復活(1972-1980)





"Nyiregyhazi plays Liszt" でニレジハージは劇的な復活を遂げた。

放浪生活を重ねていたニレジハージが三たび、大きな脚光を浴びたのは、 彼が70歳、1973年のことである。この頃になると、歴史的録音を知る関係者の間では、彼ははるか昔に死んだ、とさえ思われていた。ニレジハージはそん な中、重い病におかされた9番目の妻の治療費を稼ぐため、1972年から小さなコンサートを開きはじめ、曲間に聴衆からいくばくかの寄付を募ることを決め る。そんな1973年、サンフランシスコ郊外の小さな教会、Old First Churchでのコンサートにおいて、リストの「二つの伝説」の演奏が、聴衆の一人のカセットテープによって無断で録音された。そして、録音した人物の上 司が、現メリーランド大にあるInternational Piano Archiveという組織を設立し、現在も歴史的録音発掘の第一人者であるグレゴール・ベンコーであった。録音は劣悪であったが、ベンコーは演奏の怒濤の ような迫力に興奮し、スラムにいたニレジハージを探し出し、レコード作成を申し出た。1974年、スタジオ録音が行われ、その一部がベンコーによって Desmar labelから発売されたのである。これが、「Nyiregihazi plays Liszt」である。この盤には、ニレジハージ発見のきっかけとなったライヴ録音も同時に収められた。それがリストの「二つの伝説」で、その「波間を渡るパオロの聖フランシス」の演奏は、近代ピアノ奏法に慣れきった人々を驚愕させた。この録音は、文字通り、ニレジハージの伝説となったのである。

レコードは瞬く間に評判となり、マックジョージ・バンディ(フォード財団会長)さえ動かした。フォード財団はベンコーとニレジハージに活動資金も与えてい る。レコードの評判はアメリカならず、毎日新聞報道などで日本にまで伝わり、ニレジハージ来日に関わった人々が動くきっかけとなった。さらにCBSから2 枚のLPが発売された。その頃には、Desmar盤に対するピアニストのギャリック・オールソン、ホルヘ・ボレ、アリシア・デ・ラローチャ、評論家のハロ ルド・ショーンバーグらによる賛辞も広まった。彼の数奇な一生の物語も手伝って、ニレジハージは一躍、マスコミの寵児となった。CBSから発売された新し いアルバムはビルボードチャートのクラシック部門トップ3にまで上り詰める。しかし、ブームというものは、その逆の流れも生む。一部の専門家からは彼の旧 式なスタイル、衰えが隠せないテクニックへの批判も招いた。ウラディミール・アシュケナージは批判派の筆頭である。そういった喧噪のさなか、ニレジハージ は、相変わらずロスの安ホテルに住み続け、古風でユニークな曲を作り続けていた。


この時期のニレジハージに関わった著名な人々など)

ハロルド・ショーンバーグ
20世紀後半を代表する音楽評論家の一人。著作に、「偉大な指揮者達」「偉大なピアニスト達」がある。1970年代のニレジハージのリバイバルには、 Desmar盤への彼の絶賛が大きい。しかし、ショーンバーグは70年代後半あたりから、技術的な衰えが顕著になったニレジハージには好意的でなくなって おり、1996年にはかなり辛辣なコメントを残していた。

マクジョージ・バンディ
若いころから俊英としてしられ、若干30代でハーバードの学部長となる。ケネディ政権で、国家安全保障問題特別補佐官を務めた。ロバート・マクナマラ国防 長官とならんで、「ベスト・アンド・ブライテスト」の筆頭にあげられた1人である。キューバ危機にはどちらかと言うとタカ派的な立場をとった。この模様 は、映画「13 デイズ」に詳しい。

グレゴール・ベンコー
International Piano Archiveの会長。ニレジハージを1973年に見いだし、経済的なサポートを行い、Desmar盤を含む彼のレコードをプロデュースした人物として大 きな功績がある。70年代後半から、録音セッション時の些細な誤解から、ニレジハージとの間はやや疎遠になった。90年代にベンコーがプロデュースしたリ ストの狂詩曲集はフランスの著名なディスク賞を受賞している。