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作曲家の意図を探る:「ダンテ・ソナタ」の一音

Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)

楽譜は作曲家と演奏家をつなぐ糸である。特に、自作自演録音が残っていない過去の大作曲家の作品の場合、演奏において拠り所になるのは楽譜だけだ。問題なのは、楽譜が常に正しいとは限らない ということである。写譜職人が間違えることもあれば、作曲者の手書きが汚くて判読不能の場合もある。さらに、単純に作曲家が間違えていることがある。自筆譜を 見ることで解決できればいいのだが、自筆譜そのものに問題がある場合は面倒だ。後世の演奏家や研究者は、作曲家が本来意図したであろう事を、前後関係から読み取とっていかねばならない。フラ ンツ・リストの傑作、巡礼の年第2年の「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲(ダンテ・ソナタ)」を例にとって、その難しさを示してみたい。

問題の箇所は、「ダンテ・ソナタ」の第300小節だ。ここでは右手が美しい逆アーチ型の旋律を奏でる。現在出版されている楽譜によれば、下降フレーズはA-G-F#で弾かねばならない
。以下に第300-301小節を示す。



楽譜の指定通り、
A-G-F#で弾いているのが、ワイルド、ボレ、シフラ、ハフ、アンスネス、ドヴァイヤンといったピアニスト達である。ボレの録音では13分43秒のあたりに相当する。
http://www.youtube.com/watch?v=lofObtfowEw

ところが、その一方で、Gを楽譜に無いG#に勝手に置き換えて、A-G#-F#と弾くピアニストが非常に多い。実はこちらの方が数の上では主流と言ってもいい。
ヴィラーニの録音の14分25秒がその箇所にあたる。他には、ニレジハージ、アラウ、ブレンデル、 ヴォロドス、アムラン、ソフロニツキー、プレトニョフ、オグドン、ベルマン、ブラウニングらがG#を弾いている。

ボレはローゼンタール、シ フラはトマン、ニレジハージはラモンド、アラウはクラウゼ、といずれもリストの高弟と呼ばれる人々に学んでいる。つまり、「リスト直系の孫弟 子」の間でさえこの箇所については意見の統一がとれていないのである。この事は、リストがこの箇所に関して弟子達に明確な指示を残さなかったことを示している。

果たして、GとG#、どちらがリストが意図した音符なのだろうか。

アンジェロ・ヴィラーニにこの件を訊いてみたところ、彼も学生時代に疑問に思ったことがあるらしい。彼がハイペリオンでリスト全集を録音したレスリー・ハワードに質問したところ、ハワード は「G#が正しい」と答えた。その根拠として、ハワードは以下を挙げたという。

1) 現在出版されている楽譜はリストによる自筆楽譜の最終稿を元にしている。最終稿である第三稿はA-G-F#となっているのだが、第一稿と第二稿ではA- G#-F#となっている。リストは第三稿でシャープを書き忘れた可能性が高い。

2) 楽曲の別の箇所で登場する旋律もA-G#-F#の並びになっている。

もちろん、リストが第三稿で突然考えを変えた可能性があるので、(1)だけではG#を採用する理由にならない。(2)が判断要因の一つとなる。登場するという旋律を一つ一つ点検してみよう。

リスト在世中の1858年に出版されたSchottの楽譜を調べて みると、A-G#-F#、あるいはA-G-F#は楽曲の中に以下のような形で5度登場している。

Bar 108: F#-F-Eflat (A-G#-F#型)


Bar 112: C#-B#-A# (A-G#-F#型)


Bar 296: D-C#-B (A-G#-F#型)




問題のBar 300: A-G-F#



Bar 314: D-C#-B (A-G#-F#型)



以上、ハワードが指摘するように、問題の第300小節を除き、全てA-G#-F#の型をとっている。この事から、
第300小節もG#の方が自然、と見る事も出来るかもしれない。

一方、フレーズというものは常に修飾を受けるから、曲中の旋律が全てが同じになる必要はない。例えば、第318小節では、
D majorへの転調が起きており、フレーズの展開も完全ではない。そのためにメロディが若干の変更を受けており、B-A-Gという、A-G-F形式のフレーズが登場している。この点を鑑みると、第300小節A-G-F#の流れは必ずしも異端とは言えない。



問題は、第300小節において、A-G-F#に
音楽的な整合性があるかどうかにある。私は奏法にこれを解く鍵があると思う。ここでのトリル奏 法は高音域で音が シャンデリアのように煌めいており、この箇所に輝かしさをもたしている。次のセクションのクライマックスに向けて、輝かしさを保ちつつ、緊張感がゆるやかな上昇カーヴを描くべき箇所であるこ とが示唆 されている奏法とも言える。この中でほの暗いA-G-F#を弾いてしまうと、A-G#-F#に比して輝かしい奏法との齟齬が生じるだけでなく、二小節に渡って展開されるべきA majのアーチの緊張感が弱まってしまう。

一方で、アンスネスがそうしているように、トリルで弾かれるセクション全体をごく抑えて弾けば、
A-G-F#と奏法の間の整合性はとれな くもない(実際、楽譜での指定はpp)。だが、同じ奏法で弾かれた直前の296小節がA-G#-F#であることを考えると、リストがこの第300小節のみで、アンチ・クライ マックスを招きかねないGを導入しよう とした理由を見いだすのはちょっと難しい。ここはG#の方が流れは自然と言えるのではないだろうか。

一方で疑問も残る。もし、「書き間違え」のまま出版されたのであれば、なぜ、
作曲家は自らの弟子達に注釈を与えなかったのか?前後の流れが自然、という理由だけで奏者による勝手な改変が許されるのか?もしかしたら、作曲家は「唐突な」アンチ・ クライマックスを導入することで、続く箇所での劇的効果を強めようとしたのではないか?なにより、自作を改訂することで知られた作曲家が、なぜこの曲に関しては在世中に出版された楽譜を「訂正」しようとしなかったのか?

こういった疑問からか、あるいは単なる楽譜至上主義からか、今も楽譜に従ってA-G-F#を弾くピアニストは少数派ながら存在する。そして、彼らが間違っているとは誰にも断言できない。私個人はG#がかなりの確率で正解だと思っているが、究極的にはあの 世にいる作曲家本人に訊ねるしか答えを得る手段は無い。作曲家の最終稿の権威を突き崩すのはなかなか容易ではないのだ。

(6.17.2013)

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