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「ローマの祭り」はどのように着想されたのか

一枚の手紙というものは、驚くほど多くのことを教えてくれるものである。

レスピーギからスタンウェイ社のアーネスト・ウルクスに宛てられた手紙(筆写蔵)。二段目右側に「Toscanini」の文字が見える。

ウルクス様

私たちは、あなたに会えぬままに、そして握手もできないままにアメリカを去らねばならないことを残念に思っています。ツアーは大変うまく行き、どこへ行っ てもすばらしい成功と熱狂的な歓迎を受けました。とても感謝しています。私がこの国で素晴らしいスタインウェイで演奏することができたこと、(複数の) オーケストラを完璧に指揮できたこと...まったくあなたのおかげです。トスカニーニは、来年、ここで初演するためのシンフォニックな曲を作曲するように 私に頼んできました。私はそれを約束しました。その初演に立ち会えると良いな、と思っています。

とても大事なことなのですが、まだ行ったことのない街で指揮し、そして妻と一緒に室内楽コンサートを開きたいと思っています。あなたが約束してくれたこと をあてにしているのです。あなたの手に私たちをゆだねています。私の一番大きな願いは、NYフィルで私の作品を指揮することです。

私は明日の夕方、Albert Ballin号でハンブルグへと発ちます。三月中頃までの私たちの住所は、アムステルダムのコンセルトヘボウです。それからローマのPiazza Borghese、Palazzo Borgheseになります。

ウルクス様、どうか暖かく、友情に満ちた挨拶をお受け取りください。私たちは、最大の敬愛の念を持って、あなたの手を握ります。ご自愛のほどを。

オットリノ・レスピーギ

Dear Mr Urchs,

We very much regret leaving the United States without having seen you again and without having been able to shake your hand. My tour went wonderfully with extraordinary success and enthusiastic receptions everywhere. I am very grateful to you and owe it entirely to you and your interest that I’ve been able to come here to play on the wonderful Steinway and to conduct these orchestras of such perfection. Toscanini has asked me to write a new symphonic piece for him to premiere here next year and I promised it to him, with the hope of being here for this premiere.
As it means very much to me I would like to conduct concerts in cities where I have not yet been and to have chamber music concerts with my wife. We especially count on your support that you have promised us and we place ourselves entirely in your hands. My greatest desire will be to be able conduct a concert of my compositions with the New York Philharmonic.
We will leave tomorrow evening for Hamburg on the Albert Ballui (Ballin?): our address until mid March will be: Concertgebouw Amsterdam, and then in Rome: Piazza Borghese , Palazzo Borghese.
Dear Mr Urchs, please accept our warmest and friendliest greetings. We shake your hand with all of our gratitude.
I wish you well,
Ottorio Respighi
(I have deposited my photo with Mr Majewski for you.)



レ スピーギは1925年暮れから1926年初頭にかけ、ニューヨークを中心とする最初のアメリカツアーを行った。メンゲルベルク指揮のニューヨークフィルと の共演、フィラデルフィア管弦楽団のゲストコンダクターやソロイストとして、数々のコンサートを行っている(1925年10月25日付New York Times紙)。彼が臨席した重要なイベントとしては、後述する1926年1月14日に、カーネギーホールでトスカニーニ指揮ニューヨークフィルによる 「ローマの松」のアメリカ初演である。さらに、1月9日のスタインウェイ社によるパーティ(1月11日付けNew York Times)、2月8日でのイタリアーアメリカ協会での歓迎イベントなど(1926年2月9日New York Times)、各種のイベントに参加しており、時の人として多忙な毎日を送っていたようである。この手紙は、彼が当時行った最初のアメリカツアーの最終地 として滞在していた、ニューヨークのホテルを出立する前日、1926年2月14日にフランス語で書かれている。

Mr. Urchsとは、1890年頃から、高年齢化の進んでいたスタインウェイ家の人々に変わって、Steinway&Son社を取り仕切ったアーネス ト・ウルクス(Ernest Urchs)である。ウルクスは、パデレフスキー、ヨーゼフ・ホフマン、ラフマニノフなどとも親しい関係にあり、さらに若きホロヴィッツを発掘して、アメ リカデビューをマネージングするなど、ニューヨークの音楽界のフィクサー的存在だったらしい(http: //www.reinaert.albrecht.easynet.be/thesis/Thesis/node20.html)。1925年には、スタ インウェイホールの落成コンサートで詩を読みあげて喝采を浴びている。このコンサートには、スタインウェイ家のみならず、メンゲルベルク、ラフマニノフ、 ホフマンなど、時の大物がずらりと参席している(1925年10月18日付New York Times)。ウルクスは1928年7月に64歳で亡くなり、多くの音楽家が弔問に訪れたという(1928年7月13日付 New York Times )。ウルクスとレスピーギは度々、手紙のやりとりをしていたらしく、スタインウェイ・ピアノを賞賛するレスピーギ筆のウルクス宛手紙がもう一通残ってい る。

この手紙の書かれた一月前の1926年1月10日に、Steinway&Son社の新しいビルディングでトスカニーニとレスピーギの歓迎パーティ が行われ、多くの音楽家とイタリア系市民が参加した。この時に、レスピーギはウルクスに会っていると思われるが、おそらくその以前から、アメリカ・ツアー のサポートを受けていたのだろう。手紙の中で、レスピーギは成功の内に終わったアメリカツアーに関して、「素晴らしい成功と歓迎」と表している。さらに、 「私がこの国に来ることが出来て、素晴らしいスタインウェイで演奏することができて、(複数の)オーケストラを完璧に指揮できたのは、まったくあなたのお かげだ」と言う謝意を表している。この冒頭部分からは、レスピーギの中での、ウルクスという人物の位置の重要度が伺える。


ローマの祭の作曲動機の言及か

20世紀前半までは、作曲家が指揮者を兼ねることが多かったが、曲が複雑になるにつれ、指揮と作曲は分業化した。20世紀において、優れた指揮者として歴 史に名を残した、いわゆる大作曲家は、ともにウィーン国立歌劇場の監督をつとめたリヒャルト・シュトラウスとマーラーくらいである。バーンスタインやブー レーズは、優秀な指揮者であり、誰もが知る作曲家ではあったが、「ウェスト・サイド・ストーリー」「主なき槌」をのぞいて、一般に知られた曲は少なく、指 揮者としての名声が高い。フルトヴェングラーやクレンペラーともなると、彼らが作曲活動をしていたことさえ知らない人が多いのではないか。

多くの場合は、指揮者と作曲家は共同作業で互いのキャリアを発展させてきた。ベルクにはベームやエーリッヒ・クライバー、シベリウスにはオーマンディ、 ショスタコーヴィッチにはムラヴィンスキー、武満には岩城や小沢、ラウタヴァーラにはセーゲルスタムという同時代の優れた解釈者がいた。偉大な指揮者で あったシュトラウスでさえ、ベーム、クラウスという同時代の指揮者達が、作品の普及に尽力した。そしてレスピーギには、他ならぬアルトゥーロ・トスカニー ニが伝道者だった。ただ、トスカニーニは、ヴェルディに面と向かって反論するような気概とプライドの持ち主である。かつて、自分が振ったオーケストラの ヴィオラ奏者だったレスピーギを、軽く扱う事があったとしても不思議ではない。

それを裏付けるエピソードとして、「ローマの松」アメリカ初演に際しては、トスカニーニはリコルディ社に、他の指揮者の楽譜の使用の禁止を命じた、という ことがあった(Adrian Conversations with Elsa Respighi)。これなど、著作権収入をあてにする作曲者にしてみればたまったものではないだろう。また、「ローマの松」のアメリカ初演はセンセー ショナルな成功を収めたが、その際、指揮のトスカニーニは一人で何度も喝采に応え、夫人のエルザにすすめられて立ち上がるまで、客席に座っていたレスピー ギは放っておかれた。トスカニーニはそのレスピーギの肩に手を置いて、「来たまえ、レスピーギ。私の成功を一緒に味わおうじゃないか!」と言った、という(Adrian Conversations with Elsa Respighi)。

この手紙は、その「ローマの松」のアメリカ初演の、ちょうど1カ月後に書かれているのだが、ここに、

「トスカニーニが、来年、この街(NY)でシンフォニックな作品を初演できるよう、自分に新曲をつくるよう依頼してきた。私は、その初演に立ち合いたいと約束をした」


NYフィル事務局によれば、1926年以降、4作品を世界初演している。このうち、トスカニーニが指揮したのは、「ローマの祭」である。

という重要な一文がある。この手紙の2年後、トスカニーニは、1928 年にニューヨークフィルの監督に就任することとなっていた。「ローマの松」アメリカ初演の大成功に気を良くしたトスカニーニが、監督就任の際はレスピーギ 新作の世界初演で、と考えたのかもしれない。重要なことと言うのは、この手紙が書かれた1926年という年は、「ローマの噴水」「ローマの松」に続く、 ローマ三部作の最後の作品である、「ローマの祭」の作曲が始まった年と一致することである。「ローマの祭」は1928年に完成し、1929年初頭に、周知 のようにトスカニーニ指揮のNYフィルハーモニーによって、ニューヨークで世界初演が行われた。レスピーギは手紙で「来年」と言っているので、実際の 「ローマの祭」の初演の年とは2年の違いがある。しかし、複雑な管弦学法を駆使した曲でもあるし、記録を調べると、1927年はレスピーギはメトロポリタ ンでの新作オペラの初演準備などで、大変多忙であった。それらを考慮すれば、曲の完成がずれこんだのはそう不自然ではない。実際、この手紙が書かれた後、 NYでレスピーギの”シンフォニックな”新作が初演されたのは、「ローマの祭」が最初である。私は、この手紙は、「ローマの祭」の作曲の端緒となったもの が、トスカニーニの依頼であったことを示唆する重要な資料であると考えている。

最後の段落で、「私の最大の願いは、私自身がニューヨークフィルハーモニーを指揮して、自作を演奏することです」と書いてあるのも興味深い。一月前のトスカニーニの振る舞いが残した傷跡が見えるようである。

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