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アダという名の女



アルトゥーロ・トスカニーニとウィルヘルム・フルトヴェングラーは、ともに後世に多大な影響を与えた二人の偉大な音楽家であり、ライヴァルであった。1930年の中頃、政治と音楽の関係をめぐり、はげしく衝突し、そして別れて行った。しかし、二人は最初から仲が悪かった訳ではない。トスカニーニは、当初、音楽家としてのフルトヴェングラーに敬意をもっていた。常任指揮者を務めていたNYフィルをやめた時、自身の後任に推薦したほどである。しかし、その任をフルトヴェングラーが断わった際、宣伝大臣ゲッペルスらの巧みな策謀によって、あたかもフルトヴェングラーがナチのお抱え指揮者のような印象をアメリカ中に与えてしまったという事件が起きた。これが二人の間に影を落とすこととなった。それでも、その数カ月後に、フルトヴェングラーがパリでトスカニーニと会食した際には、二人の間はそれほど険悪な雰囲気ではなかったようだ。フルトヴェングラーによれば、二人の会見は以下のようであったらしい。

「私は、トスカニーニと一時間半、一緒にすごした。彼は、アメリカの話を断わったことで、厳しく私をなじった。しかし、それ以外では、とても楽しい会話をかわした。人々がよく話していた彼の人となりについて、よく理解できる。」

しかし、この後、二人の関係は極端に悪化してしまう。1937年夏(おそらく8月27日)、ザルツブルグでの激論にはじまり、その後、決定的な決裂へと向かう。トスカニーニとブルーノ・ワルターが中心になって行う予定だったザルツブルグ音楽祭において、フルトヴェングラーが急きょ参加したことに端を発する。これは、フルトヴェングラーの参加に当局の意向が関わっていた上、その決定がトスカニーニの預かり知らぬところでなされたことが、トスカニーニを激怒させた。

この時のトスカニーニとフルトヴェングラーとの会話については、二つのヴァージョンが伝えられている。トスカニーニの伝記作家の筆を借りれば、トスカニーニのコンサート後に楽屋で交わされた会話は以下のようである。

トスカニーニ「君には会いたくない」

フルトヴェングラー「なぜですか?」

トスカニーニ「君はナチだからだ」

フルトヴェングラー「それは違う!」

トスカニーニ「いや、そうだ。君が党員証を持ってようがいまいがだ。君はロンドンでユダヤ人とランチを食って、西側の印象を良くしようとしている。そのくせ、ドイツではヒットラーのために働いているんだ」 

フルトヴェングラーの伝記作家は、会話は以下のようであったと記している。


トスカニーニ「現状において、奴隷状態にある国で指揮する音楽家が、同時に自由な国で同じことを行うなどあってはいけない。もし、君がバイロイトで指揮するのなら、ザルツブルグで指揮すべきではない。」

フルトヴェングラー「私は、数カ月前、あなたがNYに招待し、それを受けなかったとして、あなたがなじったのと同じ人間ですよ」。

トスカニーニ「当時は事情が違った。今日の世界では、どちらか一つを選ばなければいけない。」

フルトヴェングラー「もし、あなたがここで活動されるというのなら、私はザルツブルグに来るのを遠慮します。(しかし)個人的に思うに、奴隷状態にある国も、自由な国も存在しません。人間は、ベートーヴェンやワーグナーが演奏される場所なら、どこでも自由であり得るのです。もし、人間が自由でなかったとしても、それらを聴いている間は、自由になれるのです。音楽は、人間をゲシュタポの手の届かない高みへとつれだします。」
「もし、私がヒットラーによって支配される国で、素晴らしい音楽を演奏したら、私はヒットラーを代表するのでしょうか?逆に、偉大な音楽によって、私はヒットラーに対向することになるのではないでしょうか?なぜなら、偉大な音楽というものは、ナチの精神的な無価値とは対極にあるからです。違いますか?」

トスカニーニ「(首を振り)第三帝国で指揮棒をとるものは、全てナチだ!」

フルトヴェングラー「ならば、あなたは、芸術と音楽は、権力の地位にある政府の宣伝道具に過ぎないと言うのですか?もし、ナチが政権の場にあれば、そこで指揮をする私はナチで、もし共産主義政権なら、私はコミュニスト。もし民主政権の元であれば、私は民主主義者........。違います!。絶対に違います!。音楽は、違う世界に属するものです。政治よりずっと高次のものです。」

トスカニーニ「(首をふって)私は同意できない!」
(Furtwangler records)

この会話は、二人の芸術へのアプローチの違いをそのまま示していて興味深い。彼等の論点のみに的を絞れば、トスカニーニの言うことが正論で、フルトヴェングラーは、詭弁を弄しているようにも聞えなくもない。好意的に見ても、フルトヴェングラーのは、あまりにナイーヴな、哲学青年や詩人のような理屈にも聴こえる。しかしそれは、平和な時代にいる後世の人間だから言えることであって、当時、ナチの危険性、残虐性を正確に認識するのは、その中にあったドイツ人にとって、そう簡単ではなかったに違いない。また、二人の政治に対する現状認識の違いは、トスカニーニが1920年代に、イタリアですでにファシズムの洗礼をうけていたことを抜きにして語れない。トスカニーニも当初、ムッソリーニを支持していた時代があったのだが、少しずつ、ファシズムの本質について、というより、自分の権威に挑戦するものとして、独裁政権に強烈な反感を抱き始めるという時間的余裕があった。トスカニーニが幸運だったことは、ムッソリーニが、ゲッペルスほどの頭脳と冷酷さを持っていなかったことである。ムッソリーニにはどこか抜けており、トスカニーニにはムッソリーニへの共感を反感に変える、という作業をする時間と環境があった。しかし、フルトヴェングラーは、不幸なことに、この過程を経ることなく、気がついたらナチに取り囲まれてしまったような状態であった。

いずれにせよ、この激論の後、トスカニーニはフルトヴェングラーを一切拒否し、それは死ぬまで変わらなかった。フルトヴェングラーに対する非難は激越で、しかも感情的である。不思議なのは、トスカニーニの非難はフルトヴェングラーや、彼を擁護する人物(トマス・ビーチャム)に向けられた時のみ、その舌鋒の鋭さを増すのである。例えば、同じくナチに協力させられたリヒャルト・シュトラウスについては、そのような言動が見当たらないどころか、トスカニーニはせっせとシュトラウス作品を演奏し、作曲家の懐を印税で潤してさえいる。これでは二重基準と言われても仕方がない。フルトヴェングラーについて、何か他に含むところがあったのではないかと考えるのが自然である。

近年発見された資料を纏めた、 「トスカニーニ書簡集:The letter of Arturo Toscanini/Harvey Sachs」によって、フルトヴェングラーとトスカニーニの間には、年甲斐もない三角関係のもつれがあったことがわかった。以下の手紙の相手は、トスカニーニの老いらくの恋の相手、アダで、彼女は部下のチェリストの夫人だった。トスカニーニは、 膨大な、かつセクシャルなラヴレターを彼女に書いており、トスカニーニにとって不幸な事に、アダがそれを保存していたようである。それらの手紙には、トスカニーニの本音が生のまま現れており、読み手をたじろがせる。以下は、ザルツブルグの決裂の後に書かれた、数通の手紙からの抜き書きである。

「フルトヴェングラーのことだ! 8月27日の会話(上に挙げた会話)で、私はザルツブルグでの状況をはっきりさせたつもりだった。その後、かれは恥知らずにも次のシーズンのコンサートをやりたいとゴネだした。ウィーン子とパートナー大臣は、この問題をむしかえしてきて、彼にコンサートをさせてほしいと私を説得しはじめている。最近の男はどうなっているんだ?明らかにライオンの勇気をもっていない!」

「フルトヴェングラー、ピエロであり、自己宣伝者。」

「もう墓のようにだまることとした。彼(フルトヴェングラー)には言いたいことを言った。もう十分だ!」。

「フルトヴェングラーとその夫人にはいらつかさせられる。(中略)君(アダのこと)の愚かな友人達、少なくとも、君を賞賛している連中(どちらもフルトヴェングラーのこと)には、一瞥もくれたくない。」

「ヤリみたいな頭をもった間抜けな性格の男(フルトヴェングラー)は、私を落ち着かなくさせる。そして、彼は絶対に君を追っかけている。頭に来る。」

「本当のことを教えてくれ。君がベルリンを去って、ミュンヘンに行った時、フルトヴェングラーのコンサートに行くためだったんだろ?本当の事を教えてくれ、アダ。全て本当の事をだ!私は、あいつが君に気があることを知っているんだ。彼は、あらゆる機会を利用して、君に会いに行くんだ(パリのことを覚えているぞ)。私は、ヴィニフレッド・ワーグナーの娘のマウシ(ナチ化されるワーグナー家を嫌って亡命、トスカニーニの庇護にあった)からきいて知っているんだが、彼は女に眼がない。老若美醜を問わずだ!」

この頃、トスカニーニは70を超えていたはずだが、嫉妬剥き出しのこの手紙の若々しさ(というか幼さ)はどうだろう。なによりも、二人の巨人の対立が政治的な理想、あるいは芸術性の違いから来るものと考えてきた人間にとっては、結局のところは三角関係が原因、とはなんとも拍子抜けする話である。巨匠達も人間だったということか。

(追記)

戦時中のフルトヴェングラーの立場については、「Taking Sides」という戯曲が詳しく、映画化もされている。スタツガード演じるフルトヴェングラーは、連合国の裁判(いわゆる「フルトヴェングラー裁判」)のために、取り調べを受けることとなる。ドイツ国民から、「ドクター・フルトヴェングラー」と敬愛の念を持って呼ばれてきた彼は、カイテル演じるアメリカ憲兵から、「よう、ウィレム」と呼び捨てにされ、ひどくぞんざいな扱いを受ける。憲兵は、明らかに、ブッシュ的なアメリカ正義の具現者である。その論理は黒か白、と単純で、しかも無教養な人物だ。映画の中で、フルトヴェングラーはトスカニーニとの会話に出てくる主張を繰り返すのであるが、憲兵はフルトヴェングラー的な中間色の答えに納得しない。それどころか、フルトヴェングラーを容赦なく断罪し、罵倒するのである。映画は、明らかにフルトヴェングラーに同情的で、憲兵を善悪二元論に陥った単純で粗暴な人物として描いている。

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