シェーンベルグ | 1941年頃のニレジハージ | |||||
「今日、別のことで書いてみたい。これは、他のことを差し置いてもかまわないほど重要なことだと思っている。
昨日、私はHoffmann博士の家で一人のピアニストの演奏を聴いた。それは、とてつもないものだった。最初、私は気が進まなかったんだ。というのは、
Hoffmann博士とMaurice
Zamの賛辞がうさん臭いものに思われたからね。しかし、今となっては、私はあんな凄いピアニストを今まで一度も耳にしたことがなかったと断言できる。ま
ず間違いなく君も彼の名前を聴いたことがあるよ。アーヴィン・ニレジハージだ。あの、5歳の神童としてヨーロッパを演奏旅行し、青年期に(彼今33歳だ)
戦前、ドイツで演奏し、それからアメリカでコンサートを開いて、大変な成功を収めたピアニストだ。Hunecker(当時、アメリカ最高の評論家の1人)
いわく、「リストの生まれ変わり」。それはどうやら正しかったらしい。リストが、ニレジハージほど素晴らしいと仮定しての話だがね。それから、私が勘違い
していなければだが、彼はJudson(注)と喧嘩別れしたんじゃなかったかと思う。以降、彼は全く活動しなくなってしまった。彼は今や、衣食にも事欠く
ようになってしまった。
1924 年に撮影されたシェーンベルグ(左端)とクレンペラー(左から二人目)。中央はシェルヒエンで、タバコを加えているのは、シェーンベルグの高弟、作曲家の アントン・ウェーベルン 。ちなみに、ウェーベルンは、第二次大戦後、写真のようにタバコに火を付けたところを米軍のGIに誤射され、死亡している | |||
1941年のコンサートプログラム。20世紀の音楽を嫌っていたニレジハージだが、シェーンベルグのピアノ作品 Op11のみは取り上げている。筆者蔵。 | |||
シェーンベルグとニレジハージの交流は作曲家の死の直前まで続いた。それにしても究極の前衛主義者だったシェーンベルグが、究極の浪漫派であるニレジハージの音楽と波長があったというのも面白い。
注1)
シェーンベルグの記憶違い。Athur Judsonはニレジハージをマネジメントしていなかった。ちなみに、Arthur
Judsonは全米中に絶大な権力を持っていたマネージャーでプロモーター。現在、小沢征爾、ハイティンク、パールマンといった世界中のアーティストを握
るColumbia Artists Management Inc.(CAMI)の前身、Columbia Concert
Corporationの初代プレジデントでもある。ニレジハージの没落ぶりから、彼がJudsonのブラックリストに載ったとシェーンベルグが考えたの
も無理はないし、実際、彼の名前はプロモーター間のブラックリストには載っていただろう。
2021年8月12日付記
Peter Heyworthのクレンペラーの伝記 Otto Klemperer: his life and timesにはこの事件は登場しない。だが、1935-36年当時にクレンペラーが置かれた状況は伺える。
クレンペラーが音楽監督を務めていたロス・フィルのパトロンのアイリッシュ夫人は音楽について無知な富豪の女性であった。ある時、彼女はクレンペラーに
チャイコフスキーの「悲愴」の第4楽章を全カットして「爽快に」終わらせるように、と勧めたという。一方、ニレジハージはショパン第2ソナタの最終楽章と第3ソナタの最終楽章を入れ替えて弾き、クレンペラーの怒りを買っている。クレンペラーの中でニレジハージと
アイリッシュ夫人の姿が重なったとしても不思議でない。また、当時のクレンペラーは、諸事情でハリウッドやエンターテインメント系の人々と芸術的に満足で
きない仕事をやらされる状況にいた。一流とは言えない音楽家達と、一時ハリウッドの下請けで生計をたてていたニレジハージの姿が重なった可能性もある。さらにク
レンペラーはアーサー・ジャドソンによってプロモートされており、様々な局面でジャドソンとトラブルを抱えていた(シェーンベルグがジャドソンの名を出し
たのはクレンペラーの同情を惹くためだった可能性がある)。トラブルの一つは、ジャドソンによって選ばれた独奏者達の大半との共演を拒否したことで、その理由は「音楽性
の違い」だった(「イトゥルビは指揮者にとってはやり過ぎだ。マイラ・ヘスの事は知らないが、私の音楽的イマジネーションとは正反対だと耳にしている.....彼らの音楽的性格は私自身の音楽的性格とは異なるようだ」)。言うまでもなく、クレンペラーとニレジハージの音楽性の違いは大きく、ほとんど別の惑星の住人であった。
ロスの状況はクレンペラーにとってハッピーなものではなく、彼はNYPやフィラデルフィア管の音楽監督を望んで積極的に動いていたのだが、ジャドソ
ンとのトラブルもあって全く順調ではなかった。例えばNYPに関しては1935年に集中的に指揮をし、時にはセンセーショナルな成功をおさめていたが、全
体としては聴衆や批評家を納得させることはできず、監督への望みは消えつつあった。フィラデルフィア管に関してはNYPよりもうまくいっていったが、ちょ
うど彼がニレジハージを聴いた月(おそらく直前)にストコフスキーが辞任し、オーマンディの新監督就任が発表された。ニレジハージがクレンペラーので弾い
たのはこういう難しい時期だった。