晩鐘(1980-1987)
Photo(C) Yoshimasa Hatano 日本公演のニレジハージ(1982年) |
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ニレジハージ・ブームの余波は日本へも波及した。1980年の春に、尺八と琵琶を携えた二人の虚無僧が、苦労の末、ロスの安ホテルの一室にいるニレジハー
ジを探し当てた。高崎音楽短期大学(現創造学園大学)の関係者であった小池大哲氏と関川鶴祐氏である。1970年代、カーネギーホールでのリサイタルとい
うオファーさえ断っていたニレジハージだが、何故か二つ返事で来日公演を承諾した。理由は、ニレジハージは幼少時に「マダム・バタフライ」のテーマで作曲
して以来、日本に特別な感情を抱いていた、ということがあったらしい(彼は日本の敗戦を悲しみ、「Tragic
Victory」という曲を作曲さえしている)。また、アメリカやヨーロッパの音楽界の状況に絶望を感じていたニレジハージにしてみれば、まだ見ぬ日本と
いう国は、自己の芸術を問う最後の希望と映ったのかもしれない。この時、ニレジハージは二人の強い懇願に応じ、アルコールの力を借りながら、ホテル近所の
教会、テンプル・チャーチのボロボロのピアノで月光ソナタを弾いている。ニレジハージは1980年、1982年に来日をはたした。
1980年、高崎で行われた公演は録音され、一部が「平和の使徒たち」として東芝より完全限定発売されている。この時、来日プログラム冒頭のリストの
「Sunt Lacrymae Rerum
--哀れならずや」の題名を、ニレジハージは「血のような涙」と訳させ、まるで拳を叩き付けるように弾いた。彼の思いの深さがわかるエピソードである。続
く公演二日目は初日よりも調子が良く、この日のドビュッシーの「Pagodas」の録音は、ニレジハージ最晩年を代表する名演となった。規模の小さい手作
りの演奏会だったが、好評のうちに公演を終えた。1982年の2回目の来日では、小池氏、関川氏を中心として設立されたニレジハージ協会の関係者に加え、
菅原文太氏が来日公演の成功に尽力し、より規模の大きなものとなる。菅原氏の人脈は広く、後に首相候補に熱望された伊東正義衆議院議員、読売新聞社、外務
省が支援者として名を連ねた。さらに、芥川也寸志氏、井上ひさし氏、安岡章太郎氏ら、各界の著名人が賛同人に加わった。当時の読売新聞を読むと、草の根運
動的な、異様なまでの熱気が読み取れる。この時、ニレジハージは1937年以来初めて、自作をプログラムにした。彼の演奏には技術的なキズも多く、大時代
的なスタイルに困惑する聴衆の方が多かったようだが、日本という、思い入れのある場所が、彼に特別な喜びを与えたことは間違いないようである。
アメリカに戻ったニレジハージは、間もなく健康を害し、急速に体力を失っていく。1985年2月20付けのベンコー宛の手紙(筆者蔵)にはこうある。
「以 前は、杖があれば充分だった。でも、今はそうはいかない。私は道路をあるくには、「walkie」という器具を使わねばならないのだ。もちろん、これは恥 ずかしいことだ。もしあなたが私と共に公衆の前に表れることで恥ずかしい思いをするようなら、私の当惑はもっと大きくなるだろう。もし、私の状態をあなた を恥ずかしくさせたり、あるいは、別にあなたが恥ずかしいと思うことを気になさらないのなら(たぶんそうだろうが)、よろこんでどこでもお会いしよ うーー」
1987年、ニレジハージは病み、貧窮の中、ロスにて波乱の生涯を終えた。死因はガンであった。死の直前、混濁した意識の中
で、若き日の栄光の情景が蘇ったようである。妻のドリスに向かい、「車を呼んでくれ。カーネギーホールに行かねば.......」とつぶやいていたとい
う。
ニレジハージの訃報は、翌日、ニューヨークタイムスによって大きく報じられた。
武満徹
20世紀後半の世界を代表する作曲家の一人。印象派後期のスタイルに、邦楽、雅楽の要素を融合させたユニークな存在である。代表作は、「ノヴェンバー・ス
テップス」「秋庭歌」などがある。1982年の来日時の、ホテルニューオータニの誕生日コンサートでニレジハージを聴いている。関川氏の話では、演奏を聴
いた武満は、「頭狂っているんじゃないか」、とつぶやいていたそうである。たしかに、当時のテープを聴くと、この日のニレジハージは不調で、いつも以上に
ミスが多かったし、ニレジハージ本人もうまく弾けなかったと言っていた。だが、武満が指摘したのは、そういった表面的な問題ではないだろう。