日にリリースとなった。

Sonetto Classicsはケヴィン・バザーナ、およびニレジハージ家を代表するオランダの国際ニレジハージ財団の パートナーである。

Sonetto Classicsはアーカイブ由来の素材をリリースするための援助を歓迎しています。我々のニレジハージ・プ ロジェクトに寄付をされたい方は、info@sonettocoassics.comまでご一報を。寄付の返礼としてアーカイブの一部をシェアいたしま す。





7.9.2017

すっかり忘れていたのだが、fugue.usを立ち上げて2017年2月で10周年が経過した。

fugue.usはもともと、「忘れられた演奏家や作品」を共通テーマとするサイトとして開始した。fugue.usという名前には「同じテーマで大きく 発展していくサイト」、という意味も込められている。きっかけは 2004年にニレジハージのカーネギーホール・デビューの広告を購入したこと。そこからケヴィン・バザーナとの出会いが始まり、このサイトの設立に繋がっ た。

実 際、個人レベルでは大きな発展を遂げていると思う。このサイトから生まれた人的ネットワークを通じて春秋社に企画を持ち込み、2010年の「失われた天 才」の 出版が生まれている。2009年から、やはりサイトの読者を通じてロンドンでのネットワークが大きく広がっていった。アンジェロ・ヴィラーニと出会っ たのもこの頃である。ヴィラーニ自身豊富なネットワークの持ち主で、彼や彼の友人、そのまた友人を通じてロンドンの重要人物達と知己を深めていった。 2015年には自身のレーベルであるSonetto Classicsを立ち上げた。2016年には2004年から追ってきた高崎のニレジハージ・アーカイヴも入手。今後数年間の活動の骨格も固まっている。

このサイトがなければ、私は今でも音楽好きの一幹細胞研究者としてどこかの大学か研究所にいたと思う。今はロンドン大学の研究チームをたたんで、メディカ ル・ライティングの仕事をしつつ、音楽プロデュース業に携わり、映像制作、写真、デザインなどにも関わっている。私の人生を変えたサイトと言える。

FTPサーバー経由でhtmlファイルをアップロードする必要があるため、通常のブログと違って余計な手間がかかる。そのこともあって、最近は手軽に更新 できるツイッターFBの方に書き込むことが多い。ヴィラーニサイトやSonetto Classicsのサイトの維持もあり、更新頻度は減っている。しかしこのサイトは私には一番大切なプラットフォームであり続けている。常に一番重要なこ と、字数を尽く して語りたいことはSNSではなく、ここに書くようにしている。私が死んだらサーバーとの契約が切れた段階で内容は全て消されるだろうが、生きている限り はこのまま続けていくだろう。今後ともよろしくお願いいたします。




6.4.2017

アンジェロ・ヴィラーニ・プレイズ・ダンテ・インフェルノ」のコンセプトの着想・発展について書いてみようと 思う。

アルバム・コンセプトは、アルバムのクレジットにもあるように、私が数年前に考えた。きっかけは2013年暮れだと思うが、アンジェロの誕生日の際にワイ ン・バーで、「フランクのアルバムを作りたいのでプロデューサーをしてくれ」と依頼してきたことだった。その時まだロンドン大の科学者だった私にプロ デュースの依頼が来たのは、私がフランクの音楽に明るく、他で入手できない珍しい楽譜を持っている、という理由だった。当時、アンジェロはアルバムをモチ ベーションを保つ意 味で作りたいと思っていて、アルバムを市販するところまでは具体的には考えていなかっ たと思う。

実際にフランク・アルバムの楽曲の選定は行い、彼も数ヶ月編曲・練習に取り組んだ。だが、その後、フランク作品集よりもアンジェロの特徴を生か したユニークなプログラムの方が良いのではないか、と考えるようになった。そこで、「ダンテ・ソナタ」と彼が2012年にBBCで弾いた「トリスタンとイゾルデの回想(コンサート・パラフレーズ)」を組合せ、生誕750周年を迎えようとするダン テ・アリギエーリの傑作である「神曲」のコンセプト・アルバムをつくろう、と思いたった。ただ、彼が一時期本気で引退を決意したこともあり、そこから彼 がアルバム制作に合意するまでは1-2年かかった。

当初の私のアイデアでは、「神曲」地獄編をテーマとし、ヘンデルの「ジュリアス・シーザー」からクレオパトラのアリア一曲、パーセルのディドーの嘆き、トリスタンとイゾ ルデのためのパラフレーズ、リストのダンテ・ソナタ、フォン・ビューローのダンテ・ソネット、チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」、 というものだった。「フランチェスカ」はクリンドヴォルトの編曲版を渡し、ヘンデルパーセルに関してはピア ノ・ヴォーカル・スコアなどを渡した。

ところが、「バロックは自分のスタイルに合わない」とアンジェロがヘンデルに興味を示さず、パーセルについても同様の冷淡な反応。ただ、パーセルについて は「大衆にとってのアルバムへの入り 口として必要だから、これだけは考えてみてくれ」としつこく説得した。あのメロディが大衆にアピールする例として、ジェフ・バックリーの歌った録音も送っ た。彼は 私のリクエストに応えて、セッションの1月ほど前に、「こんなもんでいいだろ?」と弾いて聴かせてくれた。当初気乗りもせず、編曲も「トリスタン」の片手 間仕事だったが、彼は今ではすっかり気に入ってしまい、録音以降の公開演奏ではパーセルを抜かしたことは一度もない。

「フランチェスカ」は「大好きな曲。やってみたい」と当初から俄然興味を示していたが、アンジェロがいざ編曲にとりかかると大きな困難に直面した。クリン トヴォルトの編曲にも不満。なかなか進展しないので、彼の重荷を減らすためにプログラムから外すこととした。この作品、音 楽的にもテーマ的にも「ダンテ・ソナタ」と重なるため、外してもコンセプト的にも大きな影響がないと考えた。代わりにヴェルギリウスに関係するリストの 「Sunt Lacrimae」を入れることにした。

「ダンテ・ソネット」はビューロー&リストによる楽譜があった。だが、ヴィラーニは中間部のブリッジを書き変えたい、とセッションの直前になって言い始め た。 「ビューローの展開は平凡だ。もっといいやり方がある」。一方で和声が新しくなりすぎてはいけないため、かなり悩んでいたが、最終的には新しいメロディ と和声を持つ新ブリッジが出来上がった。和声展開には私のアイデアも少し入っている。

私は当初、アルバムにはアンジェロが作った「トリスタンとイゾルデの回想(コンサート・パラフレーズを 入れるつもりだった。非常に優れた編曲・演奏であり、アンジェロのピアニストとしての力量を発揮できる曲だったからだ。だが、アンジェロは第二幕の二重唱 を中心とした全く新しい編曲をアルバムのために作りたがった。理由は「「トリスタンとイゾルデの回想(コンサート・パラフレーズ第二幕の愛の二重 唱のつもりで書いたのに、皆、第三幕の「愛の死」の編曲だと思っている」というものだった。実際、私にも「愛の死」に聴こえたのだが、本人はそのことが不 本意だったらしい。

私は新編曲は折にふれてチェックさせてもらい、いくつかコメントはしたものの、編 曲自体には関わっていないし、曲の構成も100%アンジェロのアイデア。ただ、題名「トリスタン・ファンタジー」は私のアイデアで、これはダンテのイン フェルノで言及されるのがトリスタンのみということと、私が「トリスタンとイゾルデ」の真の主人公はトリスタン、と常々思っていたことによる。

「ダンテ・ソナタ」は彼がもっとも苦労したトラックだった。既にレパートリーに入っていたので苦労しないだろうと思っていたが、当時彼は長期のブランク、 右手の不 調、録音への精神的プレッシャーが重なり、なかなか仕上がってこなかった。3日前で8割程度の出来だったと思う。私が彼に頼んだのは、遅いテンポで大き な振りでやってほしい、ということ。2011年のライブ録音よりも「もっとカブキ風にやってくれ」とも言った。アンジェロはセッションに入ってからも苦労 していたし、一緒 に働いたエンジニアも焦れていたが、最終的にはうまくいった。彼が自身への怒りのあまりに手袋を外し、感情を叩きつけるように弾いた7番目と、続く8番目 のトラックが骨 格となった。



5.30.2017


レコード芸術誌6月号月評にニレジハージのCD評が出ている。二人の評者とも準推薦。演奏内容の特異性から特選は無いだろうと思っていたので、ほぼ予想通 り。録音は「爛熟期のアナログ録音」「リアリティ満点」と高い評価。

読売新聞18日付け夕刊、サウンズbox欄でも評が出ていたらしい。「19世紀のロマン派ピアニズムの香り」とのコメント。



5.27.2017

昨晩、パヴェル・コレスニコフのコンサートがウィグモアであった。インプレションはこちら。




5.19.2017

二ヶ月ぶりに英国に戻ってきた。アパートに着いたらオランダの国際ニレジハージ財団のマティアス・スミット氏と、ニレジハージの親友だったリカルド・ヘル ナンデス氏より手紙が届いていた。ヘルナンデス氏はニレジハージのセンチュリー・クラブのリサイタルの主宰者でもある。

いずれもCDリリースのお礼で、スミット氏は「ソネットのリリース、全ての箇所が最高のスタンダードにある!」と書き、ジャケット、ノート、デザインなど について賛辞をくれた。ヘルナンデス氏の方は、自身がかつて関わったリサイタルのCD化ということで、まさか今こういう形でリリースされるとは、という驚 きと感慨があったようだ。手書きの筆致から興奮と感動が伝わってきた。数週間前にはニレジハージを再び見出したグレゴール・ベンコーからもCDについて賛 辞のメールが来ている(彼は一緒に送ったアンジェロのダンテ・アルバムにも感銘を受けたらしい)。

ニレジハージと一緒に働いた人々が喜んでくれたこと、評価してくれたことはとても重要だ。菅原文太氏、ドリス夫人、アントニオーリ氏のように聴かせたい人 で亡くなってしまった人もいるけれど。スミット氏も「アーヴィンも、彼を知る全て人が喜ぶだろうと確信している」と書いてくれた。

日本を去る前に、JK artsの木下淳氏に誘われてディヌ・リパッティに関する研究で知られるマーク・エインリーと新宿で会った。マークの本職は風水のコンサルタントで、日本 には年に二度ほど来ている。彼とは数年前にロンドンで一回会ってから、定期的にリパッティやアンジェロのことでメッセージのやり取りをしている。 Sonettoの二枚のアルバムはいずれも、彼のフェイスブックページで紹介してもらっているし、彼は以前からアンジェロを高く評価している。

マークが発見したリパッティの録音を二つ聴かせてもらった。詳細は書かないが、この録音はマーストン・レーベルから来年出るはずなので、じきに細部は明ら かになるだろう。その中に録音レパートリーに無い曲が二つあって、そのうち一つはリパッティのイメージを変えるような意欲的な表現だ。「次、何か見つけた らマーストンじゃなくてSonetto Classicsに回してくれ」ーー「ああ、マーストンより君は仕事が速いからね」。冗談まじりのやりとりだが、表 情を見るかぎりでは脈はありそうだ。

後半から、いつもお世話になっている横山ファミリーのお二人が合流し、そこからは風水のお話で夜が更けた。




5.15.2017

(拡散ください)

ロンドン・マスタークラスは英国を代表するピアニストであるノーマ・フィッシャー(王立音楽大学教授)が主催する若手演奏家のための音楽サマーコースで、 パヴェル・コレスニコフ、アンナ・フェドロヴァなど、数多くの若手スターを輩出したマスタークラスとして知られています。

今年は7月16−23日にマンチェスターで開催されます。ベンジャミン・ザンダー、ジョルジ・パウクといった録音でおなじみの巨匠演奏家が数人の受講生達 をしっかり指導します。私は昨年、ドキュメンタリーの撮影を行い、コースのレベルの高さに印象付けられました。また、マスタークラスを通じて世界中から集 まってくる多くの若手演奏家達と知り合いになることができました。

2016年のマスタークラスの様子が以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=HJL5Xh9HWGY

現在、ヴァイオリンのクラス(講師ジョルジ・パウク)とチェロのクラス(講師ハンナ・ロバーツ)にまだ空きがあります。もし興味のある方、下記よりご応募 ください。締め切りは5・20です。
http://www.londonmasterclasses.com



4.25.2017

CDの感想が少しずつ届いている。

予想したとおり反応が二手にわかれている。「25年でこれほど楽しんだCDも無い」という反応もあれば、「どこが良いか全く理解できない。ショッキング」 という反応もある。きちんと向き合った上の感想であれば、私はネガティブな反応も尊重するし、実際に理解もできる。私自身がそこを通ってきたから。

以前(7.29.2016)もここに書いたことがあるが、私自身はニレジハージの演奏とシンクロする方が少ない。私は彼の崇拝者の一人ではない。ニレジ ハージにシンクロしているのは アンジェロ・ヴィラーニである。私に関しては、正直、ニレジハージの録音の8-9割方は無理だし、多すぎるミスタッチやデフォルメについていけない。彼は 私と は違う惑星の住人だ。そしてアンジェロは二つの違う惑星の間に浮遊している。

ただし、残りの1-2割の録音で、ニレジハージはこちらの音楽観を根底から覆すような衝撃を与えることがある。リストの「二つの伝説」やハンガリアン狂詩 曲、ドビュッシーの「塔」、そし てブラームスの第三ソナタの第二楽章がその例だ。この「晴天の霹靂」があるが故に、ニレジハージは私にとって看過できないピアニストになっているし、表現 主 義、ロマン派ピアニズムの研究対象として興味の尽きないピアニストなのである。そして彼が真摯な、本当の意味での芸術家であったことについては、いささか の疑いも持っていない。彼の芸術については既にサ イト内に書いた

実は晩年のニレジハージについて最も優れた文章を残しているのが、ピアニストのアントン・クェルティかもしれない。彼は2007年3月7日のGlobe Mail紙に以下の文を寄稿している。一部はこのサイトで紹介している。

「彼の芸術を判断するのは容易でない。というのも、残された録音は彼の最後の歲月 になされたものだからだ。そういったもののいくつかは、ほとんどのピアニストであれば演奏を拒否するようなひどい調律のピアノを使ったホームコンサートか らの実況録音だ。演奏も王立学院の試験を通らないものである。間違った音ばかりで、ミスなしに小節がすぎることさえほとんどない。楽譜を全く尊重せず、オ クターブは付け加えられ、和声は変えられ、ある箇所は繰り返される一方で別の箇所は省略され、テンポは唐突に変更される。ほとんど全ての和音は「パデレフ スキ化」されており、両手が一致することさえない。もちろん、再テイクはない。一度弾いただけで彼は満足してしまうのである。

しかしながら.....議論の余地なくここには何かがある。壮大な音楽的信念と焼 け付くような表現意欲だ。もし人が森を見、そして朽ち果てた樹々を無視できるのであれば、彼らは持続するフレーズ、霊感に満ちた旋律の形成、 そして戦慄を伴うイメージを励起させる、圧倒されるような響きを持つ音楽に引き込まれざるを得なくなるだろう」


必要にして十分、 簡潔かつ見事な筆致でニレジハージの晩年様式を語っている。これに付け加えることは何もないと思う。

4.23.2017

フルトヴェングラー録音の音質比較や新盤のレビューなどで知られている加藤幸宏氏のHPでニレジハージのアルバムが紹介されている。

5月中旬まで東京にある某レンタル・オフィスの一室で働いている。オフィスのあるフロアで四六時中クラシック音楽がBGMとしてかかっている。音楽がかか ること自体は構わないのだけれど、数時間を一セットとして一日に何度も同じセットがリピートし、しかもこの一カ月、全く変化がないのである。シューマンの ピアノ協奏曲や謝肉祭、K550、ベートーヴェンの第三協奏曲、ヘンデルのハレルヤ、クロイツェル・ソナタなどが一日何度もリピートする。何十回も同じ録 音を聴かされると、演奏 のピッチの甘さとか、どうしてK550のここでゲネラル・パウゼが入るの、などと細かいところまで気になってきて仕事に集中できない。どうやら、クリスマ スの時期以外は、全く同じ曲のセットが延々とリピートされるという。音楽をBGMとして聴くことができない人間にとっては拷問に近い。

先週、さすがにレンタル・オフィス所属の秘書さんと話した。難しいことを頼んだのではなく、「たまには曲を変えてくれないか」と言っ ただけ。当初は「チェーンで都内全域で使われている音楽なのでちょっと....」との返事だったが、重ねて、いかに同じ曲を聴き続けることが苦痛である か、を強調してお願いしたところ要望が通り、私のいるビルだけは彼ら手持 ちのCDに変えてくれるとのこと。ピアノかオーケストラであればSonettoのCDでも良いとのことなので、来週からアンジェロ・ヴィラーニやニレジ ハージの録音がフロアに流れるかもしれない。とは言え、自分のつくったCDだろうがなかろうが、何度も繰り返して聴きたくない、という点は変わらない。も ちろん、「ダンテ・ソナタ」のような強烈な曲は抜くつもり。



4.14.2017

「ニレジハージ・ ライヴ, vol. 1: センチュリー・クラブ・カリフォルニア、1972」、タワレコ新宿店、渋谷店に店頭在庫が入っているらしい。



4.8.2017

さて、今日はニレジハージの30回目の命日、つまり「ニレジハージ・ライヴ, vol. 1: センチュリー・クラブ・カリフォルニア、1972」の全世界同時発売日である。日本はアマゾン、hmv,タワレコ等、そして各国Amazonから入手でき るが、日本・中国以外のリスナーへは基本的に英国amazonを推奨。中国大陸のリスナーはこちらから入手できる。

購入先の詳しいリストはこちら。



4.7.2017

父が昨晩永眠した。85歳。

私がニレジハージに出会うきっかけを作ったのは父である。10歳になるかならないかの頃だと思うが、父がNyiregyhazi Plays Liszt (Desmar)を持っていて、それを何かの折に聴いた。白黒の顔もはっきりしないジャケットに神秘的な印象を持った。

当時の父の説明によればそのアルバムは「”ニアレジハージ”というピアニスト」によるもので、「若い頃はカーネギーホールの大スターだった」のにも関わら ず、落ちぶれて70歳になるまで地下鉄の駅で寝る暮らしをしていた、という話だった。「頭がちょっとおかしい」「変人」と言っていたと思う。たまたまカ セットテープによって数十年ぶりの演奏会が録音され、それがレコードになったとの説明も受けた。父の説明は今から思えば若干不正確だったが、その異様な話 と、リストの「二つの伝説」の「波間」の怒 涛のような演奏、それ以上に車の走る音が記録されている劣悪な録音に子供心に強い興味を持った。「波間」を何度もかけて聴いた し、あのアルバムでは「波間」しか聴かなかったかもしれない。その後、ブレンデルの日向ぼっこのように呑気な「波間」の演奏を聴く機 会があり、いかにニレジハージの解釈が異常かつ特別なものであるかがわかった。

まだ小学生だったが、既にクラシック音楽は幅広く聴いていた。フランツ・リストという作曲家を「派手なだけで中身がない」と生意気にも小馬鹿にしていたと ころがあっ た。だが、ニレジハージのリスト演奏にはどの演奏家からも聴けないような悪魔的な迫力と深みがあって、私の中のリストへの視点を改めさせるに十分なものが あっ た。

時が流れ、2004年頃から、バザーナのニレジハージ・プロジェクト「Lost Genius」に深く関わるようになっていった。父はサイエンティストであったこともあり、私が本職のサイエンスで結果を出している事に喜びを見出してい たため、父とニレジハージについて話すことは一度もなかった。もしかしたら、私がニレジハージ・プロジェクトをやっていたこともあまりよく認識していな かった かもしれない。そのうちに父の認知症状が始まり、ますますニレジハージについて説明する機会を失した。お互い口数が少ないこともあったし、もともと会 話の豊富な親子ではなかった。

2015年にサイエンスから足を洗い、Sonetto Classics レーベルをロンドンで開始した。ニレジハージのアルバム制作をする計画が持ち上がったのが2015年の秋頃。その時から、Desmar盤の「二つの伝説」 の元となったオールド・ファースト・チャーチの演奏会を収めたアルバムを作って父に捧げようと考えていたが、高崎のアーカイブの入手で予定が変わってセン チュリー・クラ ブ・リサイタルのアルバムが最初になった。父の認知症状の急激な進行もあって、何はともあれその三部作第一作目を父に捧げることにした。

「Nyiregyházi Live, Vol. 1: The Century Club of California, 1972」のCD冊子の最後のページにある、Eikichiというのは父の名である。CDが完成したのが2月中旬で、送ったCDが日本に到着したのは3月 上旬。母の話では、もはや父の認知能力は献辞の意味を理解 できる状態ではなくなってい たようだが、母が父にCDをかけ献辞があることの説明はしたようだ。亡くなる前にブラームスの第三ソナタの第二楽章を聴かせようと思っていたのだが、自宅 でその準備を している間に病院で息をひきとった。

私にとって、このアルバムは二重の意味で追悼盤となった。ニレジハージと父と。ニレジハージの命日である明日8日に、父の亡骸に聴かせようと思っている。



3.31.2017

現在東京に滞在中。5月中旬までこちらにいる予定。

ニレ ジハージ・ライヴ Vol. 1: センチュリー・クラブ・オブ・カリフォルニア」日本盤がHMV.co.jp, Amazon, タワレコ山野楽器などのオンライン・サイトから予約可能になっている。リリース日4/8は彼の命日である。

繰り返すが、Wikipediaにある命日の情報は誤りなので注意。

この二枚組CDについては何度も述べているけれども、ショップの宣伝等の参考になれば、ともう一度ポイントを纏めておこうと思う。


3.19.2017


昨晩はロンドン・マスタークラスで指揮を担当したベン・ザンダー指揮フィルハーモニアの第九の演奏会があった。速い速い速い!仰天させられた。インプレッ ションはこちら



3.2.2017

録音史上最大の捏 造として有名なジョイス・ハットー事件から10年が経った。

2000年頃から発売されたジョイス・ハットー名義のCDが英国の音楽業界で大変な話題を呼び、グラモフォン誌などが彼女についての特集を組み始めた。英 国を代表する批評家のブライス・モリソンや、フィリップスの「20世紀の偉大なピアニストシリーズ」を手がけたプロデューサーのトム・ディーコンなどが口を極めて ハットーの 録音を絶賛、ハットーは一躍、「英国史上もっとも偉大なピアニスト」として認識されるようになった。

ところが、これが全てまがいものだったのである。きっかけは、とあるファンがipodでハットーのCD由来のトラックを聴こうとしたところ、ラズロ・シモ ンという未知の ピアニストの名がデータベースにヒットしてきたのだ。彼は批評家のジェド・ディスラーに連絡、ジェドが調査したところ、ハットーの録音とシモンの録音は全 く同 一であることがわかった。それだけでなく、ハットーの名で発売された数十の録音が全て他のピアニストの録音をそのまま使用したり、あるいはデジタル処理で 速度調整を行うなどして手を加えられていたことがわかったのである。闘病中だったハットー本人はおそらくこの捏造に感知しておらず(2006年に死 去)、やったのはプロデューサーであった彼女の夫であると広く信じられている。

恥ずかしいのが当時の業界人たちだ。例えば、ブライス・モリソンはブロンフマンを常々貶していたのにもかかわらず、ハットー名義のブロンフマンの録音を絶 賛している。トム・ディーコンは日本人ピアニストYuki Matsuzawaによるエチュード集にはほとんど人種差別的ともとれる極めて侮蔑的なコメントを投げつけたが、全く同一録音のハットー名義のCDには熱 に浮かされたような言葉で大絶賛している。彼らは被害者であると同時に加害者なのだ。

二人についてはあまり愉快でない思い出がある。

ニレジハージの「黒鍵」エチュードの録音を紹介した際、元の録音のピッチが半音低かったため、FBにピッチ未修正版と修正版を掲載した。録音というのは ピッチを上方修正すると、当然ながら再生 速度も上がる。ところが藪から棒に、「バカ!速度を変えずにピッチを上げる方法を知らんのか?」と、書き込んできたのがトム・ディーコンだった。最初、冗 談で書いてい る のだと思ったのだが周囲の人間に念のために確認すると、彼の発言は英国式ジョークでもなんでもなく、ただの無礼なのだという。また、彼はトンデモ発言をす ることで有名らし く、昨今は著名なネット荒らしとして様々なサイトから出禁を食らっているのだそうだ。実際、放っておいたら「バカはお前の方だ」と応答した別の書き手と大 喧嘩をし、勝手に悪態をついて出て行った。彼のナンセンスな書き込みは本人 の名誉にならないだけのシロモノなので、そのままずっと残すことにしている。

ブライスについては、2015年に企画したシーヤン・ウォンのリサイタルに彼を招待したことがある。休憩時、老婦人と立ち話していた彼に歩み寄って自己紹 介し、オーガナイザーとして演奏の感想を訊ねた。すると、彼はなぜか憤然として、「ノー!ワシはコメントはしない。ずーっとな!」と私を怒鳴りつけるよう にして立 ち去ってしまった(会話を聞いていた老婦人はびっくりした顔で「極端ねえ!」と私に言ったのだが、ずっとあとになってその老婦人が実はノーマ・フィッ シャー だったことがわかる)。その時は、ブライスの言葉も変だと思ったし、彼の反応も極端でわけがわからなかった。

今になって気づいたのだが、もしかしたらブラ イスは私が「What did you think?」と訊いた時、「What」を「Hatto」と聞き間違えたのではないだろうか。そうであれば、なぜブライスがあれほど極端な反応をしたかの 説明がつく。自身の評価を下げた「Hatto」の響きに条件反射的に過剰反応してしまったのかもしれない。

こういう経緯はあったが、ブライスに特に悪感情は抱いていない。言説に中身がない
ディーコンと異なり、批評家 としての彼の力量や経歴は尊敬しているし、何よりアンジェロ・ヴィラーニのダンテ・アルバム に五つ星をくれたので。いつか、あの反応の理由を訊く機会もあるだろう。

この話をFacebookで書いていたら、知人で英語版Fugue.usの読者であるAが、「私がハットーの夫を説得してハットーの録音を売り込むように 言った。そしてたまたま、親しい友人がグラモフォン誌の編集者となったので、私がハットーを取り上げるように強く説得したんだ」「もっと気をつけるべき だった」と書き込んでき た。さらに書くと、捏造を最初に見抜いたジェド・ディスラーは私とTwitterでフォローしあっており、かつてはFBのニレジハージフォーラムにも参加 していた。何気にハットー 事件に関わった人が周囲にいる。探せばもっと出てくるだろう。ロンドンは本当に狭い。




2.28.2017

Facebook等で既に紹介したが、CDが早々と17日に到着し、関係者や資金提供者に向けての発送も完了した。日本代理店JPTにも送り、中国の業者 にも週末に送る予定。4月8日、日本を含めた全世界同時発売もありうる。

数日前にそういったCDがぼちぼち到着し始めたようで、少しずつ感想が私のところに寄せられている。今のところ評判はとても良い。デンマークで演奏 論に関する講義を行っている音楽家・研究者がいる。彼が自身の講義でCDのブラームスのソナタの第二楽章をかけたらしい。教室は驚きで水 を打ったように静まり返ったそうだ。

個人的にも、カ バーデザインから写真の選定、リマスタリング、レイアウトに至るまで、自分の意図が細部まで100%徹底できた初めてのCD。後で思い入 れが出てくるかもしれない。

以下はCDのプロモ映像。







2.12.2017

Sonetto Classicsとアルバム制作の話し合いをしているピアニストがギリシャのコンクールで優勝した。

出た以上、優勝しないよりはした方が良いし、彼ほどの技術の持ち主ならどのコンクールでも優勝する可能 性があるから驚きはない。だが、現実問題としてコンクールが登竜門である時代は既に終 わっていて、この優勝がどれだけ彼のキャリアアップになるかは微妙だ。例えばリーズ国際コンクール。かつてはルプーを輩出した、世界でも五指、少なくとも 十指に入るステイタスの高いコンクールだ。しかし、直近の優勝者、前回の優勝者の名を誰が覚えているだろうか。もっと言うと、80年代以降のリーズの優勝 者は名声の上では小粒だし、90年代以降となると優勝者で名を成したピアニストがいない。もはやコンクールが出世の手段として機能していないのである。

その理由はいくつかあるが、まず、コンクールが技術偏重の審査システムを取っていることだ。加えて、審査委員の大半から支持されやすい、「可もなく不可も ない」 最大公約数的なピアニストが勝ちやすい採点システムになっている。グールド、リヒテル、ホロヴィッツは現代のどのコンクールでも予選落ちする 可能性がある。

第二に、コンクール自体の数があまりに多すぎることが挙げられる。現在、リストの名を冠したコンクールでさえ世界に少なくとも5つある。「リスト・コン クール優勝者」と言われて も、こちらにはコンクールの主催された場所がパルマなのかワイマールなのか、ブダペストなのかアメリカなのかユトレヒトなのかわからない。しかも毎年のよ うに「リスト・コンクール」の優勝者が生 産されていくわけで、受け手としては有り難みがなくなる。ヴァン・クライバーン・コンクールの優勝者のスルタノフでさえ、優勝して数年後にはオファーが無 くなってコンクールをハシゴする生活に戻っていった。

第三の理由はコンクールの質の低下だ。昨年、ブゾーニ国際コンクールのスキャンダルがあった。著名なピアノのコンクールとは別団体による指揮コンクールの ことだが(これ自体、混乱に拍車をかけている)、1位無し、2位無しで3位以下にのみ賞金が支払われた。ところがコンクール直後、1位と2位の賞金を、審 査委員数 名に授与する内容のメモが流出したのである。主催者は「ただのジョーク」と弁明したが、流出したビデオ映像にあったコンクールの運営の様子は実に素人臭い も ので、メモの真偽を別にしても、それがまともなコンクールの体をなしていないものであることは明らかだった。

第四は 不正。以前も書いたが、かねてからチャイコフスキー国際コンクールでは不正が囁かれてきた。アンジェロ・ヴィラーニがエントリーした1990年のコンクー ルで は、韓国人ピアニストのHae-Jung Kimの親族が審査委員全員に1000ドルを贈ると同時に、モスクワ音楽院にもハンブルグ・スタインウェイを贈呈した。審査委員のうち二人がお金を突き返 したこと で、贈賄がコンクール中に発覚し、Kimは審査委員の総意で三次ラウンドには進めていない。また、これとは別にドレンスキー門下のとあるロシア人を勝たせ るように、 とある筋から猛烈な圧力がかけられていたという噂もある(コンクールはヴィルソラーゼ門下のベレゾフスキーが優勝)。1998年にも、優勝したマツーエフ の 演奏よりも3位に入ったフレディ・ケンプの演奏の方が明らかに優れていた、という非難が地元のメディアから聴衆から起こり、結果的に世界中のメディアか らチャイコフスキー・コンクールに疑いの目が向けられる結果となった。コンクール側は批判を受けて改革を行ってはいるが、ロシアン・スクールばかりが勝つ 傾向はなか なか変わってこない。

昨今では周囲の目も厳しくなっている。小さいコンクールはともかく、大きなコンクールでは審査委員席に座っている師匠が弟子に露骨に高い点を与えることが 出来なくなってはいる。だが、抜け穴もある。

一昨年か昨年に行われた、「非常に有名なコンクール」に参加したピアニストからコンクール直後に聞いた話だ。これはあまりに生々しいし、巨匠ピアニストが 関わっ ているので、細部は不正確にぼかしておく。知人はコンクールに参加したロシア人ピアニストと仲良くなった。その彼が言うには、審査委員のロシア人Yが彼の とこ ろにやってきて、「xxコンクールでは私の弟子がお前の師匠のWに勝たせてもらった。だから、今回は君に勝たせるよ」と耳打ちしてきたのだという。実際に はそのロシア人ピアニストは本番で大きなミスをしてしまい、優勝はならなかった。だが、普通に弾いていたらこの取引があったから優勝していただろう、との 話だ。YもWも実名のイニシャルとは関係がないが、非常に有名なピアニスト、教師たちである。

オリンピックのドーピングと同じで、皆が皆不正をやっているわけではない。コンクール優勝者 を腐すつもりもない。真面目にやってい る組織や審査委員も多い。だが、こういった背景があのシステムにはありうる、ということは皆知っておいた方がいいと思う。もっと言うと、アーティストはで きればコンクールに頼らずに自己発信してほしいと思う。ツールは昔よりもあるのだから。



1.30.2017

若くして激賞されながらも、その後消えたり、伸び悩んだピアニストが数多くいる。というより、年齢とともに良い形で成長していくピアニストの方がはるかに 少ないかもしれない。消えないにしても、「若い頃が良かった」と思えるピアニストは山ほどいる。だいぶ前の話になるが、かつて国際的なスターとして鳴らし たXもそうだった。Xは私の友人達と近しく、アンジェロも彼のコンサートに何度も行っていた。「素晴らしかった。あの年齢で一種の儚さというか、内省的で ポエティックなピアノを弾いていた」。

だが、Xはちやほやされて天狗になった。実際に別のソースからも、傲慢、との噂を聞いたことがある。スターになった後は、世話になった人々をおろそかに扱 い、私の友人達の助言にも耳を傾けなくなった。それとともに演奏も変わっていき、人気も下降していった。アンジェロ曰く、「心で弾かなくなっていた。変 わったことをやろうとして奇妙なアクセントを入れたりし始めた。例えば、グールドが出来るんなら自分も出来るんじゃないか、ってね。音楽を突き詰める作業 を端折って、安易な考えで弾くようになった」。Xと親しい友人が、彼の演奏の問題点を指摘したところ、その友人はその場でXに絶縁されたという。「個性」 を出そうとしておかしな演奏をし、賞賛を受けすぎて自信過剰になり、耳の痛いことを言う人を排除する。私自身もあるピアニストとの関わりの中で経験したこ とがある。

サイエンスの現場では率直な意見交換は当たり前だし、厳しい意見も個人的攻撃と取らない。そのように育ってきたので、私はピアニストに感想を求められた時 には思ったことを言うようにしていた。だが、絶対的な事実に立脚するサイエンスでうまく行くやり方が、絶対的な価値基準が曖昧な芸術でうまく行くとは限ら ない。「正直な意見を教えてくれ」とピアニストに頼まれても本心を言わずに適当に褒めておけ、と業界に詳しい人物からそう言われたことがある。

だが、 安易な絶賛やブームは、よほど自身を客観視できる演奏家で限り、才能を潰してしまう。例えば、バービカンセンターでのトリフォノフのリサイタルのレビューの 中に、「彼の名は今後何十年も、何世紀も記憶されるだろう」という絶賛の言葉があった。トリフォノフは悪いピアニストではないが、「何世紀も記憶に残るだ ろう」は、音楽のことを知らない人の言葉だ。こういう不適切で大袈裟な評価は批評家が単に歴史に名を残したいがための独善や自己宣伝でしかない。若手を持 ち上げ、勘違いをさせて潰し、次の若手にはしる、というサイクルは大概にしないといけない。自戒も含めて。

1.22.2017

リマスタリングが終了。もともとの音がリアルで情報量の多いものだったので、やることはそれほど無いと思っていたのだが、やってみたらそれなりにあった。 ワウ・フラッターを除去しようとしたのだが、ソフトがまだ完璧ではなく、ニレジハージのペダル解放の強烈なフォルテッシモを回転数異常と認識してピッチを 変えてしまうのである。これは不協和音成分のためだと思う。設定を変える(感度を下げる)ことで良い結果を得た。

オリジナルのテープには右チャネルにノイズが入っていたため、アンドルーがノイズ成分を取り出して除去を行った。また、ショパンのマズルカとブラームスの 間奏曲の2トラックに左チャネルに鑑賞に適さないほどの強烈な音揺れが入っていたため、右チャネルの音を左チャネルにダブしてモノラルとし、それからステ レオ部分との差を少なくする方向でアンドルーと相談しながら音を調整した。その前後のトラックにも若干の音揺れが残っているが、強度ではなかったため、モ ノラルにはせず、ステレオのままにおいた。最終的には満足のいく仕上がりになった。



1.21.2017

ダニル・トリフォノフを聴いた。音は綺麗だが.....。感想はこちら


1.12.2017

アルバ ムタイトル、表紙デザインが決定。こちら。フォントなどの微調整はプリントに回すまで続く予定。

Nyiregyházi Liveというタイトルに関しては、「クラシックらしくない。ストーンズのアルバムみたいだ」とケヴィン・バザーナに言われた(彼は "Nyiregyházi in concert”が良いと思っていた)が、私の意図はあえて非クラシック的にすることにあって、デザインやタイトルに60年代のジャズミュージシャンのラ イ ブ・アルバムが持っていた空気を反映させたいと思っていた。破天荒さと精神性を併せ持つ晩年のニレジハージの生演奏は、「イン・コンサート」という行儀の 良いイメージより、生々しくて活発なニュアンスのある「ライ ブ」とするほうが相応しいと思う。コルトレーンのアルバムがそうだったように。最終的にはケヴィンも納得してくれた。

明日からリマスタリングに入る。一日仕事を休んでワウ・フラッターの除去に集中するつもり。


1.6.2017

2年ほど前にホロコーストの犠牲者400万人の記録を集めたデータベースのことを書いた(2・4.2014)。ヨーロッパの図書館や役所などにある公文書 や収容所記録を集めて作られたデータベースで、2年前、ニレジハージの弟アルフレッドの名が見つかった、とケヴィン・バザーナが私に報告してきたのだっ た。その時は母親の名前は見つかっていなかったのだが、先日、ふとデータベースに戻ってサーチしてみたところ、母マリア・ニレジハージの名前が見つかっ た。ニレジハージを名誉のために利用し、おそらく性的にも虐待し、ニレジハージに「(殺したことを)ヒットラーに感謝したい」とまで言わしめた母親であ る。この記録で、ニレジハージの「母親はホロコーストで死んだ」という記憶が裏付けられたことになる。

http://yvng.yadvashem.org/index.html?language=en&s_lastName=Nyiregyhazi&s_firstName=&s_place=

2年前、同時に指揮者カレル・アンチェルのことも書いた。彼はホロコーストの生き残りで、妻と息子をアウシュヴィッツで殺されている。2年前は一歳半の息 子ヤンの殺害記録しかなかったが、先日調べたところ、アンチェルの妻ヴァレリー(10・16・1944アウシュヴィッツへ移送。ヤンと同日)の記録と共 に、父レオポルド(10・28・1944アウシュヴィッツへ移送)の記録もあった。レオポルドと同じ日に移送されたイダ・アンチェローヴァという女性の名 があるが、これはアンチェルの母親だろうか。いずれにせよ全員が殺された、とある。個人的には、「戦場のピアニスト」や「縞模様のパジャマの少年」のよう な、一定の聴衆に阿ってリアリティに欠けてしまう結果となった映画よりも、こういった無慈悲な数字からなるデータベースの方がホロコーストの悲惨さが胸に 来る。

http://yvng.yadvashem.org/index.html?language=en&s_lastName=Nyiregyhazi&s_firstName=&s_place=

ちなみに、アンチェルが生き延びたのは単なる偶然だった。アンチェルによれば、ガス室の前に並ばされた際、隣にたっていた作曲家のパヴェル・ハースが喘息 持ちで咳き込んだのである。それを見た「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレがハースとアンチェルを入れ替えた。ハースはそのままガス室に送られ、アンチェルは 生き延びたのだという。

友人が身代わりのような形で殺され、しかも息子を含む家族全員をガス室で殺されたのである。アンチェルは戦後、偉大な指揮者として活躍することとなるが、 どのような気持ちで残りの人生を生きたのだろう。



1.2.2017

日本より帰国。

日本に残していたアーカイブの一部を整理し、英国に発送した。いくつかの発見があった。
1)6作品の自筆譜原稿があった。おそらく全作品の自筆譜が高崎に寄贈されたのではないかと思われるが、私の手元にあるのは6作品以外は全てコピーのみで ある。アーカイブの書類にも自筆譜は「堀越学園に所属」とあるので、法的な所有権が移った以上、本来はソネットのアーカイブに含まれているべきものではな かったかと思う。

2)1938年のニレジハージの全身の写真。これはまだ見たことがなかった。CD冊子に収録する。
3)木之下晃氏撮影の写真が20点ほど。ここから一枚、世にまだ出ていないものをCD冊子に収録する。
4)「ドリアン・グレイの肖像」を始めとする2000作品のコピー。マイクロフィルムに収められていたものも含まれている。
5)ニレジハージによる手紙のオリジナル数点
6)会話を収録したテープやテンプル・チャーチにおける「月光」ソナタの録音などはなかった。
7)高崎の関係者による膨大な数の写真とネガ。幡野氏の写真のプリントも大量に見つかった。
8)高崎で制作された非売品の楽譜、冊子など。高崎短大は20作品ほど出版する努力はしていたらしく、音楽の友社と共同で印刷版の楽譜を制作していた形跡 がある。数作品のゲラ刷り、前書きなどを確認した。彼らは著作権は自筆譜を持つ堀越学園に属すると考えていたようだが、もちろん、著作権は自筆譜ではな く、作家(とその相続者)に帰属する。現段階では、故ドリス夫人の委託を受けてニレジハージの遺産を正式に管轄するオランダの国際ニレジハージ財団にあ る。そのことが後でわかったために、制作作業が中断されたのかもしれないと想像する。

ドリス夫人が旧高崎短大に著作権を移管しなかった理由は詳しくは知らない。ただ、ドリス夫人側に高崎短大の「日本人達」への強い不信感があり、オランダの 財団設立への動きにもつながったと財団の会長から聞いている。ただし、これは日本人への偏見ではなく、会長は「いずれ、別の"良い日本人"の手によって アーカイブは解放されるだろう」と、意気消沈するドリス夫人に言っていたのだそうだ。いずれにせよ、こういった経緯があったため、二団体が共同作業をする ことはなかったようだ。

2000作品の扱いについてだが、私が全ページをスキャンしてオンライン化するのは実質的に不可能だろう。私が出来るのは最初のページの写真をとり、それ をオンラインに載せ、リクエストがあった際に全ページを有料サービスでスキャン・メールすることだと思う。それでも作業が大変だ。いずれにせよ、現段階で はまだ無理なので、どうするかはおいおい考えていきたい。

(3)についてだが、これは著作権が発生するためにオンライン化できない(既にfugue.usでアップロードしたものについては掲載時に幡野氏の許可を 得ているが、そこからYoutubeなどに無断で次々と使われていったため、もう同じことはやりたくない。公開はせず、使用料を払ってCD冊子などで少し ずつ使っていこうと思う。

(8)については、プロジェクトの資金調達、例えば、クラウドファンディングのキャンペーンのリワードとして使っていくつもり。

CD冊子の方は最初の版が完成したところ。24ページという分厚いものになった。英語はMichael Glover、日本語は横山仁子さんと木下淳さんに校正をやってもらった。ワードからイラストレーターに移した段階でエラーが沢山出たので、それをこれか らケヴィン・バザーナと少しずつ直していく。まだタイトルで合意が出来ていない。私は60年代ジャズアルバム風のタイトル・体裁にしたいのだが、関係者の 間の投票で決めようと思う。

音源については、「ダンテ・アルバム」で一緒に働いたエンジニアのアンドリューに分析を依頼したところ、若干のフラッターがあるのでデジタル修正をしてお いたほうがいいとのこと。アンドリューはクラシックアルバムの経験は「ダンテ」だけだが、技術や耳は信頼しているし、仕事が一緒にやりやすい。私の手でフ ラッター修正を行ってからアンドリューが残りをやる、という方向でリマスタリングを進めることにした。フラッター修正のソフトの使用料が5日間で200ド ルもするので、これを機会に手持ちの音源を全てフラッター修正するつもり。