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隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム


ベーム死後の評価の変遷

今年(2011年)の8月14日は指揮者カール・ベームの没後30年にあたる。この20世紀後半を代表する名匠については、かつて、日本では熱狂的な支持があった事が知られている。しかしその反動からか、今では人気や評価の凋落が激しいとも言われている。

これには以下のような理由が考えられる。一つは、ピリオド楽器によるモーツアルト演奏の流行で、ベームの大オーケストラによる演奏スタイルが時代遅れとさ れるようになったこと。二つ目は、80年代頃から、日本でブルックナーやマーラーの交響作品のブームが起こり、複雑なスコアを持つベルクやシュトラウスな どのオペラ録音に傑作が多いベームの真価を解する能力を持つリスナーが相対的に減ってしまったこと。さらに、ベームの晩年になされた一連のスタジオ録音が、いず れも巨匠風の中庸をとるスタイルのものであったため、端正さよりも覇気、熱狂、情熱、雄大さ、と言った、誰にでもわかりやすい解釈を求めたがる、昨今の日本の風潮と合 わなくなってしまったこと。最後の二つに関しては、実のところ日本のクラシック市場の特殊性もある---80年代後半から初心者を中心にカルト的人気をも つようになった、とある批評家の偏った趣味による影響は決して無視できない。

一方、欧米でのベームへの人気の浮沈は、日本とはかなり様相が異なるものであった。クリスタ・ルードヴィッヒが生前のベームに関して、「有名な同僚達に比 べると、メディアにカバーされる度合いもずっと少なかった。彼は芸術の奉仕者だった(ref 15, p63)」と書いているように、彼は敬愛されてはいたが、どちらかと言うと地味な扱いを受けていた指揮者だった。「玄人好み」というのが生前の妥当な評価 だろうし、現在では「過小評価されている巨匠」という枕詞がつくことが多い。

ドイツ・グラモフォンの担当者が「ベームは死の翌日に(セールス上)死んだ」と英グラモフォン誌の批評家に語った (ref 1, p51)そうだから、ベームの録音が生前に比して売れなくなった、ということは確かにあるようだ。ただ、デジタル/CD期以前に物故したステレオ期の指揮 者の中で、欧米のマーケットでその存在感を失っていないものを探す方が難しい、というのもまた事実なのである。例えばシャルル・ミュンシュ、ジョージ・セ ル、フリッツ・ライナー、カール・リヒター、エウゲニー・ムラヴィンスキーなどは多くの録音を残したものの、それらは今のヨーロッパでよく聴かれ ているとは言えない (注)。ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュらモノラルーステレオ初期の指揮者に至っては、フルトヴェングラーとトスカニーニを例外とし て、今や完全に忘却の彼方にあって、批評家でさえ取り上げることが少ない。彼らに比べれば、ベームはスタンダードとして聴かれていると言えるだろう。一例を挙げると、米 AmazonでベームのCDを調べるとカラヤンの半数、現役の小澤征爾やムーティを越える900もの録音がヒットしてくる。

いずれにしても、欧米の批評家の間では、ベームの録音に対する評価は下落してはいない。最近になってマーケットに出た一連の映像作品も第一級の評価を受け ている。日本で上記の傾向から「ライヴに劣る」とされやすい晩年のスタジオ録音の多くも、その音楽性が高く評価され、推薦盤にあがっている。実際、残したオペラ 録音の質の高さ、失敗作の少なさで言えば、ベームは星の数程もいる指揮者の中で、筆頭の業績をあげていると言っても決して過言ではあるまい。


ナチというレッテル

その一方で、ここ10数年に起きた一つの欧米における変化として、ベームのことをナチ、あるいはナチの賛同者として紹介するメディアの記述が多くなってき ている。例えば、「ナチ賛同者でベートーヴェンの権威」というような調子だ。このような傾向が出てきたのは、ベーム死後数年たってからのことだと思うが、 特にそれが顕著になったのは英国の音楽ジャーナリスト、ノーマン・レブレヒトによる「巨匠神話」という本が出版されてからかもしれない(ref 2)。カラヤンを始めとする巨匠指揮者をゴシップ記事風のアプローチで批判した内容は話題を呼び、クラシック関連の本としては異例の売り上げを伸ばした。

レブレヒトの本の中では、ベームについては以下の事例が紹介されている。とある会話でヒットラーとの交遊をほのめかしたこと、リハーサルを中止してヒット ラーのミュンヘン一揆を見に行ったこと、ウィーンの演奏会で禁を破ってナチ式の敬礼をしたこと(注1)、オーストリー併合の際に、「総統の行為に100% イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」と話した、とされることなどである(ref 2, p109-110, 注1)。


体制の中で

ベームの戦前、戦中の活動に関する客観的な事実は以下のようになる。彼は1894年にオーストリアのグラーツに生まれた。小さい頃からピアノを学んでいた ものの、大学では親の意向で法学科に進む。フランツ・シャルクの口添えで、ブラームスの友人であったマンディチェフスキーに作曲法、対位法、和声法を学 び、グローアーの元でピアノの研鑽を積んだ(当初、ベームはピアニストを志し、グラーツでは度々コンサート活動も行って好意的な評価を得ていたという) (ref 3, p30)。グラーツ市立歌劇場の楽長を務めた後、カール・ムック、ブルーノ・ワルターの薫陶を受け、バイエルン国立歌劇場の指揮者を経て、ダルムシュタッ ト国立歌劇場、ハンブルグ国立歌劇場の監督を歴任した。1934年にドレスデン国立歌劇場の総監督に就任。彼自身の言葉によれば、「人生でもっとも音楽的 に充実した時」を迎えた(ref 3, p85)。リヒャルト・シュトラウスとの緊密な関係が始まったのもこの時代である。ダルムシュタット時代からさかんに前衛的な作品をとりあげ、30年代に は数多くのオペラ作品の世界初演、ドイツ初演を行っている。1943年にウィーン国立歌劇場の総監督に就任。「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられ る。戦後、戦時中のナチへの協力姿勢を問われて2年間の音楽活動禁止処分を受けた。

生前のベームは、第三帝国における音楽活動について批判されることが無いまま、ドイツ=オーストリアの伝統的解釈を今に伝える最後の巨匠として世界中で敬 愛され、幸福な晩年を迎えた。彼自身、戦時中の自身とナチの関わりを正直に話してきたとは言えない。自伝においても、ベームは連合軍による活動禁止処分に ついて「自由を失われておりの中を往ったり来たりしている獣のように自分が思えた」と述べ、自らは戦争の被害者であったことを強調している(ref 3, p164)。また、戦時中の国内の状況についても、「不愉快極まる政治状況」と述べ(同、p85)、自身と当局との距離を強調している。

ところが、近年明らかになってきた戦時中のベームの言動は、はっきりと体制に順応的なものであった。Katarの「Twisted Muse」によれば、1935年、ドイツとオーストリアの関係が緊張する中、ベームはナチの幹部に対し、「自分にはウィーンのナチ党の間に多くの支持者が いるから、ウィーンでコンサートを行うことでナチの利益に適う宣伝ができる」と語り、ヒットラーの「芸術的諸問題に関する深い叡智」を賞賛している (ref 4, p65)。翌1936年には、「ナチズムは音楽家達に目標を与え、才能と長所を発揮するに値する義務を提供した」とヒットラーを文章で賞讃している (ref 4 , p65)。1941年には、ある人物の本の取材でヒトラーのミュンヘン一揆に触れて、「通りには血がながれ、それがドイツの歴史の一里塚となった。我々は 思想のために血が流れるのを見た。そして、それが勝利の礎となったのである。」と述べたとされる(ref 12、注2)。

ベームがドレスデン国立歌劇場総監督に就任するにあたっては、ヒットラーがハンブルグの契約からベームを解放するために特別の便宜をはからったという話 もある(ref 4, p65)。ウィーン国立歌劇場総監督就任に関しては、ベームは自伝で彼の就任がヒットラーによって阻まれつづけていたことを示唆しているが(ref 3, p98)、実際のところ、ヒットラーはベームをウィーンに欲しており、就任時にはベームはヒットラーから勲章を授与されている(ref 4, p65)。ベームはドレスデン、ウィーン時代を通じて「ナチのハ長調」と呼ばれた、ワーグナーの「マイスタージンガー」を頻繁に取り上げ(ref 5、巻末)、1944年にはヒットラーの誕生日にも「マイスタージンガー」前奏曲を演奏している(注3)(ref 4, p65)。


アルフレッド・ローゼンベルグ。ニュルンベルグ裁判で絞首刑に処せられた。

近年明らかになったところでは、ベームはナチ高官アルフレッド・ローゼンベルグがリーダーシップをとったKampfbund fuer deutsche Kultur (Kfdk)に属していたらしい(ref 6)。 Kfdk はワイマールからナチ政権初期に組織された非公式のロビー団体で、国会社会主義の観点から無調音楽などを含む頽廃文化からドイツ音楽の保護を目的とするも のであった(ref 4, p14)。Kfdkの活動は多岐に渡り、無職の音楽家のためにコンサートを企画したり、ドイツの劇場から積極的にユダヤ的なものを排除することであったと いう。ただ、Kfdkの組織としての力は弱く、政権の認可も受けていなかったため、大した影響力は発揮できなかった。この団体は1928年に発足 し、1933年までにはその活動は終息している。


非体制派としてのベーム

ベームとフリッツ・シュー(右)。1953年

こういった記録を見る限り、ベームは体制側に属する人間だったように見える。その一 方で、ベームのナチズムへの同調がどこまで本気だったかについては、さらなる検証が必要になる。まず、公の場での阿った言動やKfdkへの参加の一方で、 ベームがナチスのメンバーになったことは一度も無かった(ref 7, 注4)。ベームの言を信ずれば、党員でなかったためにハンブルグ歌劇場監督の話が消えたこともあるという(ref 3, p78)。彼はハンス・クナッパーツブッシュのような反ユダヤ主義者ではなく、反ユダヤ主義的な発言をした、という明確な証拠も残っていない(ref 6)(ref20, p62)(注6)。実際、ベーム夫妻は、ウィーン国立歌劇場のユダヤ系メンバーやユダヤ系実業家を一年以上に渡って自宅に匿っていたとされる(ref 17, 18)。さらに、彼はナチの台頭後もユダヤ人芸術家達や、非体制的な芸術家たちとの付き合いを続けていた。例えば、彼は反体制派として当局から睨まれていた、 演出家のオスカー・フリッツ・シュー、台本作家のカスパー・ネアー、作曲家のボリス・ブラッハーらと共同作業を数多く行っている。特に、ドレスデン時代にはベー ムはブラッハーにコンサルヴァトワーレの作曲課主任教授のポストを与えるために尽力し(ref 4)、ユダヤ系だったブラッハーを当局の攻撃から保護するために、政権への自身の影響力を行使していたという(ref 14)。ベームはユダヤ人作曲家シェーンベルグらの作品をしばしば取り上げ (注5)、「頽廃芸術」としてナチより冷遇されたアルバン・ベルグの無調作品を世に紹介、生前のベルグ本人からも大きな信任を受けていた。さらに、ユダヤ 人指揮者ブルーノ・ワルターとの友情はハンブルグ時代より続くもので、ベーム夫妻のなれそめのきっかけをつくったのもワルターであった。そして、戦後、ワ ルターは困窮にあったベーム一家を援助した(ref 3, p167, 注7)。

フルトヴェングラー夫妻とベーム夫妻。ザルツブルグにて(1948)

1935年1月、ドレスデンの監督だったベームは、パウル・ヒンデミットの「画家マチス」を当地で取り上げている(ref 7)。これは当時の状況を考慮すれば、勇敢な行為だったと言えるかもしれない。というのも、この上演が起きた日付というのは、有名な「ヒンデミット事件」 が起きたわずか数週間後だったからである。これはヒンデミットの「画家マチス」を「頽廃芸術」として上演禁止にしたナチに対し、フルトヴェングラーがヒン デミット擁護の論説を新聞に載せた、という事件だった(11月25日)。宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスはフルトヴェングラーの反逆に激怒し、フルトヴェング ラーのベルリンフィル、ベルリン国立歌劇場監督、帝国音楽院総裁ポストからの解任、エーリッヒ・クライバーの国外亡命、ヒンデミットのトルコ移住、といっ たドイツ楽界を揺るがす一大粛清につながった。ゲッペルスがフルトヴェングラーに歩み寄る形で会談したのが1935年2月28日のことである。ベームによ るドレスデンの「画家マチス」公演は、まだ騒動の渦中、二人の和解の2カ月も前の事だった。

ベー ムは同年2月、ヴィクトル・ユーゴー原作の「メアリー・テューダー」を元にしたワーグナー・レゲニーのオペラ「Der Gunstling」をドレスデンで初演している。彼はこのオペラを大変気に入り、その後も度々上演を繰り返していた。作曲者のワーグナー・レゲニー自身はナチ に賞賛された作曲家だったが、このオペラ自体は反ヒットラーとも取られかねないプロットを持つものだった(ref 4, p64)。3年後、ベームは同様に、リヒャルト・モハウプトの「Die Wirtin Von Pinsk」の世界初演を行っているが、作曲者のモハウプトはユダヤ系ロシア人で、ナチが「頽廃」と見下していたジャズに親しんでいた(ref 4, p64)。この上演の1年後、モハウプトはナチ禍を逃れてアメリカに亡命している。

宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス。「ヨーロッパのメフィストフェレス」は第三帝国の文化政策において絶大な影響力を振るった。

1943年、ウィーン国立歌劇場総監督に就任したベームは、ベルリン・ドイツ・オペラの専属歌手だった、エリーザベト・シュワルツコップと契約しようとする。この時は、優 れた歌手を失うことを恐れたベルリン・ドイツ・オペラからの抗議をうけ、当劇場を管轄していたゲッペルスは契約中止をベームに迫った。ベームは抵抗の様子 を見せたらしく、ゲッペルスは右腕のハンス・ヒンケルを通じ、「ウィーン国立歌劇場と、オーストリア音楽総監督(ベームのこと)に適切な処罰を行う」とい う脅しを伝えるに至ったという。実際、ベームはゲッペルスの主催するラジオから数ヶ月閉めだされかけた(ref 4, P64)。

1944 年には、ベームはリヒャルト・シュトラウスの80歳の誕生記念式典を統括、マックス・ローレンツやマリア・ライニングを主役とした「ナクソス島のアリアド ネ」の指揮を行っている。この当時、リヒャルト・シュトラウスは後に述べる「無口な女」の騒動や、ユダヤ人だった義理の娘と孫への迫害をめぐって当局と対 立しており、シュトラウスの自宅がゲシュタポの捜索を受けるほどであった。ゲッペルスは式典を禁じはしなかったものの、宣伝をほとんど行わず、当局とシュ トラウスとの距離を明確にしていた。

こういった記録を見る限り、ベームは芸術と当局を天秤にかけた際、多くの場合、前者を選んでいたことがわかる。ベームのナチズムへの肩入れ度合いについて も、党に加盟し、積極的に党活動に加わり、高官の愛人の地位まで手にいれて出世を目論んだエリーザベト・シュワルツコップのそれとは異なっているように見 える。


無口な女」騒動での沈黙

そ の一方で、時折見せたベームの体制への反抗が、一度たりとも一線を踏み越えることが無かったのもまた事実なのである。ベームは自身の第三帝国内のスタンスにつ いて、「ドレスデンやウィーンの活動の経過の中で、自分がどちらの側にたっていたかは明らかにしたと思っている(ref 3, p84)」と自伝で述べているが、最も左傾化したドレスデンの一時期においてさえ、彼の政治的スタンスは曖昧であった。そして、危機にあたっては、 自らの地位を危うくするような事態に陥らぬよう、用心深く行動していた。

そのことがはっきり出ているのが、1935年5月にドレスデンで行われたリヒャルト・シュトラウスの新作オペラ「無口な女」の初演時の騒動だろう。作家の シュテファン・ツヴァイクはオーストリア系ユダヤ人で、前年にナチ禍を逃れて亡命していた当局のお尋ね者であったが、シュトラウスは1931年頃からツ ヴァイクと「無口な女」の共同作業を始めていた。ベームは初演の指揮を担当し、作曲者シュトラウスも積極的に初演に関与した。この時、ツヴァイクがユダヤ 人であったことが当局を刺激することとなる。ある時、ツヴァイクは帝国音楽院総裁だったシュトラウスの立場を慮り、シュトラウスに煮え切らない内容の手紙 を送ったらしい。何かと人種問題を持ち出すツヴァイクに対し、シュトラウスはうんざりしたように次の言葉をなげつける。

「こ れがユダヤ的しつこさだ!誰しも反ユダヤ主義に走ろうというものだ!この人種という自尊心、群れたがるという心理!あなたは私が今まで「ドイツ人」という考えの もとで行動してきたと思っているのですか?あなたはモーツアルトが「アーリア人」として作曲をしたとも思っているのですか?私にとって、この世には二つの タイプの人間しかいないのですよ。才能のある人と無い人です」(ref 8. p298)
ベームとシュトラウス。シュトラウスの80歳記念式典にて(1944)。


1935年6月17日に投函された この手紙はまもなくゲシュタポの手に落ち、当局を激昂させることとなる。さらに、「無口な女」の初演のポスターに台本作家ツヴァイクの名が無かった事に シュトラウスが激怒し、ツヴァイクの名前を強引に戻させるという事件も起きる。こういった一連の出来事は当局を刺激するに十分であった。当初、初演に出席予 定だったゲッペルスらは出席を取りやめ、初演は4公演で中止。シュトラウスは帝国音楽院総裁を辞任した。

この時、初演の指揮を担当 したベームは事なかれ主義に徹したらしい。シュトラウスの伝記作家Kennedyも、「特筆すべきは、カール・ベームがこの騒動の中、首をすくめてやり過 ごしていたことだ。彼はナチ党員で はなかったが、ナチの支持者だった。彼が最上の勇気とは分別、と決意したのは明らかだった」(ref 16, p302)と書いている。この騒動については、ベーム自身も多くを語っていない。自伝でも「無口な女」騒動に登場するのはシュトラウスの英雄的行動ばかり で、ベーム本人の言動はほとんど書かれていない。せいぜい、「無口な女」初演後のパーティでオペラを力強く擁護したとあるナチ高官を目撃したベームが、「一週間した ら強制収容所に入れられているか、亡命しているかのどちらかだろう」と人ごとのように妻に囁くシーンがあるだけである (ref 3, p130)。ただし、シュトラウスの次作オペラ「ダフネ」がベームに献呈され、後にシュトラウスから長文の音楽上の遺言を託されたように、この騒動でベームと シュトラウスの信頼関係に亀裂が生じることはなかった。


なぜ国内に留まったのか

ベームが時に首をすくめながらも第三帝国にとどまった理由はいくつかあげられる。ひとつは芸術環境の問題だ。とりわけ、ドレスデン国立歌劇場はベームに とって理想的な場所であった。リヒャルト・シュトラウスを始めとする多くの作曲家達の知遇を得、潤沢な資金の元でイヴォーギュン、チェボターリらをはじめと する当代最高のアンサンブルと素晴らしいオーケストラ、新進気鋭の演出家達を意のままに扱うことができた。当時、これほどの芸術環境を他国で得るのは不可能であったろう。そ もそも、彼はクレンペラーのようなユダヤ人では無く、エーリッヒ・クライバーのようにユダヤ系の近親者もいなかった。完璧に近い芸術環境を捨ててまで、他国に亡命 しなければならない理由は当時のベームにはなかった。

彼のような非ユダヤ系ドイツ=オーストリア人が亡命する理由が出てくるとすれば、それは政治的なものになっただろうが、彼の政治感覚は好意的に見ても近視 眼的であり、しかもイデオロギーを持たぬものにとどまっていた。そして、後から見れば不運だったことに、体制はベームの音楽的才能を欲していたのである。 1944年、ヒットラーとゲッペルスは「Gottbegenadeten List=神に祝福されたもののリスト」を作成しており、ベームはアーベントロート、カラヤン、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、シューリヒト、イッ セルシュテットなどとともに「Gottbegnadete」の15人の指揮者の中に選ばれた(ちなみに、リヒャルト・シュトラウスとフルトヴェングラーは さらに上位のリスト「Unersetzlichen Kunstler」に入っている)。そして、1945年にはベームは「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられている。

さらに、ベームの腰を重くした現実的な理由がもう一つあった。大家族である。当時、彼は国内に20名の家族を抱えており、家長として彼らの面倒を見なけれ ばならなかった。しかも、息子のカールハインツの言葉によると、もし他国(具体的な話があったのはオーストラリア)からのポストのオファーを受けた場合、 家族のメンバーを全て強制収容所に入れる、という警告を受けていたという(ref 8)。ベーム自身、シュテルン紙に掲載された死の3週間前になされたインタビューで、「1935年当時、ドイツ外にコネクションは無かった。そんな中でドイツ を去ったら、その後、どうやって家族を養ったらよかったのか」と話している(ref 5)。


「なんでもないことは流行に従う」

「戦時中、ナチが美辞麗句でやっていたことの裏を知っていれば、ドイツを去っていた」とは晩年のベームの言葉である(ref 10, p246)。その一方で、第三帝国時代のベームはその言葉が白々しく響くほど、ナチの高官達に近い存在であった。音楽評論家のEdward Greenfieldによれば、終戦直後、非ナチ委員会にかけられる前の事だが、ベームはロンドン交響楽団のハーピストだったRenata Scheffel-Steinの夫だったイギリス人将校の訪問をうけた。その時、将校はベームの自宅の応接間にずらりと並んだサイン入りのナチ高官の写真 を見て肝を潰した。音楽家としてのベームを尊敬していた将校は写真を即刻処分するように助言した(ref 11, Chapter 2)。将校の驚きの大部分は、自身の査問が控えているというのにも関わらず、そのような写真を敵国の将校に見せてしまうベームの政治的鈍感さに対してで あったかもしれない。

小津安二郎は、「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」と語ったが、ベームのポリシーもこれに近いものであっ たのだろう。ベームにとっては親ナチ的言動をとることは、家族を養い、優れた芸術活動のスポンサーであったナチと共存するための方便で、それ以上の意味は なかったのかもしれない。それゆえに、戦時中の言動について、大して良心の呵責を感じることもなかったし、ナチ高官と一緒に写った写真を隠すことも考えつ かなかった。彼が示唆したように、ベームはフルトヴェングラーと同じく、ホロコーストについては本当に知らなかったのだろう。それでも、流行に従ったツ ケ、つまりナチと関係を続けたツケは、後のベームにとって高くつくことになった。


芸術家は国家の罪を背負うべきか

ここに重大かつ普遍的な問題が出てくる。市民は国家の犯罪にどこまで責任を持つべきか、というものだ。第三帝国に残った芸術家達について、ロマン・ポラン スキー監督の映画「ピアニスト」、Istvan Szabo監督の映画「Taking sides」の台本を書いたRonald Harwoodは以下のように切り捨てる(ref 13, 注8)。

「フ ルトヴェングラーもシュトラウスも、「他に選択は無かった」と言った。しかし、道徳的選択は常に可能だ。そして歴史上、この時期ほど「何をすべきか」が明 らかだった時期はなかった。(中略)(一人の芸術家が全体主義にできることは限られているのでは、という問いに対して)何も出来ない。芸術は無力で、文明 を守れない。しかし、我々はあたかもできるかのように振舞わねばならない」

つまり、彼の言によれば、芸術家は「何も知らなかった」「何も出来なかった」ではすまされず、個々は全体主義下での行動に責任を持たねばならない。彼の言 は正論ではあるが、同時に、さらなる疑問を我々に提起する。果たして、人道的罪を犯した政権のもとで活躍した芸術家や科学者は皆、政権の犯した罪にどこま で責任を負うべきなのだろうか?スターリンーブレジネフ時代に称揚され、勲章を受けたリヒテル、オイストラフ、ムラヴィンスキーは?冷戦期の東独で地位を 確立したペーター・シュライヤー、テオ・アダムは?ブッシュ政権下で指揮棒をとっていた小澤征爾やジェームズ・レヴァインは?そして、大日本帝国時代にメ ガホンを取った黒澤明は?

ディアパゾン誌のRemy Louisは、ベームが早い時期にナチを公的に支持したことについて、「私はナチの狂気の元でどのような悲劇が起きたかを知っている今日のお気楽な感覚で (これを)裁くことはできない。1932-33年頃の、悲しむべきワイマール共和国の終焉にあたって、すべての社会的、経済的、政治的問題を抱えてドイツ にすむ人々の気持ちはどのようなものだったろうか?」と問いかける(ref 7)。物事には常にディテールがあり、そのディテールを知らずして是非を問うべきではない、ということだ。映画「Taking Sides」の監督Istvan Szaboは、フルトヴェングラーが国内に留まったことについて、「すべての国民が国を去ることはできない。才能あるパン屋はどうするのだ?才能ある教師 や医者は?ーーーーフルトヴェングラーになぜ国を去らなかったかを尋ねることはできない。もし、その質問を彼に投げかけるのであれば、あなたは街角のパン 屋にもそうしなければいけないからだーーーあなたはパンをナチのエリートに売った。だからお前はナチだ-----これは同じ質問なんだ」と語っている (ref 8)。同じ「Taking Sides」に関わった台本作家と監督が全く反対の意見を持っていることからもわかるように、この問題は簡単に是非が決められる問題ではないことは確か だ。


おわりに

戦後のベームとワルター。

第三帝国時代のベームは、体制と非体制の間を揺れ動きつづけた。そのブレの大部分は、政治的信念というよりは、自身のキャリア至上主義、芸術至上主義、そ しておそらくは生存本能によってもたらされていた。彼は日和見的に権力にすりよった一方で、反ユダヤ主義を含むナチズムを全面的に支持していたわけではな かった。彼の一連のナチ寄りの発言がホロコーストが始まる前になされたこと、そしてナチからあれほど迫害され、亡命の憂き目にあったワルターが、戦後も ベームとの深い友情を維持し続けたことは留意しておくべきであろう。

以上の議論で明確になっただろうか。カール・ベームを「ナチ信奉者」あるいは「ナチ支持者」と呼ぶのは、極めて短絡的であるばかりでなく、彼の行動の本質 を捉えていない見方なのである。たまたま相手がナチであったためにベームが「ナチ支持者」に見えるだけで、もし相手がコミュニスト政権、あるいは自由 主義政権でも、ベームは自身のキャリアの発展を第一に考えて、政治上、日和見的に行動していたに違いないのだ。その事は、戦後10年がたち、彼が二度目の ウィーン国立歌劇場総監督に就任して一年もしないうちに、「自らの国際的キャリアをウィーンのために犠牲にするつもりはない」と発言し、あっさり重職を辞し てしまったことからも想像できる。

Ich habe in meinem Leben einiges angestellt; ich bin ein Sünder gewesen, ja, das kann man so sagen. Ich habe gelogen und eine menge Dinge angestellt, die mir nicht zum Ruhme gereichen. Aber in der Musik war ich immer ehrlich, immer aufrichtig.
人生で私は悪いことも沢山してきました。罪人である、そう言ってもいいでしょう。嘘もついてきたし、自分の名誉にならないことも沢山してきました。しかし、音楽においては常に正直で、誠実でした。

上はシュテルン誌のインタビューにおけるベームの死の三週間前の言葉だ(ref 5)。困難な時代を生き抜いた1人の音楽家の懺悔というだけでなく、その機会主義的かつ芸術至上主義的な生き様を集約させた言葉ではないだろうか。
(2011.8.14)

(注)興味深いことに、彼らのように死後聴かれなくなった指揮者はいずれも、生前、EMIやデッカのような英国レーベル とほとんど仕事をしてこなかった、という特徴がある。結果的に英国レーベルや英国アーティストの録音を強力にプッシュすることで知られ、かつ欧米のリス ナーに大きな影響力を持つ英グラモフォン誌に取り上げられる頻度も少なくなってしまったのではないだろうか。ベームの数少ない英国レーベル録音には、ブ ルックナー第三&第四交響曲、バックハウスとのブラームスのピアノ協奏曲、シュトラウス「影の無い女」、モーツアルト「コシ・ファン・トゥッテ」 などがあるが、これらはの多くは英グラモフォンで名盤として推薦されている。

注1)レブレヒトの本は読み物としての面白さを追求するあまり、著しく正確性に欠けるという批判が昔からある。上の記述 についても出典が書いてない。ただし、1938年3月30日、ウィーンのコンツエルトハウスで行われたウィーン交響楽団の演奏会において、ベームがナチ式 の敬礼をおこなった事は他の文献にも登場する。

オーストリア併合時のベームの発言「総統の行為に100%イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」("Wer dieser Tat des Fuhrers nicht mit einem hundertprozentigen JA zustimmt, verdient nicht, den Ehrennamen Deutscher zu tragen.")については出典が不明。1982年に発刊されたFred K Preibergの「Musik im NS Saat」に引用があるが、当時のどの新聞や本などに記載されたものなのかはわからない。ベームの息子で、ドイツ語圏を代表する俳優となったカールハイン ツは、発言は後世の捏造であると確信しているという(http://oesterreich.orf.at/wien/stories/70021/)。 Michael H. Katerは、一次資料をくまなく精査した「Twisted muse」(ref 4)においてこの発言を引用していない。私がKatar本人にその理由を確認したところ、自著で引用しなかったのは出典が確認できなかったためで、 Katerの考えでは発言はベーム自身によってなされたものだという。


注2) ただし、ベームは自伝で「まったく馬鹿げたことで、私はこんな事を絶対に言っていない」と強く否定している (ref 3, p169)。

注3) 映像作品「Great conductors in the Third Reich」には、ゲッペルスの演説に続いてベームがこのオペラの指揮を取る様子が収められている。

注4) ベームはナチ登場以前にドイツで確固たる地位を築いていたため、(例えばカラヤンが自身の入党の動機として主張したように)ポスト争いを有利にするために党員になる必要がなかったという見方もできる。

注5) ベームとブラッハーのコンサルヴァトワーレでの生徒の1人に、後の東独を代表する指揮者となったヘルベルト・ケーゲルがいた。ケーゲルによれば、当時、演奏禁止となっていたユダヤ系作曲家達の作品群をケーゲルに紹介したのがベームだったという。

注6) ワルターがバイエルン国立歌劇場監督から追放された裏には、反ユダヤ主義者で、かつ、当時ナチの支持層からもてはやされていたハンス・クナッパーツブッシュの画 策があった証拠があるという(ref 20, p62)。ベームはワルター追放時、バイエルン国立歌劇場のカペルマイスターであった。監督を引き継いだクナッパーツブッシュと、ワルターを慕うベームは 当初衝突したものの、次第に二人の関係は好転した(ref 3, p59)。一方、クナッパーツブッシュは一時ナチとトラブルを抱えるものの、1936年以降は政権に近しい存在となった。彼は政権から勲章を授けられ、 ヒットラーの誕生日にも占領先で指揮をとっている(ref 20, p62)。クナッパーツブッシュに関してのワルターのコメントは伝えられていない。

注7)ナチに迫害されたワルターだったが、公の場で体制寄りの発言を繰り返したベームとの絆を切ることはせず、戦後も彼の親しい友人であり続けた。亡命先から ウィーンに戻ったワルターの第一声が、「私の友人のベーム博士はどうしているかね?」だったという (ref 3)。ワルターは死の数ヶ月前にも、1960年に録音されたベームによる「エレクトラ」の録音(DG)に深い感銘を受け、ベームに以下の手紙をしたためて いる(1961年7月25日)。「君の卓越した仕事は私を大きく喜ばせたと言わせて欲しい。この録音は偉大なる傑作を見事に捉えたという点で、全くもって 圧倒的な高みに到達しており、私は君におめでとうを言いたいのだよ」(ref 19, p408)。さらにその年の2月から3月にかけては、両目に障害を抱えながら、アルバン・ベルクの「ヴォツエック」という超難曲に取り組むベームをこうか らかっている。「さてさて、君は優しくて暖かい「ヴォツエック」の日差しの中で静養しようってのかい。でも、親愛なる友よ、君のような仕事中毒の音楽家に とっては、たぶん私のような年寄りが好む静かな海の側で散歩するよりは、そちらの方法で回復する方がずっといいのかもしれないね」(ref 19, p 409)。

その一方で、ワルターはフルトヴェングラー、ナチ党に二度加入したカラヤンについて複雑な感情を持っていた。フルトヴェングラーに対しては、1938年に トスカニーニに向かって「政治的にも個人的にも芸術的にも堪え難い」と語り(p257)、1949年頃にはフルトヴェングラーにナチへの関わりを非難する 書簡を送っている。しかし、1950年頃になると、フルトヴェングラーがユダヤ人を救っていたことなどを知るに至り、彼を「偉大であることにいささかの疑 いもなく、その偉大さは音楽にも偉大さをもたらしていた。私は音楽への貢献に満ち満ちた彼の業績が、音楽史の中で重要な位置を占めるであろうことを疑わな い」と評価するようになっていた(ref 19, p306)。カラヤンについては、1949年頃、「フルトヴェングラーと違い、カラヤンは真性のナチ」とBruno Ziratoに書いたことがあるという。ただし、カラヤンに「(政治的な)困難を知りつつ」ニューヨークフィルへの客演を勧めるなど、音楽家としてのカラ ヤンを評価はしていた(ref 19, p384)。

注8)ちなみに、ポランスキーの前妻Barbara Lassは、ベームの義理の娘、つまり息子カールハインツの前妻でもある(1980年に離婚)。

(2012.2.8追記)
David Monodの"Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953"は、アーティストらの非ナチ化の模様をまとめた大変優れた論文であるが、このp159-161に、ベームの非ナチ化の過程が詳しく描 かれている。これによると、当時、ベームは1945年12月にザルツブルグの非ナチ化委員会に申請を出し、即座に連合国オーストリア委員会(U.S Element Allied Commission for Austria:USACA) の下部組織であるInformation Services Branch(ISB)によって認められている。しかし、ISBの上位組織にあたるKommandatura's sub-Committee for Entertainmentは全員一致でこの認可を取り消したという。ベームは1年後に再度、占領軍の英国代表者とPuthon 男爵という人物のサポートを受けて申請した。男爵はザルツブルグ音楽祭のオーガナイザーの一人で、1947年のアラベラの指揮をベームと契約しており、 ベームの非ナチ化を必要としていた。さらにベームにとって幸運だったことに、後にウィーン国立歌劇場の監督となったエゴン・ヒルベルトが非ナチ化委員会の 審査員にいた。

委員会では、第三帝国時代のベームのナチ支持の発言などが議題にあがったが、「噂」「又聞き」に過ぎないと却下されたものも多かったという。ただ、戦前の 新聞に多く紹介されたベームのナチ支持発言については、ベームは「似たような事を言ったかもしれない」と認めざるを得なかった。非ナチ委員会はそれについ て「ベーム博士は紙面においては、常に体制に反対していたとは言えない........(他の)オーストリア人達がそうであったように」との好意的な結論 を出した。結局、シュトラウスのオペラを指揮できる人材が払底していたこと、ザルツブルグの「アラベラ」の計画が決まっていことなどが考慮され、「ベーム 博士が公的活動を行うことで、オーストリアのカルチャー、およびミュージック・ライフの再建に良い影響をもたらす」として、無罪が決定となった。


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1. Gramophone (2000) March
2. The Maestro myth: Norman Lebrecht
3. カール・ベーム 回想のロンド(白水社)高辻知義訳
4. The twisted muse: Michael H. Kater
5. カール・ベームの芸術とレコード(音現ブックス)野島正俊
6. Wer war Karl Bohm? 2005.11.17, Der Zeit, Joachim Riedl
7. Discussionforum zuer rolle Karl Bohms in der Nazi-diktatur: "Discussion about Karl Bohm"
8. http://www.film-philosophy.com/index.php/f-p/article/view/683/596
9. "The Saltzburg festival" (director: Tony Palmer)
10. カール・ベーム 心より心へ (共同通信社)真鍋圭子
11. http://www.edwardgreenfield.co.uk/Chapter2.htm
12. Harry Erwin Weinschenk (Hrsg.: Kuestler plaudern. Limpert, Berlin 1941, S. 48
13. Time to face the Nazi musicNorman Lebrecht, Evening Standard, 23 Jun 2010
14. Music of conscience, Leon Botstein, American Sympony Orchestra Program Note
15. In my own voice, Christa Ludwig
16. Richard Strauss, Man, Musician, Enigma. Michael Kennedy
17. http://www.allmusic.com/artist/karl-bhm-p170266/biography, Bruce Eder
18. Symphony News Vol 31, American Symphony Orchestra League 1980
19. Bruno Walter: A World Elsewhere (Paperback) by Erik Ryding, Rebecca Pechefsky
20. Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953, David Monod

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