女性達と批評家は超ロマンティックなピアニストの演奏に圧倒された

By Michael Dirda
Washington Post, Sunday, October 14, 2007; Page BW10

「Lost Genius: 失われた天才」
興味深く悲劇的な、傑出した音楽神童の物語

By Kevin Bazzana

Carroll & Graf. 383 pp. $28

数年前にケヴィン・バザーナは「Wondrous Strange:The life and art of Glenn Gould」を発表した。輝かしく、常に論争を巻き起こし、エキセントリックであったグレン・グールドがこの伝記作家の夢の対象だった。この偉大なピアニ ストは録音時に鼻歌を歌うだけでなく、非常識な(人によっては間違っていると批判するような)演奏を行った。整然としたバロックを弾いている時にも、 グールドはまるでショパンやリストを弾くかのように魂を込めて演奏した。健康マニアでもあった。雑菌を怖れて他人の手に触ることや握手することを嫌 い、夏の暑い盛りに分厚いコートを羽織った。数年ほど演奏活動を行った後、若きヴィルトオーゾは突然、コンサートから引退して録音活動にだけ専念したい、 と宣言した。実際、彼はそれを実行したのである。グールドの奔放さや奇行は音楽研究家達を喜ばせたが、彼は他のピアニストがしないような手法でリスナーを 感動させてもいた。彼の1981年の瞑想的なゴールドベルグ変奏曲は、芸術的に美しいだけではなく、ひとつのスピリチュアルな体験である。

伝記はかくあるべし、というものを「Wondrous Strange」は全て備えていた。ある批評家(私)曰く、この本は「見事な構成を持ち、賞賛に値すると同時に繊細でウィットにとみ、はらはらさせる」。 同じ言葉は「Lost Genius」にもあてはまる。この本はバザーナの新作だが、もう1人の音楽の異常な天才、アーヴィン・ニレジハージ(1903-87)についてのもの だ。とは言っても、彼の演奏や名前を知っている人は少ないかもしれない。

「air-veen nyeer-edge-hah-zee」と発音する名を持つニレジハージは、ユダヤ人を祖先としてブダベストに生まれた。我々が口笛の吹き方や撥の叩き方 を真似する年齢に、既にニレジハージはピアノに向かった。「6歳までに彼の広いレパートリーは、ハイドンやモーツアルトのソナタ、 ベートーヴェンの悲愴ソナタ、シューマンの「子供の情景」「パピヨン」、グリーグの「叙情組曲」、そしてショパン、リスト、メンデルスゾーンの小品」だっ た。幼いニレジハージは熱心な読書家で、「ダンテ、ドストエフスキー、ゲーテ、ハイネ、シラー、シェークスピア、シェリー、ギリシャの古典」と、ハンガ リーの作家の作品を愛読していた。完全な絶対音感保持者だった彼は2-3回通して弾けばもう曲を覚えた。3000曲を暗譜していたと80歳の時に語ってい る。幼少時からその死の時に至るまで、彼は生活や情念や思考の日記としてピアノ音楽を作曲しつづけた。

ニレジハージは彼の最初の公演を6歳の時に行った。10歳までにはモーツアルトの再来とさえ言われていた。神童を研究する心理学者が書いた一冊の本のテー マにもなった。子供の頃の彼を聴いた人々の中にはフランツ・レハール、ジャコモ・プッチーニ、エンゲルベルト・フンパーティンク、リヒャルト・シュトラウ ス、ベラ・バルトーク、英国皇太子、そしてほとんどのハンガリーの名士達がいた。12歳の時、早熟だったニレジハージはリストの虜になった。結果、バザー ナ曰く、「深刻で、重厚かつ陰鬱な音楽を好むようになり、ピアノ奏法もさらにリスト的になった。深い響き、遅いテンポ、新しく深い表現を指向するように なった」

思春期にニレジハージはヨーロッパのツアーを行い、ベルリンやオスロで賞賛を受けた。常にパワーと凄まじさを比較されるようになっていたリストの髪型を真 似て長髪にした。明らかに、若きハンガリー人はクラシック音楽の世界的なスーパースターになりつつあった。同じく1903年に生まれのクラウディオ・アラ ウ、ルドルフ・ゼルキン、ウラディミール・ホロヴィッツのように、である。だが1920年までに、ニレジハージは彼を束縛する母親からプレッシャーを感じ るようになり、その支配から逃れる術をもとめてアメリカ行きの船に乗っ た。

ところがこの国では、演奏家はまともに扱われていなかった。彼は、デイトン、オハイオ、サウス・カロライナのスパータンブルグ、ニュージャージーのパター ソンのような田舎に行って聴衆を熱狂させるはめになった。それでもニレジハージはニューヨークで、ピアニストで外交官のイグナッツ・ヤン・パデレフスキの ような有名な客のためにも演奏した。ロサンジェルスにも渡り、そこでリサイタルを開いて熱狂的な反響を呼び、サイレント映画の喜劇俳優ハロルド・ ロイドや、哲学者で建築家のフランク・ロイド・ライトに会った。しかし、いろいろな都市でリサイタルを行い、ピアノ・ロール録音を行っていても、ニレジ ハージのキャリアは明らかに下り坂をたどっていた。しかも代理人が絶望的、と来ていた。バザーナの描写によればR. E. ジョンストンはこんな人物だった。

「前身はいろいろなところを飛び回るセールスマンだった。ジョンストンは信頼をもたらしてくれるよう な人物ではなかった。アルトゥール・ルービンシュタインが語ったように、"肩幅が広く、アル中の顔つきをしていた。垂れ下がった目、あいまいな色の大きい 鼻、よく撫でつけられてはいるが一握りの金髪と白髪の混じった髪。60歳を超えていたに違いない”。彼は木の義足を履いており、人を驚かせたりおもしろ が らせるために、それをおもむろに外してみせることがあった。手の指も無かった。まるでカツラに意志があるかのようにそれをもてあそんだ。ピアニストのアンドレ・ベノワ曰く、"キンキンするソプラノで話す時に入れ歯がギラついた"

金に汚くて粗野なアメリカ人と、エレガントで洗練されたヨーロッパ人のコントラストを想像してみるとよい!次第に二人は衝突するようになり、裁判が起こ り、リサイタルはなくなっていった。「ニュー・リスト」のキャリアはぐらつきだし、沈んでいった。次第にニレジハージはギャングの集まりで弾いたり、教会 の受付で弾くようになった。すぐに安宿や公園のベンチで眠るようになった。もっと悪いことに、彼は貧乏で恥ずかしがり屋だったのにも関わらず、自分が磁石 のように女性を惹き付けることに気づいたことだった。彼は自らがピアノを弾くのと同じくらいセックス好きであることを発見してしまったのだ。

バザーナによるニレジハージのセクシャルな生活は、この本で16以上はある楽しみの一つである。彼はニューヨークを去った後、映画スターのグロリア・スワ ンソンに認められ、小説家のテオドール・ドレイサーの愛人と関係を持ち、彼と同郷であった俳優のベラ・ルゴシの家にたむろするようになったが、欲望の放出 は十分ではなかった。ニレジハージは売春婦、コールガール、マッサージ嬢、ポルノ映画の世話になるようになった。ただ、どんなに彼の伴侶や 行動が落ちぶれていたとしても、ピアニストは洗練されたプライドを保ち続け、常にスーツを着てネクタイを締めた。それが何日も同じスーツやネクタイであっ たとしても、である。それに結婚というものを信じ、それ以上に離婚というものを信じていた男を誰が非難できるだろう?というのも、ニレジハージは単にピア ノの神童ではなく、人生で10回も結婚していた人物である。ほとんどの妻は彼に深く尽くした。たとえ(だから、なのだろうが)彼が鍵盤が無い場所では全く 無力で、 1人ではシャツにボタンをつけることもできず、卵さえ料理することができなかったとしても、だ。

Lost Geniusの中間部は、ニレジハージがロサンジェルスで音楽の下請けをやっていた時代を描いている。彼の手は、ホラー映画「五本指の野獣」に登場した。 黒い覆面を被って謎の「Mr. X」として評判になったコンサートにも登場している。彼は皆と同じようにハリウッドの隙間にもぐりこんだ。それでも、他の人々と違って、自分が神から相手 にされていない、などと不満に思ったり愚痴ったりすることは決してなかった。彼自身、性的欲求とヴォッカの瓶を満たすだけの金を稼いでいたし、妻はどんな に卑しい生業に陥ったとしても、それなりの金を家に持ってきてくれた。加えて彼は作曲は続けていた。それらは彼の決定的な遺産となるものだった。というよ り、そう希望していた。

ところが1970年の初頭、何十年もの公衆からの無視と軽蔑の果てに、思いがけずニレジハージは「再発見」された。3つのレコードがすぐに作成された。 もっとも知られているのは、「ニレジハージ・プレイズ・リスト」である。NY Timesのハロルド・ショーンバーグ、ステレオ誌のリチャード・フリードのような高名な評論家が衝撃を受けた。伝説の神童は偉大なピアニストの残骸のよ うになっていたものの、彼は昔の華麗でロマンティックな演奏スタイルへと聴き手をいざなった、とバザーナは強調している。ニレジハージは客観性、正確 性、そして特にトスカニーニによって代表されるスコアへの忠実さという伝統を軽蔑した。彼は「演奏家の第一の責務は、作曲家の人生、人間性、思考と感情へ 近づくこと」と言っている。そのことでニレジハージは自在さや、主観的な演奏や、録音での巨大な音量を正当化した。

ああ.......しかし、起こるべきことが多く起こらなかった。彼はカクテルの前ではチャーミングではあったかもしれないが、一緒に働きやすいタイプの男ではなかっ た。老天才と、彼の支持者や援助者との間に意見の相違、喧嘩、非難がおこった。次第に彼は支持者や援助者から見放されるようになった。素晴しい時間は消え 去ったかのようだった。ささやかだが幸せなコーダを除いて.......。日本のファン達が彼を招いたのである。そこでは、彼は啓示をもたらすものとして 賞賛され、音楽上の「Sensei」として尊敬されたのである。だがその頃までには、彼の人生は実質的に終わっていた。1987年4月8日、彼は大腸ガン で死去した。

たとえ読者のクラシック音楽への興味が初歩的だったりうわべだけのものだったとしても、Lost Geniusはウィーン・フィル以上の洗練と、ボストン・ポップス以上の愉悦を提供してくれるだろう。バザーナはニレジハージをよみがえらせるにあたっ て、彼の巨大なポテンシャルを示しただけでなく、不屈の意志と鉄の傲慢さを持つ、素敵なほどにカオスな人生を送った1人の男を描き出したのである。間違い なく、ニレジハージはBaron Corvo, Julian MacLaren-Ross, Quentin Crispらと並んで、エキセントリックな貧民街の伊達男の殿堂にいる。この秋さらに分厚い伝記が発表されることは疑いないが、Lost Genius以上に美味しい思いをさせてくれるものを想像することは難しい。

(Translation: fugue.us)
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Michael Dilda氏は、1993年のピューリッツアー賞受賞者で、ワシントン・ポストの批評欄を担当。この訳文は、Michael Dirda氏の許可のもとにfugue.usに掲載されています。

(This translation was posted under Mr. Michael Dirda's permission)