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Lost Genius:
The Story of a Forgetten Musical Maverick

By Kevin Bazzana

Ervin Nyiregyhazi (1923)

「Lost genius」は、ハンガリー系アメリカ人ピアニストで、作曲家のアーヴィン・ニレジハージ(1903-1987)の伝記である。
彼の名前(air-veen nyeer-edge-hah-zeeと発音する)は、現在、歴史的ピアノ録音に詳しい人間以外、ほとんど知られていない。だが、同僚の音楽家、批評家、他の信頼すべき目撃者達の証言、および残された文献や録音という証拠は、ニレジハージが20世紀でもっとも偉大で、もっとも特異的な演奏家であり、一風変わっていて個人的語法を持った、創作力の豊富な作曲家だったことを物語っている。さらに、彼は驚く程エキセントリックであったから、これほど例外的にすぐれた芸術家でなかったとしても、その奇妙な生涯と個性だけで魅力的な伝記が書けるだろう(ニレジハージの物語は、1990年代中頃から現在まで、複数の映画会社の興味を惹き続けて来た)。
この本は、ニレジハージの生涯と芸術を細部にわたるまで探求し、彼が、20世紀の真の意味での幻の天才であったことを証明するものである。

1903年、ブダベストに生まれたアーヴィン・ニレジハージは、音楽史の中でも最も突出した神童の一人であった。実際、彼の才能のために書かれた本に、彼が13歳の時に出版されたRevesz作「神童の精神病理学」がある。児童心理学の分野では、今もなお古典的な作品と見なされている作品だ。ニレジハージは、地元の音楽アカデミーで音楽を学んでいたが、彼の才能の噂はあっという間に広がった。両親は息子の才能を、無数の貴族、知識人、ビジネスマン、レハールやプッチーニを含む文化人達に見せびらかしたものだった。6歳の時には最初の公演をおこなった。8歳の時、ロンドンで貴族のために演奏し、バッキンガム宮殿では王族のために弾いた。どこに行っても、彼は賞賛とご贔屓を勝ち取ったが、彼は理想主義的で意志の強い子供で、神童の生活には反感を覚えていた。結局、両親による搾取と束縛への怒り、家庭のステイタスの低さから来る羞恥心、地元の反ユダヤ主義、おそらく、母親による性的な虐待、こういった全ての事が、彼に終生消えない心理的な傷を残した。

第一次大戦の間、彼はドホナーニとラモンドについてベルリンで学んだ。そして、12歳の時、彼はベルリンフィルとのコンサートを行っている。既に10代で、彼はヨーロッパ中でコンサートを開き、2年間、スカンディナヴィアを演奏旅行した。そして、しばしば、最高難度のソロ曲や、協奏曲を取り入れた長いプログラムを組み、その演奏で聴衆、批評家、音楽家達を驚かせた。

1920年の秋、17歳でニレジハージはセンセーショナルなニューヨークデビューを飾った。それから3シーズンの間、彼はアメリカ中の賞賛と注目を浴び、真の(議論を呼んだものであはあるが)名士となる。しかし、彼のキャリアは下り坂となり、1924年に彼はマネージャーを訴えるに至った。判決は、彼の有利にならず、しかも、彼の名は音楽ビジネスのブラックリストに刻まれることとなった。

自身の才能に甘やかされたためか、彼は救いようのないほど、実生活を営む能力がない事を示した。彼は両親によって隔離され、甘やかされたのだ。彼はアメリカに着いた時でさえ、彼は自分の靴ヒモも結べず、食べ物を切ることもできなかった(これはタブロイドを喜ばせた)。彼はすぐに窮乏し、食べ物もなく歩き回り、地下鉄で眠るか、公園のベンチで眠るなどした。彼は、ホテルのオーケストラと演奏し、シンシン刑務所でマフィアのためにプライヴェートなコンサートを開き、ハンガリー人コミュニティによって組織されたコンサートで演奏し、とにかく、小金を稼げるのならどこでも演奏するまでに落ちぶれてしまう。

1928年、ポケットに6ドルを持って、彼はロスへと移住し、そこで映画会社のために奇妙な仕事を請け負った。彼は、いくつかの初期のトーキー映画(Fashions in love, Lummox)に登場し、後年の映画(Song to Remember, Somg of Love, Song of a Monster, the Beast with five fingers) でも手の影役としてピアノの演奏シーンを請け負った。30年代も、40年代も、彼は貧乏なまま、アルコールに溺れ、そして特異な後期ロマン派のスタイルで作曲を続けた。彼は、3歳で作曲を始め、彼が死んだ時には1000曲以上の曲が残された。また、彼は地元のWPAオーケストラとの演奏会や、プライヴェートな演奏会で演奏することもあった。

Mr.Xとして覆面をかぶるニレジハージ
無名で貧窮こそしていたが、彼の才能と個性は多くのファンを獲得した。彼の友人や賞賛者は、まるで、20世紀初期のアメリカの人名録のようである。ルドルフ・ヴァレンティノ、ハリー・フーディーニ、グロリア・スワンソン、ベラ・ルゴシ、ジャック・デンプシー、テオドール・ドレイサー、エイン・ランド、バーバラ.ハットン、そして第一級の音楽家達だ。しかし、彼は苦悩に満ち、そして自己破壊的な人物でもあったため、影響力を持った人々の助けがあったにも関わらず、そしてヨーロッパとニューヨークへと頻繁に旅したにも関わらず、彼はキャリアを復活させることができなかった。時につれて、彼は徐々に公衆の前で演奏することに神経質になっていった。1946年、彼はロスでリサイタルを開くことを同意したものの、絹のマスクをかぶって顔をかくす、という条件つきだった(彼はMr.X------マスクをかぶったピアニスト、として宣伝された)。

第二次世界大戦後には、彼のピアニストとしてのキャリアは、すっかり終わってしまった。彼は、安宿に住み、酒を飲み、そして曲を作った。彼はピアノを持たず、練習もせず、そして彼のコンサートキャリアが失われたことを気にかけている様子もなかった。彼は、友達をさがすために、もっとよい人生を生きるために、時として、単にいたたまれなかったために、ニューヨーク、テキサス、メキシコ、ヨーロッパにしばしば旅行した。彼は性的にはどん欲だった。彼の生涯は、長い愛人関係と、多くは結婚していた女性との一夜限りの関係、そして売春婦、コールガール、時として男性の愛人で満たされていた。彼は10度結婚し、ほとんど成功しなかった。ある妻は彼を虐待し、彼らの離婚は、「奴隷の男、裁判を争う」、とタブロイドの餌食となった。彼は、ある妻がコンサートの途中で欠伸したという理由で、結婚後間もないのに離婚した。別の妻はヨーロッパでジグムント・フロイトの治療を受けた。また別の妻は、売春容疑で国外追放になったが、嫌がらせのために、ニレジハージが、「ついに真実が」と題してまとめていた、随筆本の1000ページにも渡る原稿を盗み出した。

1972年、ピアノを研究する団体がニレジハージを発見し、彼はいくつかのコンサートを行なった。噂は広まった。1974年と1978年に、IPAと、フォード財団の援助のもと、彼は数枚の録音を行なった。それらがリリースされた時、彼のユニークで力強いピアノのスタイルと、華々しい物語は、すぐに公衆とメディアの興味をひき、インタビュー、新聞、雑誌、TVドキュメンタリーが作成された。センセーショナルなヘッドライン「放浪のピアニスト、売春の巣窟で再発見」、というのもあった。そして、ニレジハージについても、音楽家や批評家の間でも議論が戦わされた。しかし、ニレジハージは彼の芸術的理想となると妥協を許さず、金や名声のために公衆に媚びようとしなかった。協奏曲の録音や、カーネギーホールでのコンサートという目もくらむような申し出さえ断ったのである。そして、アウトサイダーとしてのライフスタイルを変えることを拒否した。

1979年までに、熱狂は過ぎ去った.........日本を除いて。日本では、ニレジハージは、自身を芸術的理想として敬う聴衆を見いだした。1980年と1982年、彼は名士として日本でコンサートを開いた。しかし、彼はロスへと、彼がより好ましいと思っているらしい、無名の生活へと戻っていった。1987年、彼はガンで亡くなった。

彼の人生は、安っぽいドラマのようにも見えるが、ニレジハージは食わせものではなかった。たとえ、彼が公衆の目前から消えた後でさえ、彼の演奏は、もっとも耳の肥えた人間さえ驚嘆させている。作曲家のアーノルド・シェーンベルグは1935年、彼の友人の家でニレジハージが演奏するのを聴き、そして、彼の聴いた中でもっとも優れた演奏家だと言ったものだ。ニレジハージは1920年代に、いくつかのピアノロール作品をつくったが、彼の全盛期には録音を残さなかった。それでも、1970年代にニレジハージが残した録音は、テクニックの衰えにも関わらず、彼が豊かに歌う音色、比類ないダイナミックレンジ、多声的でオーケストラのようなテクスチュア、柔軟なリズムを持ったピアニストであることを示している。そして、これはもっとも議論のされるところではあるが、楽譜の解釈において、自由で、創造的で、ほとんど即興的なアプローチを行なったピアニストであった。

彼は、近代に生きた、真のロマン主義の放浪者だった。彼が子供の時でさえ、批評家は彼のスタイルを「古めかしい」と評した。実際、ニレジハージの幼少期と青年期の演奏を耳にしたリストの直弟子達によれば、彼の演奏スタイルはリストのそれに酷似していた。彼はまぎれもなくユニークな音楽家で、リストやオスカー・ワイルドをアイドルとしていた。彼の深く個性的な解釈は、多くの人を憤慨させた。しかし、ニレジハージは録音期の前にいた過ぎ去ったタイプのロマン主義への、「ミッシングリンク」かもしれないのだ。彼のエキセントリックな面や、彼の再発見にまつわる熱狂を語る以前に、彼は歴史的に大変重要な音楽家なのである。

Photo(C) Yoshimasa Hatano

「Lost genius」は、約10年間に渡る研究成果をまとめたもので、ほとんどの物語は、1970年代の「ニレジハージ・ルネッサンス」の時期でさえ、公衆に明らかにされなかったものばかりである。この本は、世界中の機関や個人から得た資料に基づいている。もっとも重要な資料は、ニレジハージ自身の遺稿、それから、ニレジハージに数百時間にも渡るインタビューを行なった、ニレジハージの10番目の妻から得た資料である。多くの文献、写真、録音などを含む資料は、最近になってから発見されたものばかりだ。これはニレジハージの最も古い作品(彼が6歳の時に出版)、トーキー映画における演奏、彼の何人かの妻の写真、それから80歳を超えてから、友人の家で録音されたニレジハージの最後の演奏も含まれる。私はさらに、1970年代と1980年代にかけて、個人的にニレジハージとつながりのあった、アメリカと日本を含む全ての地域の主要な人間達や、カリフォルニアの遺族らにインタビュー、あるいは連絡をとった。最後に、私の仕事は、ニレジハージに直接ゆかりのある、複数の研究機関からサポートをいただいている。これは、シカゴのニレジハージ家、オランダの国際アーヴィン・ニレジハージ財団、日本の高崎芸術短期大、メリーランド大のIPA、それからフォード財団などなどである。

2007年2月に、マックレラン・アンド・スチュワート社から発売になった。2007年の秋に、アメリカのCarroll & Graf (New York)によって刊行される予定である。


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