サイト更新情報
6/29/07
「ダンテ・ソナタ」
ニレジハージの未発表録音です。1973年7月29日に演奏された、リストの「巡礼の年 第2年 第7番「ダンテを読んで/ソナタ風幻想曲」(通称「ダンテ・ソナタ」)」をアップロードしました(「ニレジハージの晩年の未発表録音」参照)。
もう一つ。6/14に、一部をご紹介したUS版のカバー写真がKevin Bazzanaから送られてきました(クリック)。背表紙にスティーヴ・ハフらのコメントもあります。なぜかヴェルディの胸像が置いてあり、肖像画も「G. Verdi」となっています。そうKevinに言ったら、「自分も気づいた。肖像画のラベルの方は、後で「Ervin」に直される。胸像はそのままらしい」、とのこと。でも、普通に考えればリストの胸像ですよね。アメリカ的には、ヴェルディもリストもおんなじなんでしょうけど。
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6/27/07
「テンダロインの貴族」
音楽と関係ない話になりますが、IT技術とは大したもので、下の写真でニレジハージが立っていた位置を割り出すことが簡単にできます。まず、背景の看板、"Californian Hotel"はサンフランシスコの405 Taylor Streetという番地にありました。その周辺のGoogle earthの衛星立体画像(クリック)を使うと、駐車場、ホテルの配置から見て、彼はOfarrell Streetに西向きで立っており(空撮画像だと下向き)、カメラは東に向けられています(空撮画像だと上向き)。この地域はテンダロイン地区といって、スラム期のニレジハージの本拠地(?)の一つです。
かつて一度だけ、この周辺に泊まったことがあります。7年前、引っ越しのため、西海岸を車で1週間かけて北上しました。途中で立ち寄ったサンフランシスコ中心街のホテルのあまりの高さに辟易し、あまり深く考えずに、宿をとったのがこのテンダロイン地区でした。下の写真の場所から数ブロックの場所の筈です。道が小汚いのと、ホームレスがうろうろしている程度で、バンクーバーやロスのスラムほどの異常さは感じなかったものの、夜になると怪しさは充溢していました。以下に雰囲気をよく捉えた写真があります。これを見た途端、その時に経験したストリートの小便臭さがリアルによみがえってきました。
http://www.tenderloin.net/tenderloin.html
ニレジハージがあんなところにいたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。
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6/26/07
資料室に1978年8月にサンフランシスコで撮影されたニレジハージの写真を掲載しました(クリック)。これは伝記でも一部がカットされた形で使用されています。有力紙サンフランシスコ・クロニクルによって撮影された写真で、おそらくインタビュー記事か何かに使われたのでしょう。一見、何の変哲もない写真ですが、よく見ると妙なショットです。気取った服装、手をかけたゴミ箱、バックの性風俗のネオンサインが妙に場違いな印象を残します。晩年の彼がどういう場所を中心に生活していたかが伺えるショットです。
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6/25/07
1986年の未発表作品、"The Truncated Life-Task (No.I)", "The Laughters of the Murderer"の自筆楽譜を「資料室」に掲載しました。
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6/22/07
Old first churchのコンサートから、ドビュッシーの版画「Pagodes」をアップロードしました(「ニレジハージの晩年の未発表録音」参照)。これも「二つの伝説」の後に弾かれています。ニレジハージとドビュッシーの相性は良かったようで、残っている録音はどれもユニークなスタイルを持った良い演奏です。
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6/21/07
ロンドンより帰ってきました。今回は自分で払う必要はなかったのですけれど、それでも物価の高さには驚きました。地下鉄の初乗りが、なんと4ポンド=8ドル=1000円です。ランチも日本の3倍の感覚です。しかし街にはそれを帳消しにする魅力がありました。
未発表録音をアップロードし始めておりますので、ここで、もう一度、復帰後のコンサート情報を纏めておきましょう。 プライヴェートなものを除けば、以下のコンサートが記録に残る全てです(Antonioli家ものは、プライヴェートなものとすべきかもしれませんが)。ほとんどの演奏が録音されています。個々のプログラムについては、「資料室」をご覧ください。
Solo concert at the century club, CA, 12/17/1972
Solo concert at the old first church, CA, 5/6/1973
Solo concert at Forest Hill Club Hose, CA, 5/24/1973
Solo concert at Ronald F. Antonioli's house, CA, 7/29/1973
Solo concert at Ronald F. Antonioli's house, CA, 4/30/1978
Solo Recitals, Takasaki Art Center College, 5/31/1980, 6/1/1980, Japan
Solo Recitals, Gunma Kenmin Hall (1/10/82), Hotel New Ohtani (1/12/82) and Daiichi-seimei Hall (1/21/82), Japan
ところで、某事典サイトには、復帰時にカーネギーホールでコンサートを開いたようなことが書いてありますが、そういう事実は全くありません。復帰後のもっとも大規模なコンサートは、1982年の群馬県民ホールと、第一生命ホールの二つで、後は小規模なものでした。この他、1982年の1月下旬、東京バプティスト教会で演奏会が行われたという未確認情報があります。記録は残っていません。
来日時、関係者の間では、小澤征爾指揮の群馬交響楽団でピアノ協奏曲を、という計画があったようです。ボストンの関係者への簡単な打診も行われたようですが(小澤氏本人はおそらく関知せず)、当のニレジハージが「オーケストラとやるのは嫌だ」と拒否し。話が具体化する前に立ち消えになったそうです。まあ、小澤征爾とニレジハージはどう見ても音楽的に正反対なので、やらなくて正解、だったのではないでしょうか。
明日からまたアップロードし始めます。
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6/15/2007
更新情報)老ニレジハージネタが続いたので.......。
彼の最初の録音、Sinding のPreludeの広告(クリック)を「資料室」に載せました。AMPICOのカタログからのものです。この演奏(クリック)は、ニレジハージのカーネギーホールのデビュー直後に録音されました。ニレジハージの顔はまだあどけなさを残しています。
明日からしばらくロンドン。更新は数日お休みです。
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6/14/2007
「「Lost Genius」アメリカ版とドイツ版」
左上はLost geniusのアメリカ版の表紙です。しかし、カナダ版をオンラインで世界中のどこにいても買うことができるというのに、同じ英語のアメリカ版が出るというのも不思議な話です。イギリス版も計画されているようです。
上の右にあるのは、ドイツ語版の表紙(予定)で、Pianist Xという題名に差し替えられています。前も書きましたけど、凄い題名ですね。Schott社が版権を獲得しています。
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6/13/2007
未発表録音を一つ。復活後最初の公演となった、1972年のCentury Clubのコンサートから、ブラームスの第三ソナタ第一楽章、第二楽章です(「ニレジハージの晩年の未発表録音」参照)。特に第二楽章が心にしみ入るような味わい深い演奏ですので、サイズは大きいですけれど聴いてみてください。彼の立体的な音楽づくりがよくわかります。一瞬テープが乱れる箇所が数カ所ありますが、録音は悪くありません。この演奏会は、ニレジハージが、「今までの演奏会でベスト」と言っていたものです(とうにお気づきだと思いますが、これは晩年の彼の得意のフレーズらしく、この後演奏会を行うたびに繰り返しています)。
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6/12/2007
「ミケランジェリとモダン・ジャズ」
今日は、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリの命日です。大ピアニストを偲び、やや長いですが彼についての雑感を記したいと思います。私にとっては、好き・嫌いというレベルを超えた、最重要のピアニストの一人です。
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ミケランジェリは、「ラヴェルの「夜のガスパール」にふさわしいピアノなどこの世に存在しない」、と考えていました。しかし、BBC LEGENDから出ている「夜のガスパール」の「オンディーヌ」の冒頭を聴くと、まさしく、そのようなピアノが存在したかのように聴こえます。彼は決してテンポを急ぐことをせず、個々の音を明確に分離させ、ペダルを自在に扱いながら、いろいろな音をピアノから引出してきます。潤いを持った音の一つ一つが、重力を失ったかのように浮遊し、コロコロとぶつかり、踊っています。その有様があまりに尋常でないため、そこで鳴っているのが本当にただのピアノなのだ、ということが信じられないほどです。
70年代初期からDGより出た「映像/子供の情景」、第一曲「水の反映」においても、ピアノはまるでハープになってしまったかのように響きます。水面のきらめき、水上の浮遊感が、完璧なタッチと絶妙のペダルで表現されます。このDG盤は、ミケランジェリの最高傑作の一つであるだけではなく、ピアノ演奏というものの一つの究極の姿を示したものではないでしょうか。
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ミケランジェリの最大の魅力は、彼のつくり出す独特の音にあります。その音には、私にとっては、耳というよりは、感覚の深いところに直接響いてくる要素を持っています。柔らかく芯があり、明るく、透明で、潤いのある不思議な音です。水銀のような質感なのに、多くのスタインウェイ・ピアノに聴かれる金属的で耳障りな要素が全くありません。どんなに分厚くとも、個々の音が全く干渉せずに響くコードはミケランジェリの真骨頂でしょう。さらに、フェルトで弦をなでるような、精妙としか言いようのないペダリングの素晴らしさ。これほどピアノという楽器を知りつくし、その性能を極限まで引き出したピアニストは、彼以前もいなかったでしょうし、彼以降、おそらく現れることはないでしょう。
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DGのプロデューサーを長く務めたコード・ガーベンの著書、「ミケランジェリ ある天才との綱渡り」(アルファ・ベータ社)には、彼のピアノ整音への偏執狂的なこだわりと、超人的な感覚の鋭さが記載されています。彼は演奏前は、調律師やスタインウェイの技術者を徹底的にしごき上げ、その作業に何日かかろうと、納得のいく音が聴こえるまで絶対に演奏しようとしませんでした。仮にピアノが仕上がったとしても、会場にある花を理由に演奏を拒否することもありました。その理由は、「花束から出る水蒸気がピアノのフェルトの重さを変えた」。しかし、彼は決してはったり屋ではありませんでした。
彼の感覚が本物であることを示す、スタインウェイ社の技術者の証言が本に記載されています。ある時ミケランジェリは、「鍵盤の一つが他と異なる反応をする」と言いはじめました。スタインウェイ社が隅々までチェックしても問題が発見出来ず、ミケランジェリを説得しようとしましたが、彼は自分の意見に固執しました。根負けした技術者が、くだんの鍵盤のハンマーヘッドのフェルトをほぐしてみると、中から折れた小さな整音針が出てきました。スタインウェイの技術者達は、ミケランジェリの繊細な感覚に驚嘆します。
別の技術者は、ある時、ミケランジェリが一本の鍵盤の異常を感知した時のことを報告しています。彼の希望でその鍵盤を細密に調べてみたところ、大きさ7mmの小さな革製品が、その鍵盤だけ通常とは逆向きに取り付けられているのを発見したのです。その革製品は98%対称的に作られているため、逆向きに取り付けてたあったとしても、普通なら問題になるようなものではありません。しかし、ミケランジェリの鋭敏な感覚はその2%の差をも見逃しませんでした。
彼の鋭敏さは、スタインウェイ関係者だけでなく、同業者をも驚嘆させつづけました。優れた聴覚を持つことでは人後に落ちない指揮者のセルジュ・チェリビダッケでさえ、「ミケランジェリは私も感知できない世界を知っているのです」、と語っています。文字通り、ミケランジェリは世界最高級のプロ達さえも想像することのできない異次元の世界に住んでいました。
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若い頃、アルフレッド・コルトーから「ニュー・リスト」と呼ばれただけあって、ミケランジェリは優れた技巧を持っていました。しかし、それをひけらかすことはほとんどなく、速度を通常よりも抑え、ソノリティの美しさに最大限の注意を払って弾いていました。そのせいか、彼の演奏から「超絶技巧派」という印象を受けることはほとんどありません。実際、60-70年代のポリーニの方が、機械的な正確度と俊敏性では勝るでしょう。それでも、ミケランジェリの最初のメジャーレーベルへのステレオ録音であるラヴェルのピアノ協奏曲(EMI)の第一楽章の中間には、その技術がまさしく超一級であったことを克明に示す箇所があります。フルートに続いてピアノが長いトリラーを奏しながら、優美なメロディをつくっていく難所がそれで、ここでの彼のトリルの密度の濃さ、タッチの均一さとまろやかさ、音から音へ移る際の、ベルカントとも言えるような、なめらかなフレージングの見事さは、広く見回してみても他に匹敵するものが見当たりません。彼は若い頃、ヴァイオリンを学んでおり、その響きをピアノで再現しようとしていますが、たしかにこの部分はピアノというよりも、むしろ、弦楽器のポルタメントを思わせます。
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彼の奏法は、古典的フォルムを追求するピアニスト達とは一線を画していました。ルバート、アルペジオも意外に多く使っており、すくなくとも、彼はロマン派として出発していたことが伺えます。しかし、年齢と共に、音楽の推進力や躍動感の減退、リズムの硬直化、表現の形骸化が進んでいき、その音楽は情熱や人間味を極端に欠いたものへとなっていきます。最晩年期の80年代後半、彼がDGに録音したドビュッシーの「前奏曲集第二巻」においては、黄金色の音の伽藍の後ろには、人間性のかけらさえなくなってしまったかのようです。まるで人っ子一人いない広大な宮殿を歩くような、不気味な印象さえ残します。
そのこともあって、Kevin Bazzanaが「グールド演奏術」で評していたように、ミケランジェリを「ロマンティックなピアニスト」と呼ぶのは、私にはどうも適切とは思えないのです(Kevin本人にそう言ったら議論になりました)。むしろ、「ロマンティックたろうとしているピアニストだが、問題は彼自身がロマンティックでないことだ」、と言うハロルド・ショーンバーグの評こそが、彼の本質を適確に突いているように思えます。60年代のガルッピのソナタの録音(デッカ)においても、音色は美しく、奏法はロマンティックなのに、聴こえてくる音楽には感情らしきものが存在しません。そのギャップが一種の気味の悪さを感じさせます。リヒテルも、晩年のミケランジェリの録音のあるものについて、「完璧。しかし音楽はどこにある?」、というコメントをノートに書き残していました。
1970年代初頭に録音された、世評の高い「ショパン・アルバム」においても、ピアニストと楽曲との間に、時として微妙な隙間風が吹くのを感じさせることがあります。例えば、ホロヴィッツのマズルカは、絶妙のルパートによって民族舞踊音楽としての魅力とともに、ショパンの音楽に潜む深淵を存分に見せてくれます。しかし、ミケランジェリのそれは、まるで能舞台の踊りのように様式的で美しいけれども、聴き手の感情を激しく揺さぶるということはありません。それでも、この「ショパン・アルバム」が、他のピアニストのそれ以上に凄みを感じさせるのは、やはり彼の持つ魔術的な音です。とりわけ、「スケルツオ第二番」の主部における右手の和音の響きを耳にすると、彼の方法論の是非など、どちらでもよくなってしまうほどです。私がこのスケルツオの演奏で最も気に入っているのは、コラール風の箇所からアレグロに切り替わるところで、ピアノが一気に加速し、右手によるフレーズがきらめき、左手が規則正しいリズムを刻む箇所です。ここでは、理知的な完璧主義者には珍しく、青春の息吹を感じさせるようなみずみずしい表現を行っています。
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再現芸術の究極のようなミケランジェリのピアニズムは、実は意外な分野に大きな影響を与えています。モダン・ジャズです。
1950年頃のジャズは、黒人奏者全盛で、ブルースややゴスペルから発展したコードを展開させ、それを激しいリズムで叩き付けるような音楽が主流でした。白人のピアニスト、ビル・エヴァンスも当初はそのようなブルージーなスタイルに合わせて弾いていました。ただ、エヴァンスはクラシック音楽の素養があり、前述のミケランジェリのEMI盤(ラフマニノフのピアノ協奏曲第四番と、ラヴェルのピアノ協奏曲のカップリング)を愛聴していたようです。当時、インプロビゼーションを行わないクラシック音楽に耳を傾けるジャズの演奏家の数は、決して多くはありませんでした。バルトークやストラヴィンスキーのスコアも勉強していたマイルス・デイヴィスなどは、例外的な存在だったと言えるでしょう。
エヴァンスは、1958年に、ジョン・コルトレーンやキャノンボール・アダレイら、伝説的なメンバーを揃えていた、黄金時代のマイルスのバンドに迎えられます。マイルスは、「ビルはクラシック音楽の知識をバンドに持ち込んだ」「ビルにアルトゥーロ・ミケランジェリ(原文のまま)というイタリアのピアニストを聴くように勧められた。聴いてみて、本当に惚れ込んでしまった」、と語っています。そのマイルスが、翌1959年、エヴァンスらと作成したのが、ジャズ史でも記念碑的な作品とされる「Kind of Blue」です。この作品では、マイルスの前作、「マイルストーン」で試みられたモーダルな音階が全般的に使用されています。マイルスのイニシアティヴで作成された盤ですが、この盤の雰囲気を決定づけたのが、ミケランジェリのレコードの影響を受けたエヴァンスのピアノでした。響きは湿潤感に満ち、静謐で格調高く、一言で言って、それまでのブルージーで躍動するかのようなジャズのピアノ奏法とはっきりと一線を画すものでした。「ブルー・イン・グリーン」を始め、全曲のいろいろなところに、ラヴェルのピアノ協奏曲第二楽章の存在を聴き取ることができます。マイルス・デイヴィスも、「自分とビルは、ラフマニノフとラヴェルのピアノ協奏曲に凝っていた。あのレコード(Kind of Blue) のどこかにその要素が含まれている」、と回顧しています。
ただ、マイルス自身は、「Kind of Blue」を「好きな録音」と認めた上で、その出来に失望を表明しています。マイルスは響きの変革というよりは、奏者間の自由なインタープレイを促進するためにモードを採用しました。しかし、この盤でそれが達成される事は無く、個々の奏者は順々に、おとなしくソロを取るのみでした。一方のエヴァンスは、特定のモードを使うことで生まれる新しいサウンドを主眼に置いていたように思われます。彼の非ジャズ的なピアノによって、フランス印象派音楽に似た、青白色の中性的な響きが全編を覆うこととなりました (ウィントン・ケリーがピアノを担当した2曲目だけは雰囲気が違います)。この響きがこの盤の歴史的地位を決定づけ、その後のジャズの流れを大きく変えたと言っても過言でもないでしょう。
もしミケランジェリのEMI盤の存在が無ければ、エヴァンスはあのようなピアノを「Kind of Blue」で弾くことは無かったでしょう。そして、「Kind of Blue」から始まった、モード主体のモダン・ジャズの響きは今とはだいぶ異なったものになってかもしれません。...........ちなみに、ミケランジェリはエヴァンスとは面識はなかったようですが、エヴァンスが尊敬するオスカー・ピーターソンとは親交があったようです。
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6/10/2007
「未発表作の原稿2つ」
1970年6月に書かれた未発表作「Untitled(Allegro Moderato)」と、1980年6月に書かれた、「Japanese Monody」の原稿を「資料室」(クリック)に掲載しました。後者は、ピアノ音楽名盤選(http://ameblo.jp/pianophilia/)の木下さんから提供していただいたものです。
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6/7/2007
「二題」
Washington Post紙に書いているTim Pageと、Boston Globe紙のRichard Dyerが、Lost Geniusのために文章を寄せています。英語版のWhat's new (クリック)で全文を載せておりますので、興味のある方はぜひどうぞ。グールドにインタビューもしたTim Pageは、「偉大な音楽伝記の一つ」、Dyerは、「彼の人生は奇妙で予想のつかない「幻想交響曲」」「共感、洞察、ユーモア、人間性と適切なレベルの驚きをもって導く」と賞賛しています。
もう一つは、まったく別の話。
http://www.alligator.org/pt2/070529plagiarism.php
http://www.gainesville.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20070512/LOCAL/705120341/-1/news
帰国した際に、とあるパーティで出た話題が記事になっていました。ニレジハージを再発見し、数々の歴史的録音の発表に関わってきたグレゴール・ベンコーが、ある本の「盗作に関与した」疑いです。とは言っても、ベンコー自身が「盗作」を行ったわけではなく、ベンコーが、彼と共同作業をおこなっていた人物(ブリックスタイン)の原稿を、本人に無断で他の作家ミッチェルに渡してしまい、ミッチェルが渡された原稿を下敷きにし、しかもブリックスタインをクレジットもせずに本を出してしまった、という話です。2001年の話です。
本の素材は、「性的放埒」とされたピアニストのウラディミール・パハマン(映像)で、伝記はインディアナ大から出版されました。しかし、4年後にベンコーらの抗議を受けて回収されています。記事は、ここ数年間の纏めと、年金生活者のブリックスタインの訴訟を助けるためにベンコーが募金を募っている、という話が書いてあります。彼は自身のwebでもキャンペーンを張っています。
2本の記事ともベンコーの発言が多く紹介されており、明らかにベンコーはブリックスタインと共に「盗作」の被害者、ミッチェルは加害者、という立場で書かれています。ただ、本当のところはどうだったかを知る術はいまのところありません。実際、これらベンコー寄りの記事を読んでも、「トラブルの責任は、誰よりもベンコーにあるのでは」、という印象を持ちました。例えば、ベンコーは20年間も共同作業を行っていたブリックスタインを、1990年代後半の段階で勝手に死亡と判断、他人であるミッチェルに原稿を渡してしまっています。しかもそこで伝記執筆まで依頼。「盗作」に積極的に加担する意図はなかったとしても、「盗作」の状況を作った責任は免れません。ただ、これについては、ベンコーは深く反省しているようです。
もう一つ思ったのは、「盗作かどうかは置いても、ミッチェルも安易な仕事をしたものだ」、ということでした。ミッチェルの弁護士のコメント("He didn't just take someone else's work and put his name on it," Vermut said. "He worked on it for over a year.")から判断すると、ミッチェルは、「1年以上」しか伝記に費やしていないことになります。Kevin BazzanaがLost Geniusに10年以上費やしたことを考えると、作家個人のスタイルの差を考えたとしても、「1年以上」というのは伝記の調査・執筆には短すぎるように思います。明かにブリックスタインの原稿が無ければ本は到底出来なかったでしょう。共著にするなり、それ相応のクレジットを与えるべきでした。
どうも、すっきりしない話です。救いは、本当の被害者と言えるブリックスタインが今回の騒ぎから、一歩距離を置いたコメントを残していることでしょう。「自分がやりたいのはパハマンに奉仕すること」「私は自分の本を出版し、パハマンの汚名を注ぎたい。それだけが問題だ」。訴訟にも興味がないようです。
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6/6/2007
「レントより遅く」
未発表音源を一つ。1973年、Old first Churchの演奏会から、ドビュッシーの「La plus que lent」をアップロードしました(「ニレジハージの晩年の未発表録音」参照)。「二つの伝説」の後に弾かれています。ニレジハージ節が全開、ノスタルジックかつ浪漫主義的な演奏です。セピア色の情景が見えてきませんか?
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6/4/2007
「平和の使途たち」
1980年の日本公演を収録したLP、「平和の使途たち」のレビューを「晩年のニレジハージの録音」(クリック)に載せました。この盤については、実際に制作に携わった方々の話をきいておりまして、そこで得た情報も多少入っています。
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6/3/2007
1945年の秋に作曲された、無題のピアノ作品の原稿を「資料室」にアップロードしました。未発表作品です。
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6/1/2007
「二つの伝説」あれこれ
Peter Gutmannという、音楽評論家が運営しているページに、Desmar盤の「二つの伝説」の演奏のことが言及されています(http://www.classicalnotes.net/features/joachim4.html)。
「これは、おそらく、録音史上、もっとも強烈な演奏である」
一度でもこの演奏(クリック)を耳にすれば、彼の言葉が決して誇張でないことがわかるでしょう。ニレジハージはこの時、波の中を突き進む聖フランシスに、様々な困難と闘ってきた自らの人生を重ねあわせて弾いたようです。心情的にも芸術的にも最高の演奏が出来たと感じており、Desmar盤に収録することを強く主張した、という話です。おなじコンサートで、「波間」と対として演奏された「小鳥と話すアッシジの聖フランシス」も素晴らしい演奏です。こちらはサイトには載せることはありません。9月発売予定のMusic and Arts 盤で聴いていただければ、と思います。
このリサイタルの録音を聴くと、ところどころピアノの音程が狂っているのがわかります。これは、ニレジハージの並外れて強烈な打鍵と、ピアノの質の問題です(彼はピアノへのこだわりはあまりなかったようで、お世辞にも良いとは言えないピアノで録音されたものが残っています)。この時のピアノは、あまり状態の良くないボールドウィンでした。
このリサイタルが行われたサンフランシスコのOld first churchの正式名称は、Old First Presbyterian Churchで、今でもコンサートや結婚式などに使われています。以下のリンクから写真を見ることができます。
http://www.oldfirst.org/weddings/photos/chancel/
更新情報)幡野好正さん撮影の、1982年来日時のニレジハージの写真(#13)を「資料室」に掲載しました。