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作曲家の意図を探る (2):リスト「ロ短調ソナタ」の一音


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)

ここでは、フランツ・リス トの「ロ短調ソナタ」の一音について考察する。このソナタの738小節、740小節に、ピアニスト達や研究者たちの間で100年以上に渡って議論 され続け、いまだに 解決がついていない二つの音がある。曲の終結部に決定的な影響を与える重要な音だ。

第1版(D#/D#)
以 下は1852年に出版されたブライトコップフ第1版楽譜(ref.1) の737-740小節。この738小節と740小節冒頭の右手の最高音はD#音である(738小節D#/740小節D#=以降、D#/D#と表記)。現在、流通している楽譜はこの指示に準拠しており、アルフレッド・コルトー以降のピアニスト達のほとんどはこの方法に従って弾いている。



クリントヴォルトによる異論(Dナ チュラル/Dナチュラル)
一方で、リストがまだ生きていた頃から、リストの弟子の間でこの二つのD#は、実はDナチュラルと弾くべきなのではないか、という議論があった。

リスト の高弟であるカール・クリントヴォルト(1830-1916) がその議論の火付け役である。彼はリスト本人の前でロ短調ソナタを演奏したことがあった。リスト本人のソナタの演奏も何度か耳にしており、いわば生前のリストの意図をよく知る存在であった。
クリントヴォルトは、リストの 高弟で旧リスト全集をまと めていたジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ(1968-1948)に、「リスト本人の指示」で、第1版にあるD#ではなくDナチュラルでリスト本人の前でソナタを弾いたことがある、と明かしたのである。もし、クリントヴォルトの言葉が本当であれば、第1版楽譜と自筆譜が間違っているか、あるいはリストが第1版出版後に考えを変えた、という事になる。 ダ・モッタはクリントヴォルトの言葉を裏付ける資料が得られなかったため、旧全集においてはDナチュラルへの改変を行わず、第1版同様に両小節ともD#のままとした(下図)。



ただ、ダ・モッタは編者のコメントとして、
クリントヴォルトの証 言について以下のように言及し、Dナチュラル変更の可能性に一定の理解を示している。

「リストの弟子たちはこの最初をD#かDナチュラルで弾くか、という疑問を持っている。自筆譜と出版楽譜はD#だ。
リナ・ラマンはdagogium (ref 3) の中で根拠を示すことなく「このD#はDナチュラルに変更すべきでない」と簡単に書いていたのだが、クリントヴォルトは師(リスト)の指示にした がってD ナチュラルを弾いた、と筆者に確言した。これに関してはクリントヴォルトは私に調の継続性に注意を向けるように言った。(Dナチュラルであれば、743小節の)C##が直前のDナチュラルにエンハーモニックに繋 がる一方で、(もし、738小節、740小節で)D#が来てしまうと続くカデンツアにおいてそれほど美しい結果をもたらさない、というのだ。

.......
がD#をあとになって、出版後にDナチュラルに変えたい、と思われ たことは十分ありうることだ。だが、私は(改変に関して)信頼にたる資料をまだ見つけてはいない。」


ダルベールのピアノロール録音(Dナチュラル/Dナチュラル)とダルベール版楽譜(D#/D#)
リストの弟子であったオイゲン・ダルベール(1864-1932)は、1913年のピアノロール録音にお いて、738小節、740小節の両方のD#をDナチュラルに変更している。ただし、ダルベール本人がこの曲を弾き始めたのはリストの死後10年以上が経過した後だ。リスト本人から指示を得て変更したわけではない。ダルベールが以前から度々共同作業を行っていたクリントヴォルトの直接的な影響と見て良いと思う。

興味深い事に、ダルベール自身が1917年に編纂したロ短調ソナタの楽譜(ref.4)が残っているのだが、録音と異なり、ど ちらの小節も第1版と同じ、D#の指定(D#/D#)になっている(下)。この調性ではDには#を明記せずとも自動的にD#となるのだが、ダルベールはわざわざ両小節において、Dの横に#を付け加えている。この議論に対するダルベールの明快な意思表示と見るべきかもしれない(後述するようにザウアーも同様に#を明記している)。



ダ ルベールが意見を変えた理由は明らかになっていない。この楽譜が出版された前年にクリントヴォルトが亡くなっているので、盟友に義理立てする必要が無く なったのだろうか。いずれにせよ、ダルベールの「翻意」もあって、現在、Dナチュラル/Dナチュラルを指示した楽譜は存在していないし、私の知る限りでも コルトー以降のピアニストによる録音は無い。

ラマン(Liszt-Pädagogium)によるリストの発言の伝承(Not mentioned(=
D#)/D#)
一方、リストの公式の伝記作家であり批評家であったリナ・ラマン(1833-1912)は、1908年の著書 「Liszt Pädagogium」(ref. 3) において、このD#音についてリスト本人が残した「740小節においてD#をDナチュラルに 変えてはならない」という注釈を伝えている。

Pädagogiumにおけるロ短調ソナタ関連の指示は、リストの弟子であったオーギュスト・ストラーダル(1860-1930) のメモにもとづくもので、ストラーダルは1870年代にリスト本人の前でロ短調ソナタを演奏している。さらに、リストの晩年にはリストの行ったマスタークラスにも参加しており、こういった機会でのリストの発言を記録した。738小節についての 言及はないが、あとに述べる自筆譜の表記から、738小節は議論の余地なくD#であったから、あえて述べる必要は無かったであろう。

ちなみに、アマチュアのリスト研究家で、あとに述べるフリードハイム版の楽譜の出版に関わったジェラルド・カーターは、「D#をDナチュラルに変更してはならない」というリストの指示は 、740小節ではなく、738小節に対するものであると主張している(
ref. 5) 。だが、この主張の根拠を彼は提示していない。自分が関わったフリードハイム 版(740小節がDナチュラル)の正統性を過度に強調したいがあまり、強引な解釈を付与したようにも思える。実際、 Pädagogiumを見ると、リストの指示の対象は、35ページ、3L, 2Tであり、これは明らかに第1版ブライトコップフ版の740小節と一致している。つまり、二番目のDは、晩年のリストの中では自筆譜通りD#のままだった、ということだ。



サンディの楽譜(D#/D#)
リストの晩年の弟子、アーパド・サンディ(1863-1922) は、1884年にリストのロ短調ソナタのレッスンをリスト本人から受けた。この際、リスト本人が指使い、強弱記号の変更など をサンディの楽譜に細かく書き込んでいる (ref 6)。この時に使用された楽譜は1880年に再販された第1版ブライトコップフ版だった。この際、リストは738小節、740小節ともにペン修正を行って お らず、D#のままにとめおいた。この事は、少なくとも1884年の段階では、リストはDナチュラルに積極的に修正する意思は無かった、という事を示唆する。

フリードハイムによる”正統的”解釈 (D#/Dナチュラル)とその影響
こういったD#/D#を支持する資料と対立するのが、アルトゥール・フリードハイム(1859-1932)による楽譜 (ref 5)、および録音である。フリードハイムはリストの前でソナタ演奏を何度も 行い、その 解釈を称揚され、この曲の解釈の第一人者の一人とみなされていた。フリードハイムはロ短調ソナタの精密な注釈を残しており、それによると、738小節を D#、740小節をDナチュラル、と指定する混合型D#/Dナチュラルを取っている(下図)。フリードハイムは1906年にピアノロール録音を残しており、そこでも同じように混合型で演奏し ている。フリードハイムがリスト本人の前でもこのように弾いていたであろう事を考えると(その証拠はないが)、リストはこの変更を許容していたと見るべき であろう。だが、リストがこのDナチュラルへの変更を最善のものとみなしていたかどうかはまた別次元の話だ。



ロ短調ソナタの研究者で、「Sonata in B minor」(ref 7) の著書である、ケネス・ハミルトンは当初、この箇所でクリンドヴォルトが示唆したDナチュラルを弾く事に批判的であった。「私の耳には、場にふさわしい壊れそうな期待感に不必要な影を 落とすという点で、DナチュラルはD#よりもはるかに劣って聴こえる」とし、「Dナチュラルを弾いた演奏をいまだ耳にしたことがない」と書いた(p58, ref 7)。しかし、最近になって世に出たフリードハイム版の影響を受けたのか、2013年にカーディフ音楽大学で行われた公演で、ハミルトンはフリードハ イム式のD#/Dナチュラルを弾いている。最近のピアニストでは、シーヤン・ウォンがD#/Dナチュラルの混合型を採用している。

ザウアーによる版(D#/D#)
リストの高弟、エミール・フォン・ザウアー(1862-1942)は、フリードハイムがリストの前でソナタを弾いた際、その場に居合わせて いた。間違いなく彼はフリードハイムによるD#/Dナチュラルの 変更を知っていたわけだが、彼が1917年に出したザウアー版の楽譜 (ref 8)では、ダルベールと同様、以下のように両小節で明確にD#を指示している。ザウアーがフリードハイムやクリントヴォルトの変更を採用しなかったのは、自筆譜やPädagogiumの リストの指示を重視していたからだろう。実際に、彼はPädagogiumで指示されている他の箇所の変更も版に取り入れている。




自筆譜 (D#/D#)

実は、この議論を解決するのにもっとも優れた資料を提供するのが自筆譜(ref 8)だ。というのも、当該箇所で、リストは737-740小節を きっちり書いておらず、単に下の譜面を一度だけ書き、「Bis=二回」と書き加えているからだ。つまり、リストのオリジナルの意図は同じ音型を二度繰り返 すことにあり、738小節と740小節に違いがあってはならない。すなわち、D#/D#か、(記入ミスを前提とした)Dナチュラル/Dナ チュラルのいずれかがリストの意図に沿い、フリードハイムのようなD#/Dナチュラルの混合型は、作曲段階では一切想定していなかったことになる。この 「Bis」に込められた明確なメッセージに研究者達が一切注目していないのは驚くべきことではある。




...........正しい音は?
以上の議論をまとめると以下のようになる。


m. 738
m. 740
Lizt's Autograph Manuscript (1853)
D#
Repeat m.738 (=D#)
Breitkopf und Härtel, n.d.(1854) (1st edition)
D#
D#
Szendy's score with Liszt's autograph marks (1884)
D#
D#
Ramann Pädagogium (1908)
Not mentioned (=D#) D#
D'Albert's interpretive edition (1917) D#
D#
Other editions (e.g. Sauer(1924) D#
D#
Friedheim's piano roll recording (1906) D#
D natural
Friedheim's interpretive edition (2011)
D#
D natural
D'Albert's piano roll recording (1913) D natural
D natural
Klindworth's comment cited by da Motta (1924)
D natural D natural

これによると、1853年完成の自筆譜、1854年と1880年に出版された第1版楽譜(ただし、この楽譜は一般的に校正ミスが多いことは指摘しておかねばならない)、1884年のサ ンディの楽譜と、1870-80年代のリストの言説をまとめたPädagogiumの4資料が、いずれもD#/D#の形式である事は注目すべきであろう。この4資料は、リストの生前の意向を知る上で、もっとも信頼できる資料でもあるからだ。この事から、現段階では、両小節ともD#で弾くのが妥当な選択と言える。

クリントヴォルト
に よる、Dナチュラル/Dナチュラルという選択についてだが、この大胆な変更がリストの意図を反映しているという証拠がクリントヴォルトの言葉以外に何も 残っていない。ケネス・ハミルトンの言うように、仮にDナチュラル/Dナチュラルが一時作曲家リストの頭にあったとしても、非常に短期間の話であっただろ う。

フリードハイムの D#/Dナチュラルについても似た事が言えるかもしれない。この音型が「Bis」と明記した作曲時のリストの意図に明確に反している上、晩年のリストの積 極的な要求の結果だったという証拠は残っていない。ただ、晩年のリストがフリードハイムのソナタ演奏を高く評価していた、という客観的事実がある事 から、リストがある一定の理解の元にこの改変を受け入れていた可能性はある。おそらく、リ スト本人はD#/D#を意図していたが、フリードハイムが演奏会でD#/Dナチュラルを弾く事については、演奏家としての立場から反対はしていな かったのだろう(リス ト自身、楽譜通りに演奏するピアニストではなかった)。とは言っても、作曲家としてはフリードハイムらの改変に完全に同意したわけではなく、自身の当初の意 図を明確にするために、
ストラーダルに「(最近よくやられるように)740小節ではDナチュラルで弾かないように」との指針をわざわざ残したのではない か-------以上が私の仮説である。

音楽的には、
D#/D#とD#/Dナチュラルはどちらもありうる一方で、Dナチュラル/Dナチュラルには違和感がある。また、D#/Dナチュラルにおいては終結部に不安感が導入され、曲の空気が決定的に変わるということをピアニストは念頭におかねばならない。もしD#/Dナチュラルを選択するのであれば、音楽的整合性をとるために740小節以降の表現も音の選択に応じて変えるべきだろう。


参考文献

1. Liszt Piano sonata (1854) Breitkopf und Härtel (1st edition)
2. Liszt Piano sonata (1924) Breitkopf & Härtel (Da Motta's ed)
3. Liszt-Pädagogium: Klavier-Compositionen Franz Liszt's (1908) Lina Ramann
4. Liszt Piano Sonata (1917) ED Bote & G Bock (D'Albert's ed)
5. Liszt Piano Sonata Monogrphs: Fascimile of Arthur Friedheim's Edition of Franz Liszt's Sonata in B minor (2011) (Carter & Adler's ed)
6. Szendy's copy of Breitkopf & Hartel score marked by Liszt (1884)
7. Liszt Sonata in B minor: Kenneth Hamilton (Cambridge University Press)
8. Liszt Piano sonata (1917) Edition Peters (Sauer's ed)
9. Composer's holograph (1853) G. Henle Verlag, 1973

謝辞:本文を書くにあたり、Chiyan Wongから、いくつかの楽譜、資料を提供してもらっている。また、Gerard Carterからも一部の資料を得ている。ハンガリーの人名の日本語表記については、Júlia Puskerより助言を得た。

(10.28.2014)  

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