崩壊(1925-1957)





1929年頃のニレジハージ(26歳)。この頃、既に私生活は破綻していた。1929年の演奏会プログラムから。筆者蔵。

いくつかの証言によれば、この時期こそがニレジハージのピアニズムの ピークのようである。皮肉なことに、これは彼のキャリアの崩壊が起きた時期でもあり、彼の録音が、(条件の悪い断片を除き)未だ発見されていない謎の時期 にもあたる。後世の新聞記事や資料などに、この時期から約半世紀、一度も演奏会を開かずにスラム生活を送っていたような記述もあるが、これは正確ではな い。頻度は非常に少なく、かつてのような派手さもないものの、教会や小さなホールなどで演奏会は行っており、その時は良い評価、時に熱狂的な評判を呼ん だ。特に、1936年以降の数年は、年に数度のコンサートをこなしている。ただ、そういったリサイタルは単発的なことが多かったし、継続することはなかっ ため、前述のような伝説が広まったのは無理もない。

20代前半、トラブルからマネージャーを解雇したニレジハージは、すぐに壁につきあたった。「1925年頃が一番苦しかった」、とは晩年の彼の言葉であ る。彼は音楽の天才であったし、知性にも溢れた人物だったが、世渡りの才能の方は全くなく、しかも、かつての神童故か、プライドも異常に高かった。その一 方、私生活の無能力ぶりは、服のボタンさえまともにつけることができないほどだった。そのような人間が、生き馬の目を抜くような音楽ビジネスの世界でどん な目に合うかは見えている。すぐに小金を求めて安ホテルの酒場、刑務所などで演奏するようになり、客の間に金を集めるための帽子をまわしたという。数日間 ではあるが、地下鉄の駅や公園で眠ることもあった。以降の生涯の大半を売春婦やホームレスらの集うスラム街に住むようになる。これ以降、自分のピアノも 持っていなかったようである。これついて、ニレジハージ本人は後年のインタビューで、「指を動かせばピアノの音が聴こえるし、そっちのピアノの方が音がい いのです」、と話している。ただ、このことが後年、彼の技量の低下をもたらしたことは否定できない。

生活費であるが、数多くの情婦や妻(生涯に10度結婚)たちから得るか、公的年金を得ていた。しかし、時折、下請けのようなことをやって小金を稼いでもい た。1928年頃からは、ハリウッドで三流トーキーの音楽を弾いたり、ピアノを弾くアドルフ・マンジューやショパンの手の役などをやり、なんとか日々をし のいでいた。彼が映画会社ユナイテッド・アーティスツのオーディションを受けた時のエピソードが残っている。この時、オーディションを担当した指揮者のラ イゼンフェルドは、名前もろくに確認せずに、目の前のピアニストに初見で難曲を弾くように命じた。ピアニストが弾き始めると、その並外れた初見能力に指揮 者は驚き、「こんなことができるピアニストはただ一人....ニレジハージ!」、と叫んだという。ライゼンフェルドは、かつてニューヨークで聴いた、大ス ターの演奏をおぼえていたのだ。

1930年代半ば、カリフォルニアで、アーノルド・シェーンベルグがニレジハージの 実演に立ち会っている。シェーンベルクは当初気乗りがせず、最初はピアニストの友人に半ば強いられてニレジハージを聴いた。しかし、ニレジハージの演奏 は、前衛主義者シェーンベルグにさえ衝撃を与えた。シェーンベルグは、ニレジハージを表舞台に登場させるため、当時、ロス・フィルの常任指揮者の地位にい たオットー・クレンペラーの協力を得ようとするものの、何事にも厳格さを好むクレンペラーは、ニレジハージの自由で、楽譜さえ改変するようなスタイルが気 に入らず、不調に終わった。シェーンベルグはその後もニレジハージを舞台にあげようと運動したこともあったが、ニレジハージの私生活での悪評(性的放埒 さ、アルコール中毒)もあり、うまくいかなかった。しかし、二人の友情はシェーンベルグの死の直前まで続いた。

ピアニスト、レイモンド・ルーウェンサール(レーヴェンタール:1926-88)も、若い頃、1940年頃のニレジハージのリサイタルを聴き、その力強さ と美しい音色に圧倒されている。同じ頃、パーティで会ったルーウェンサールに、ニレジハージは当時、全く無名の作曲家だったシャルル・ヴァランタン・アル カンの作品を弾いて聴かせたという。ルーウェンサールは、後に アルカンの紹介者として、マルクアンドレ・アムランとともに著名な存在になるが、その原因をつくったのはニレジハージだったのだ(注)。ルーウェンサールは、 初めて会った40年後、ニレジハージに、「あなたは私が会った最初の偉大な芸術家です。あなたのような人にあったこともないし、これからも会わないでしょ う。あなたは特異でしたし、私の記憶の中でも特異な存在でありつづけています」と書いた。ルーウェンサールは、1978年の論文にも、自らにインスピレー ションを与えた存在として、アーヴィン・ニレジハージ、ウラディミール・ホロヴィッツ、ウィリアム・カペル、マリア・カラスの4人の名を挙げている。

Mr.Xとして覆面をかぶるニレジハージとプロモーター(1946)

1936年からの数年は、ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」の一環として行われた、「連邦音楽プロジェクト」 の主催するコンサートに何度も参加している。しかし、1940年代頃から演奏会は段々と稀になり、規模も小さくなっていく。1946年、公開演奏に対して 極度に神経質になっていたニレジハージは、もはや素顔をさらしてリサイタルを開くことなどできなくなっていた。プロモーターとの交渉で、「Mr. X」と して覆面を被り、正体を一切明かさないことを条件に演奏会場に登場している。しかし、かつてニューヨークを席巻したピアニズムまでごまかすことはできず、 この時、最初の打鍵だけで、ホール全体に「ニレジハージだ!」というささやきが広がったという。正体を見極めようとして、楽屋に闖入してきた記者の姿を見 て、思わず逃げ出したという。ある程度の規模を持つリサイタルとしては、これを最後に長く途絶えることとなる。





(注)2020.12.25追記: ルーウェンサールのアルカンのLPは1966年に発売されており、アルカン曲集としては最も早いものとなる。英グラモフォン1966年4月号498ページにルーウェンサールのRCA盤(SB6660, RB6660)の評が掲載されているが、これ以前のグラモフォン誌にはアルカンの話題はほとんど登場しない。「アルカン」の文字が初めて英グラモフォンに登場するのは創刊から30年が経った1953年2月号で、「髪の毛が逆立つような」アルカンの音楽が熱心なアメリカ人達によって録音されることを期待する、という文脈であった。

この時期のニレジハージに関わった著名な人々など)

アーノルド・シェーンベルグ
バッハから続く調性という伝統を完全に破壊し、革新的な12音技法を創始した。20世紀芸術の最大の巨人の1人である。ベルク、ウェーベルンらの作曲家を 育てた。彼の功績は偉大なものではあるが、同時に、彼の大脳皮質が作り出した形式によって、コンテンポラリー音楽と大衆の乖離がもたらされたのも事実であ る。再現芸術の隆盛の遠因を作ったのは、実はシェーンベルグではなかったか。代表作は、「モーゼとアロン」「グレの歌」「浄夜」など。

オットー・クレンペラー
20世紀を代表する指揮者の1人。厳格、反ロマン主義的スタイルをとっており、マーラーにも高く評価された。クレンペラーはユダヤ人であったため、 1930年にはナチ禍を逃れてロス・フィルの常任指揮者となっていた(ちなみに、前任者のロジンスキーの妻とニレジハージは不倫関係にあった)。シェーン ベルグのはからいでニレジハージはクレンペラーの前で演奏を行ったものの、クレンペラーの好みには合致しなかったといわれている。クレンペラーは、ニレジ ハージがショパンの第2ソナタの最終楽章を、第3ソナタのそれと入れ替えたことを特に批判した。とはいえ、かれはごちごちの原典主義者ではなく、メンデル スゾーンの「スコットランド」のコーダを作曲し、それをオリジナルと入れ替えて演奏したりしている。二人の音楽的スタイルを知るものは誰でも想像できるよ うに、単に水と油だったのだろう。

ベラ・ルゴシ
ハンガリー出身のドラキュラ映画のスター。戦後、落ちぶれてドラッグ漬けとなり、「史上最悪の映画監督」エド・ウッド・ジュニアと凡作を作った。そのいき さつは、傑作映画「エド・ウッド」に詳しい。ニレジハージとはロスのハンガリーコミュニティで知り合い、ルゴシは貧窮にあったニレジハージをなにかと援助 したようである。

アドルフ・マンジュー
チャップリンの「巴里の女性」、「モロッコ」、「オーケストラの少女」などに出演した名優。晩年、スタンリー・キューブリック監督の初期の名作「突撃!」 において、偽善的なフランス軍将軍役を印象深く演じていた。ニレジハージはトーキー時代、ピアノを弾くマンジューの手の役をやったことがあった。

グロリア・スワンソン
「サンセット大通り」でオスカー候補にもなった大スター。ケネディ大統領の父親、ジョゼフ・ケネディの愛人でもあった。1935年頃から数年間、ニレジ ハージを援助していた。二人の間に肉体関係はあったらしい。ニレジハージはグロリアにプロポーズしたこともあったが、賢明なグロリアが彼の10人の妻の1 人になることはなかった。