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ニレジハージ、ジェームズ・サンプルと連邦音楽プロジェクト
by Kevin Bazzana (6. 2008)









大恐慌時代の終わり頃のルーズベルト政権によるニューディール政策の一環として、雇用促進協会(WPA)が主催した連邦音楽プロジェクト
(FMP)があった。ニレジハージとこのプロジェクトの関わりについては、私は「Lost Genius」の第十二章「Pianist for Hire」の大半を費やしている。自他ともに認めるルーズベルトの賞賛者だったニレジハージは、このプロジェクトに打ち込み、リサイタル、あるいはオーケス トラのソリストとして、ロサンジェルス地域で多くの一般公演や教育目的の演奏会を行った。FMPからは月に94.08ドル—少なくはあったが継続 的に給料を貰い受けていた。彼自身認めたように、彼のキャリアの中で芸術的にもっとも満足できる活動を行っていたと言える。

彼が記憶している中での最初のFMPコンサートは1936年の6月19日に行われたリストのTetentanzであった。それ以降、少なくとも10回もの出演が記録され ている。だがもっとあったのかもしれない。というのも、彼は南カルフォルニアにあるフェデラル・オーケストラで一番人気のソリストだったからだ。残念なこ とに、彼はFMPにはわずか一曲の録音、それもあまり面白くもない5分の新曲
「Before the dawn」を残したのみだった。この作品は、地元の作曲家のキャメロン・オ・デー・マクファーソンが作曲した「Deserted Garden」からのもので、1936年に、Modest Altschuler指揮のロサンジェルス・フェデラル交響楽団と録音された。

ニレジハージはFMPではAltschulerの指揮で演奏することがもっとも多かったが、若いアメリカ人指揮者のJames Sample (1910-1995)とも共演している。ピアノと指揮の両方の教育を受けたSampleは、地元ミネアポリスで指揮棒と教鞭の両方をとっていた。その後ヨー ロッパに留学して指揮活動も行った(彼の師にはピエール・モントゥーがいる)。1937年、
SampleはFMPでコンサートとオペラの両方に携わ るためロスアンジェルスに移った。1942年に彼はメトロポリタン歌劇場とニューヨーク市歌劇場で指揮を行い、その後何十年もの間、サン・ベルナル ディーノ、ハリウッド、ロスアンジェルス、ポートランド、エリー、フォート・ウェインといった都市で、常任指揮者のポストを歴任した。1982年に彼は指揮活動から 引退し、作曲活動と歌手を教えることに専念した。彼が死んだのは1995年である(非常に簡潔ではあるが、Sampleに関してもっとも正確な記事を掲 載しているのがウィキペディアである)。


最近になって私はSample家の1人(匿名を希望している)より接触を受け、ニレジハージと彼女の父親が共演した、WPA南カリフォルニア交響 楽団の二度のコンサート(どちらもロスのEmbassy Auditoriumで行われた)のプログラムを
彼女から受け取った。最初のコンサートはチャイコフスキーの第一ピアノ協奏曲を含むもので、1940年のクリスマ スの日にネイティヴ・アメリカン作曲家協会によって主催された。ロサンジェルス・タイムスの批評家のイザベル・モース・ジョーンズ曰く、ニレジハージは「と てつもない神童で、彼は聴衆を興奮させる能力を全く失っていない。」

彼女は続けている。
「ニ レジハージ(のタッチ)はピアノに酷なものだったが、彼の劇的センスとリズムコントロールは、聴衆と彼を同化させるものだった.....。聴衆は 全楽章間で拍手し、多くのものは立ちあがってブラーヴォを叫び、そして最後にはアンコールを
二曲要求した。イヴニング・ヘラルド・エクスプレスのカー ル・ブロンソンは、「ニレジハージは聴衆を喝采の渦へと巻き込んだ」とし、彼の演奏は偉大な19世紀のピアニストであるアントン・ルビンシテインを彷彿とさ せる、とした。そしてブロンソンは、「この恐るべき技術を持つ巨匠は、情熱的な激情を彼の芸術に注入、聴衆を驚愕させた」とつけ加えた。

もう1つの共演は、1941年11月11日で、リストの二曲の大ピアノ=オーケストラ作品だった。ニレジハージが10代から得意にしていたピアノ協奏 曲第二番と、Totentanzである。これがニレジハージのFMPコンサートの最後のものであった(WPAもすぐに廃止された)。そして、これがオーケ ストラと行ったニレジハージ最後のコンサートでもあった。彼はこの後46年も生きたのであるが。(実は二人の共演はもう1つある。1937年12月17 日、パサデナ交響楽団とのものだ。これに関しては、Samleが二曲のオーケストラ作品を指揮し、チャイコフスキーの協奏曲で
Altschulerがニレジハージに加わった。)

悲しいことに、FMPの最初の2年間にSampleは600もの録音を残したというのに、そしていくつかのFMPコンサートはStandard Hourのような番組を通じて西海岸ではラジオ放送されていたのに、ニレジハージとの共演を記録した録音は日の目を見ていない(ニレジハー ジが1936年のFMPコンサートで弾いたリストのピアノ協奏曲第一番のStandard Hour放送のアセテート盤は、確実に一度は存在し、そしておそらくは存在している。それがどこかはわからないのだが)。


1992年、82歳になったSampleは、家族とのインタビュー録音で、彼のキャリア(ニレジハージとのそれも含めて)を振り返っている。

アーヴィン・ニレジハージは有名なハンガリーのピアニストで、一時はパデレフスキーの比類なきライヴァルだった。大変な経歴の持ち主でもあった。彼は素晴 しいピアニストだったが、非常に変わった男でもあったよ。彼は特にリストを弾いた時、非常に重厚なタッチで弾いていたために指から出血するほどだった。覚 えているのは、初めて私と演奏した時のことだ。ステージから下りて「おはよう」と言ったんだ。彼は指に絆創膏を撒いていたものだから、「一体全体どうした んだい?」と訊いてみた。すると彼が言うには、「ああ、指から出血した時に鍵盤が滑らないように守っているんだ」。彼は一時は本当に有名だったね。彼がリ ストの協奏曲を弾くたびに、ホールは満杯になったものだよ。だいぶ後になって、彼は再発見された。私はたぶん
ニレジハージの録音をいくつか持っているよ。彼は自分が何をやっているかわかっていたし、我々も素晴しくうまくやっていた。

残念なことに、Sampleが「録音のいくつか」で彼の記憶を補完してくれることはなかった。もし見つかっていたら、疑いもなく魅惑させてくれるだろうに。


Kevin Bazzana


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