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「レブレヒトの嘆き」ークラシック音楽は死んだのか?


ノー マン・レブレヒト(Norman Lebrecht)は、Maestro Mythなどの挑戦的な著書で有名になった評論家で、日本でも数冊の本が出ています。音楽ビジネスによるクラシック界の腐敗について書き続けています。素 材の選びかたに主観が強く、誇張はやや多いものの、なかなか面白い視点を持つ作家だと思います。彼は今も、記事や論説を通じ、現代の音楽業界のあり方に警 鐘を鳴らし続けています。

最近、彼の「Life and death of classical music」という本を読みました。この人の英語はあまり読み易いものではないのですが、メジャーレーベルがいかに凋落していったかが克明に記されてお り、なかなか面白い本になっています。本の後半部に、「100 milestones of the recorded century」と、「20 recordings that should have not been made」という章があります。前者は、グールドのゴルドベルク変奏曲やリパッティのワルツ集などの定番に加え、コリン・デイヴィスの幻想交響曲、マリ ナーの「四季」など、イギリス人以外には理解できないような選択も多くあります。グラモフォン誌と同じく、イギリス人の自国趣味というのは誰でも相当なも ののようです。


「クラシック音楽は死んだ」
http://uk.reuters.com/article/lifestyleMolt/idUKL2628257720070426

http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601088&sid=aaC_hhclBSlI&refer=home

レブレヒトは、「THE LIFE AND DEATH OF CLASSICAL MUSIC」や、上の論文でも、アンドレア・ボチェッリらが100万枚も売れ続ける現状を憂え、「クラシック業界は死んだ」と言っています。「10年前、 6つのメジャーレコード会社から、700の新譜が出たのに、3つのメジャーから今は100も出ない。それも半分はクロスオーヴァーや映画音楽だ」と言って います。

彼 のあげた数字がどれだけ正しいかは置くとして、たしかに、例えばドイツ・グラモフォン(DG)一つとっても、70-80年代の勢いの残滓さえ感じることが できません。あの会社から、20-30年前の音源に内容で対抗できる魅力を持つ新譜が、はたしてどれだけでているでしょうか。レコード市場の飽和、巨匠時 代の終焉、実力不足のアイドルの起用、そしてmp3音楽ファイルの登場.............。いろいろな理由で、DGを始めとするメジャーがかつて のブランド力を失う材料が揃っています。レブレヒトの悲嘆は全く根拠なきものではありません。

メジャーレーベルもかつては野心的なプロジェクトが多くあったのです。ショルティ/カルショー/デッカの「指輪」が一例です。しかし、今やメジャーはリス クを怖れ、アイドル路線、無難なプロジェクト、それとフルトヴェングラーやカラヤンらの音盤の復刻しか興味がなくなってしまったように見えます。巨大な油 田を持つが故に近代化のチャンスを逃し、競争力と適応能力を失ってしまった中東国家のようなものです。

もちろん、このような状況を招いたのは、アーティストとプロモーターの側にも大きな責任があります。レブレヒトが「Maestro Myth」で指摘したように、アーティストの報酬は50年前とは比べものになりません。1955年の厳冬、デッカがシュトラウスの「影の無い女」を全曲録 音した際、指揮者のベーム、歌手、ウィーン・フィルの面々は無報酬で良いから、と、無名の大作の録音を躊躇するデッカを説得し、経費節減のために暖房さえ 止め、各幕ワン・テイクで録音したと言われています。まだ、アーティスト達の熱意と判断でそういうことができた時代でした。しかし、音楽がビジネスとな り、アーティストが商品となった今は、そんなことは不可能になっています。実際、同じデッカが、40年後に「影の無い女」をショルティらと録音した時は、 数億円という、録音歴史上でもっとも高額なセッションとなってしまいました。世界中の歌劇場を飛び回るようになったスター歌手をセッションに縛り付けてお くことの難しさ、ギャラの高騰といった問題は、80年代以降のオペラのスタジオ録音を非常に難しいものにしています。

それでも、私は、彼の「クラシック音楽は死んだ」という意見に同調しているわけではありませんし、彼の視野の狭さ、保守性に驚きさえ感じています。その理由を三つあげていきます。


1) インディーレーベルの台頭

レブレヒトが議論をしていない事が一つあります。マイナーレーベルの台頭です。

リスナーの興味の多様化に伴い、かつてなら歯牙にもかけられなかったようなインディーレーベル、ECM、BIS、Chandos, Naxos等から、多くの質の高い録音、興味深い企画の録音が出て、しかもそれが売れるようになりました。特に、メジャーの弱点とも言える北欧や東欧の音 楽、近代フランス音楽、現代音楽での躍進が顕著です。例えば、昨年暮れ、BISが出してきた「シベリウス全集」なども、特筆すべき企画でした。シベリウス のほとんどの作品を収めた13枚組が数千円、しかも、第一級の演奏、録音ばかりで、海外版でありながら、解説書には日本語の文章まで含まれていました。今 のメジャーに、ここまで消費者重視の姿勢が取れるでしょうか。そして、メジャーが同じ企画を同じ値段で出したとして、果たしてBISの全集の魅力と内容を 超えることができるでしょうか。もはや勢力地図が20年前とまったく変わってしまっているのです。レブレヒトのような地位にある人物がそういったことに全 く気づいていないとすれば、これほど不思議なことはありません。

TIMESも、「レブレヒトの主張には穴がある」と、インディーの隆盛を指摘しています。

http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/music/article1710177.ece

これによれば、昨年一年で、ナクソスは、238種のCD、700万枚を売っているそうです。しかし、周知のように、ナクソスの地位は一夜で出来たわけでは ありません。彼らが登場した時、私を含めてほとんどの人がナクソスを馬鹿にしていました(レブレヒトのナクソスに対する文章を読む限り、彼はいまだにその 偏見から抜け出せていないようです)。ナクソスの社長はこう述懐しています。

“We don't have to make money on everything so we do a lot of crazy projects -- the complete Pend-erecki, or the Naxos Quartets [by Peter Maxwell Davies]. But at the end of the day we have to make a profit, and although in the early days I subsidised it from other businesses, in the last five years I've had to live on Naxos and I do live very comfortably."

ナクソスの今の成功の裏には、英グラモフォン誌の強力なバックアップ、宣伝効果があったことは否定できません。しかし、それだけでなく、彼らは実際、数多 くの挑戦的な試みを行って来たのです。「日本人作曲家シリーズ」「シベリウスピアノ作品全集」「スクリャービンピアノ作品全 集」..............なかには質に問題のあるものもありましたが、いまでは曲の代表的な録音となったものも数多くあります。ニレジハージの録 音復刻に興味を示しているのも、今はそういったインディーレーベル達です。常に野心とチャレンジング精神を持つレーベルが多くある以上、「クラシック音楽 が死ぬ」ことは当分ないでしょう。


2) マルチメディアの発達

今は、DVDで、デジタルトランスファーされた映像のオペラのライヴ録音が安価に楽しめるようになりました。未発表の映像が毎月のように発表されていま す。この分野は発展途上で、例えば、リヒャルト・シュトラウスの「無口な女」「ダフネ」、アストル・ピアソラの「ブエノスノス・アイレスのマリア」と言っ た作品の映像が出る余地が残っています。また、既に映像を前提とした舞台作品も登場し始めています。小沢征爾と、「ライオン・キング」のジュリー・テーモ アの共同プロダクションによる、ストラヴィンスキーの「オイディプス王」などはその好例で、映像作品としてもきわめて高いレベルに達しています。

マルチメディアの発展も明るい材料です。雑誌や本にCDがつくことも珍しくなくなりましたし、当サイトのように本と連動させたサイトもあります。そして、 コンピューターの普及により、スクリャービンらのマルチメディア・アートを家庭で再現させることも不可能でなくなっています。Teldecから出たアーノ ンクールのモーツアルトの「レクイエム」の新録音も良い企画で、モーツアルトの自筆譜を見ながら演奏を聴ける、という興味深い趣向でした。こういった手法 を、若手演奏家の録音を出す時にどんどん使えば、過去の音源にはない魅力を与えることができるでしょう。ワーグナーの楽劇のライトモチーフの提示など、大 きな効果を発揮するはずです。楽譜だけでなく、サブ音声に演奏者によるコメントを収録するのもいいでしょうし、ファイルが重ければインターネットにサブ音 声や字幕を置いて、音声と連動させてもいいでしょう。少し前に、ジョイス・ハットーの捏造騒動がありましたが、その発想を逆手にとって、他人の演奏のリ ミックスで新しい演奏、モンタージュを作ることを目的としたCDがあってもいいでしょう。


以上の二点を考えてみても、決して、「クラシック音楽が死んだ」のではないのがあきらかでしょう。「60-80年代のメジャー・レコード会社主導方式の音 楽ビジネスが死んだ」だけの話なのです。レブレヒトは、カラヤン時代の音楽ビジネスの腐敗を追求しつづけるあまり、現代の最前線の動きを見失ってしまった のでしょうか。あるいは、彼が批判し続けた古い時代のシステムにノスタルジーを感じるようになってしまったかのでしょうか。もし後者だとすれば、これほど 皮肉なことはありません。


3) クロスオーヴァーは創造に欠かせぬもの

レブレヒトの悲嘆の理由の一つとして、「クロスオーヴァーと映画音楽がはびこっている」ということがあります。これは、私がもっとも同意できなかったことの一つでした。

http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=newsarchive&sid=aRcHjdWG_06U

このコラムでは、メゾソプラノのフォン・オッターが、DGから出したアルバムの数トラックに、自らが愛してやまないABBAの歌を入れていたことについて嘆いています。

"I'm not doing Benny's songs for a commercial reason," insisted Von Otter when I talked to her soon after the sessions in 2004. "No music makes me cry as his does -- like pushing a stupid button."

Her protestations notwithstanding, the refined trills of one of the finest Monteverdi and Handel singers of the day -- she performs "Theodora" in Paris and London this month -- are as wasted on the trivial ABBA ephemeral titles as a Michelin-starred chef would be in a drive-in McDonald's. What this dross is doing on Deutsche Grammophon, which the conductor Herbert von Karajan led to world classical dominance, is a matter for the conscience of a few senior executives at Vivendi SA's Universal Music Group, the yellow label's U.S.- based owner. They are dumbing down the musical content and quality faster than a Lang Lang piano prestissimo.

最高のモンテヴェルディやヘンデル歌手であるオッターが、DGで「とるにたらぬ」ABBAを歌うことは、「ミシュランのスターシェフがマクドナルドのドラ イヴインにいるようなもの」............この言葉に、クラシック音楽至上主義、メジャー・レーベル至上主義、というレブレヒトの保守性--- -しかも中途半端な保守性----がよく表れています。しかし、当のオッターが、「コマーシャル目的ではありません。(ABBA)の音楽ほど自分を泣かせ るものはないの」、と言っていることは、彼にはさして重要ではないのでしょうか。1920年代、ニレジハージがリストや、当時のポップスを弾いたことで非 難され、プログラムの改変を迫られたのです。まして音楽ビジネス隆盛の現在、ほとんどのアーティストは自身の録音内容を自分で決定できる状況にありませ ん。そのような中、数曲とは言え、オッターが、本当に歌いたい曲を録音したこと.........これは本当に素晴らしいことではないでしょうか。

クラシック界がクロスオーヴァーや映画音楽に手を出す事は、決して非難されるべきことではありません。モーツアルトもヴェルディも、かつて、大衆を十分に 意識したポップスミュージシャンと言える存在だったのです。モーツアルトの「後宮からの誘拐」など、オペラ全体が巨大なクロスオーヴァーとも言えます。も ちろん、安易なクロスオーヴァー、例えば、どこかの国のように、レコード会社にのせられたアイドル音大生が、甘ったるいアレンジで「イエスタデイ」を演奏 するようなCDばかりが氾濫するようなのは問題でしょう。しかし、演奏家達が、同時代の大衆音楽の作家を真摯に選び、それに取り組むのであれば、それは本 当に歓迎すべきことなのです。そして、現代音楽が魅力を失い、過去の大作曲家の作品が軒並み録音された今、演奏家達が大衆音楽や民族音楽に目を向けるの は、全く自然の流れなのです。ピアソラ作品がメーンストリームに躍り出、彼の自作自演盤に大きな注目が集まったのも、90年代のギドン・クレーメルやクロ ノス・カルテットによるクロスオーヴァーがあったからです。前述の小沢征爾とテーモアによる「オイディプス王」にしても、ミュージカル、モダン・ダンス、 オラトリオの優れたクロスオーヴァーでした。

レブレヒトのように、クロスオーヴァーを否定する態度こそが、クラシック音楽を博物館の陳列棚に押し込め、未来の発展の可能性を殺してしまうものなのでは ないかと危惧します。巷の音楽愛好家ならともかく、彼のように多少なりとも影響力のある人物は、時代の流れを正確に見極める眼と、より慎重な判断をもって 発言すべきではないでしょうか。


7.23.2007

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